ステパーン・バンデーラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ステパーン・バンデーラ(1934年)
「バンデーラは我々の英雄だ!」。ドネーツィクでのサッカー試合(2010年)

ステパーン・バンデーラウクライナ語Степан Бандера1909年12月1日1959年10月15日)は、ウクライナの政治家、ウクライナ民族解放運動の指導者である。

概要[編集]

アンドリーイ・バンデーラ神父の息子。オーストリア・ハンガリーガリツィア地方スタルィーイ・ウフルィーニウ村(現ウクライナ、イヴァーノ=フランキーウシク州)で生まれた。1928年ウクライナ軍事組織の一員となり、1929年ウクライナ民族主義者組織(OUN)に入党した。1931年にOUNの西ウクライナ支部の幹部に入り、1932年に同部の副幹事長に選ばれ、1933年に幹事長となった。ポーランド政府が西ウクライナで行った同化政策とウクライナ人の弾圧に対しテロ対策を打ち出した。1935年にポーランドの警察により逮捕され、1936年ワルシャワ裁判とリヴィウ裁判において極刑の判決を受けたが、無期懲役に処せられた。1933年から1939年にかけてワルシャワの刑務所「聖十字架」に収容されていた。第二次世界大戦がきっかけでポーランド共和国が滅亡すると、ドイツ軍によって開放され、OUNの幹部に戻ってOUNの中で過激派の野党のリーダとなった。1941年4月に第2ウクライナ民族主義者組織大会においてOUNの総裁に選ばれ、独ソ戦争の直前にドイツ側の支持した。しかし、1941年6月30日にドイツ軍に占領されたリヴィウでウクライナ国独立の復帰を宣言すると、ドイツ政府に逮捕され、7月6日ザクセンハウゼン強制収容所に送られた。その出来事によってウクライナにおける対独・対ソの戦いの象徴となった。1944年9月に連合軍によって解放されたが、ソ連に占領されたウクライナへ戻れず南ドイツへ移住した。1952年にOUNの幹部を離れたが、西ウクライナでソ連軍に抵抗を続けていたウクライナ蜂起軍の司令部と連携をとった。1956年から1959年にかけて海外のOUNの活動を管理した。1959年10月15日ミュンヘンKGBスパイボグダン・スタシンスキーen:Bohdan Stashynsky)によって暗殺された。バンデーラの名は20世紀半ばにおけるウクライナ民族解放運動の代名詞となっている。右派・左派を問わず、ウクライナポーランドロシアなどで活躍している反ウクライナ団体はバンデーラを敵視し、ウクライナ人を「バンデーラ主義者」(バデーロフツィ)と呼ぶことがある。

参考文献[編集]

  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (日本語)中井和夫著 『ウクライナ・ナショナリズム』東京大学出版会、1998年.
  • (ウクライナ語) Дужий П. Степан Бандера – символ нації, ч. 1–2. Львів, 1996–97.
  • (ウクライナ語) Кук В. Степан Бандера. Івано-Франківськ, 1999.

外部リンク[編集]