スチンソン

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スチンソン・エアクラフト
企業形態 コーポレーション
業種 ゼネラル・アビエーション
設立 1920年
本拠所在地 オハイオ州デイトン
代表者等 "エドワード" スチンソン, 創業者
1928年製造のスチンソン SM-2 ジュニア
スチンソン SM-6000B 旅客機
1939年製 スチンソン HW-75 (105とも呼ばれる). 合計535機生産された。(1939年に275機、1940年に260機)
スチンソン V77 リライアント

スチンソン・エアクラフトStinson Aircraft Company )は1920年代から1950年にかけて存在したアメリカ合衆国の航空機メーカーである。


歴史[編集]

創業者のエドワード・スチンソン(1894-1932年)は1910年代の始めからパイロットになり[1]、1920年にオハイオ州デイトンスチンソン・エアクラフトStinson Aircraft Company )を設立した。会社設立の5年後にミシガン州デトロイトで彼の事業計画に対して出資を集めた。デトロイト商工会の航空委員会はスチンソンのスチンソン・航空・シンジケートの設立を支持して1925年にデトロイトの南西の現在のデトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港の場所で設立され新型の単葉機であるSM-1 デトロイターの開発に$25,000ドル提供した。同機は1926年1月25日に初飛行と夜間飛行に成功してスチンソンは$150,000ドルの公募による資金で1926年5月4日にスチンソン・エアクラフトを設立した。エドワードは常に飛行家であり続け曲芸飛行で当時としては巨額の年間10万ドルを稼いでいた。スチンソン・エアクラフト社は1926年に10機のSM-1を販売した。事業は着実に拡大し、スチンソンは1929年に121機を販売した。 1929年9月に自動車事業の大物であるErrett Lobban (E.L.) Cordがスチンソンの株式の60%を買収し、彼のCord社がスチンソンに新設計を追求しながら競争力のある価格で航空機を販売できるように追加投資した。1930年の大恐慌時にスチンソンは4席のジュニアから3発機のスチンソン6000まで6機種を販売していた。

創業者のエドワード・スチンソンは1932年11月26日にシカゴで航空機事故で38歳で死亡、会社は1940年にバルティに吸収された。エドワードは当時のパイロットの誰よりも長い16000時間以上の飛行歴があった。スチンソンの名前は第二次世界停戦後も続き、戦後コード社、アブコ社、を経てコンベアの前身の一社であるバルティに買収された。バルティはスチンソンのブランドでスチンソン108という軽飛行機を作ったが1950年にパイパー・エアクラフト社に売却された。パイパーでもスチンソン108は一時期生産された。パイパーはスチンソンの元の設計("ツイン・スチンソン")を改良した世界初の全金属製双発ゼネラル・アビエーション航空機であるパイパー・アパッチで成功を収めた。

製品としてはアメリカ陸軍の連絡機L-5センチネルなどが有名である。

関連項目[編集]

出典[編集]

脚注
  1. ^ 彼の姉妹も飛行家になり、キャサリン・スティンソンは来日し1916年に青山で夜間飛行を公開したことで知られている。

外部リンク[編集]