ブルボン家

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ブルボン家(Maison de Bourbon)は、ヨーロッパの王家で、フランス王家カペー家の支流のひとつ。現在のスペイン王家であり、ルクセンブルク大公家も父系では属している。

ブルボン(Bourbon)の語源はケルト語で「泥」(Borvo, もしくは Borbo)の意味である。

目次

[編集] 起源

ルイ9世の第6子であるクレルモン伯ロベールが婚姻によりフランス中部ブルボンの所領を獲得し、その子ルイ1世がフランス王シャルル4世によりブルボン公に叙せられたのがブルボン家の起こりである。

[編集] 歴代ブルボン公

  • シャルル3世(1505年 - 1527年) - シャルル1世の弟モンパンシエ伯ルイ1世の孫。シュザンヌと結婚してブルボン公を継承。国王フランソワ1世によりブルボン元帥に叙されるが、後に家産を没収される。その後、神聖ローマ皇帝カール5世に仕えてイタリア戦争でフランソワ1世を捕虜にするなどの活躍をしたが、1527年にローマで戦死した。ローマ略奪は司令官であるシャルル3世の死によって引き起こされた。
  • シャルル4世(1527年 - 1537年) - ピエール1世の弟ラ・マルシュ伯ジャック1世から5代目の末裔。ジャック1世の子ジャン1世は婚姻によりヴァンドーム伯位を獲得し、次男ルイから3代にわたり継承されていたが、シャルルの代に至ってヴァンドーム公に昇叙された。のち、シャルル3世の死により宗家が断絶したため、ブルボン公位と所領を相続した。
  • アントワーヌ(1537年 - 1562年) - シャルル4世の子。ジャンヌ・ダルブレとの婚姻によりナバラ王位を獲得した。ナバラ王の称号はアンリ4世からフランス・ブルボン家の歴代の王によって継承された。
    • アントワーヌの弟のうち、ブルボン枢機卿シャルルは国王アンリ3世の死後に甥アンリ4世の対立王に擁立されたが、間もなく死去した(シャルル10世、1589年 - 1590年)。末弟のコンデ公ルイ1世はコンデ公家(ブルボン=コンデ家)の祖である。

[編集] フランス・ブルボン家

フランスブルボン朝も参照

アントワーヌとジャンヌ・ダルブレの子アンリは、父からブルボン公およびヴァンドーム公位を、母からナバラ王位を継承していたが、ヴァロワ家断絶の後を受けてフランス王位を継承した(アンリ4世)。ルイ14世のとき絶対君主制を確立したが、フランス革命で一時中断、復古王政ののち1830年7月革命をもって嫡流はフランス王位を失った。

[編集] 歴代国王(フランスとナバラの王)

[編集] 復古王政

[編集] スペイン・ブルボン(ボルボーン)家

スペインの歴史も参照

スペインアブスブルゴ(ハプスブルク)家が断絶した後、1700年にフランスのルイ14世が孫のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)をスペイン王に即位させた。この企てはスペイン継承戦争を招いたが、戦争の結果各国が即位を承認し、ボルボーン朝が成立した。1931年アルフォンソ13世が退位した後、長く王位を失っていたが、1975年に孫のフアン・カルロス1世が即位して王制が復活した。

[編集] 歴代国王

[編集] カルリスタ

フェルナンド7世死後、その娘であるイサベル2世が即位したが、フェルナンド7世の弟であるモリナ伯カルロスはこれに反発して、カルロス5世として独自に即位した。以後、スペインはイザベル2世派とカルロス5世派とに分かれて内戦が勃発した(カルリスタ戦争)。 カルロス5世及びその子孫を支持する一派をカルリスタと呼ぶ。最後の男系当主であるサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(アルフォンソ・カルロス1世)が死去した後は、カルリスタはそれぞれ独自の王を立て、分裂している。なお、モンティソン伯フアン・カルロス(フアン3世)以降は、フランス・ブルボン家が断絶したことに伴い、レジティミストの要請により名目上のフランス王位も兼ねている(後述)。

  1. モリナ伯カルロス(カルロス5世、1833年 - 1845年)
  2. モンテモリーン伯カルロス・ルイス(カルロス6世、1845年 - 1861年) モリナ伯の長男。
  3. モンティソン伯フアン・カルロス(フアン3世、1861年 - 1868年) モリナ伯の次男。フランス王位請求者。
  4. マドリード公カルロス(カルロス7世、1868年 - 1909年) モンティソン伯の長男。フランス王位請求者。
  5. マドリード公ハイメ(ハイメ3世、1909年 - 1931年) マドリード公カルロスの長男。フランス王位請求者。
  6. サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(アルフォンソ・カルロス1世、1931年 - 1936年)  モンティソン伯の次男。フランス王位請求者。

[編集] ナポリ・シチリアのブルボン(ボルボーネ)家

イタリア南部のナポリ王国シチリア王国はもともとアラゴン王国の支配下にあったが、アラゴン王国がスペインに統合されることによって、スペイン王家の支配を受けるようになった。ナポリとシチリアは形式的に分かれているだけで、どちらもスペインの支配下にあり、フランス・ブルボン家がスペイン王となるに及んで、ブルボンの支配はこれら王国にも及んだ。ところが、スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世即位後勃発したスペイン継承戦争オーストリアがナポリとシチリアを占領した。オーストリアの支配は1707年から1734年まで続いた。

ポーランド継承戦争中、フェリペ5世の王子でパルマ公だったドン・カルロスが武力でナポリとシチリアを奪回し、ナポリとシチリアの王カルロ7世となった。ここにブルボン家は南イタリアをも獲得したことになる。その後、カルロ7世はスペイン王位に即位してカルロス3世となり、ナポリとシチリアは息子のフェルディナンドに譲った。これがナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)である。

19世紀始めのナポレオン戦争でナポリは一時フランス帝国の支配下に落ちたが、1816年ウィーン条約によって返還され、両シチリア王国として再出発した。ナポリ王フェルディナンド4世(=シチリア王フェルディナンド3世)は両シチリア王フェルディナンド1世となった。両シチリアのブルボン家は4代続いたが、1860年ガリバルディに征服され、統一イタリア王国に併合された。

[編集] ナポリ・ブルボン家歴代国王

[編集] シチリア・ブルボン家歴代国王

  • カルロ7世(1734年 - 1759年)
  • フェルディナンド3世(1759年 - 1816年)

[編集] 両シチリア王国歴代国王

[編集] パルマのブルボン(ボルボーネ)家

イタリア北部のパルマ公国ファルネーゼ家によって建てられた国であるが、ファルネーゼ家が断絶した際に、フェリペ5世の王妃エリザベッタ・ファルネーゼの尽力によって息子ドン・カルロス(カルロス3世)が公位を継承した。その後パルマはポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家に渡るが(ドン・カルロスは代わってナポリとシチリアの王位に就く)、オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約で再びスペイン・ブルボン家に戻り、カルロスの弟フィリッポが公位に就いた。このフィリッポの家系をブルボン=パルマ家(ボルボーネ=パルマ家)と呼ぶ。

フィリッポの死後は息子フェルディナンドが公位を継いだが、パルマはナポレオン・ボナパルトに征服され、フェルナンドの息子ルドヴィーコは新たに建てられたエトルリア王国の王位に就けられた。エトルリア王国はルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコの代にフランスに併合され、カルロ・ルドヴィーコはウィーン会議の結果ルッカ公となったが、ルッカ公国は1847年にトスカーナ大公国に併合され、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公位を得た後に死去した。

その後、パルマ公は2代続くが、パルマ公国は住民投票によって1860年にサルデーニャ王国に併合して消滅した。因みに、最後の公ロベルト1世の第6子であるフェリックスルクセンブルク大公シャルロットと結婚し、その家系は現在まで続いている。従って、ルクセンブルク大公家はルクセンブルク家あるいはナッサウ=ヴァイルブルク家の家名を用いているが、父系ではブルボン家の後裔ということになる。

[編集] レジティミスト

フランス革命以後もブルボン家をフランス王家として支持した王党派をレジティミスト(Legitimists)あるいは正統派という。彼らはボナパルト家支持者であるボナパルティスト、あるいは同じく王党派とされるがオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と対立しながら、今日まで存在し続けている。

シャルル10世の孫、シャンボール伯アンリ・ダルトワの死によってルイ15世の男系男子が絶えると、レジティミストの一部はオルレアニストに合流したが、一部はサリカ法に基づいてスペイン・ブルボン家の王族をフランス王家継承者に推し、今日に至っている。

現在はスペイン・ブルボン家の分家のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーンが「ブルボン家家長」「フランス王ルイ20世」として支持されている。これに対してオルレアニストはパリ伯兼フランス公アンリ・ドルレアン(アンリ7世)がフランス王位を主張している。オルレアン家は「パリ伯」の称号をレジティミストから認められているが、ルイス・アルフォンソが用いている「アンジュー公」の称号をフランス公は認めておらず、フランスの裁判所に提訴したことがある(提訴は退けられた)。

[編集] レジティミストのフランス王位請求者(7月革命以後)

[編集] ブルボン家と近親婚

ブルボン家(と言うよりは、カペー家の一族全体)は、初期から一族内で近親婚を繰り返し、それに伴う弊害をもたらしてきた。それはブルボン公時代の、シャルル5世の后であるジャンヌの発狂で現れた。そして、フランス王位を継承し、更にはスペイン、ナポリ、シチリアの王位も獲得すると、王位を安定化する為に一族間で血族結婚を頻繁に行った。国内に於いても、ブルボン系の有力貴族間で血族結婚が行われた。1750年代の外交革命に伴い、同じく血族結婚が盛んであったハプスブルク家と縁組を頻繁に行うようになった。その結果、両家で早世したり、或いは成人しても身体に障害を持つ者が続出したのである。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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