スキーブーム
スキーブームとは、日本において、1980年代後半から1990年代前半にかけてスキー人口が非常に増えた事象のことである。
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[編集] 概要
1987年に公開された映画『私をスキーに連れてって』を契機として全国的にスキーのブームが起こり、レジャー白書によれば、最盛期であった1993年には1860万人にまで増加した。ちょうど同映画がバブルの時期に重なったこと、週休二日制の一般化、スキー用品の低価格化、企業の多角経営によるスキー産業(不動産、スキー用品)への参入、既存のスキー場の拡張、新規のスキー場の営業開始、各高速道路、東北、上越新幹線などの交通網の整備等を社会的背景として、スキーがレジャーとして一般市民に広がった。この当時はまだスノーボードは一般化していなかった。
また、その頃、各地のスキー場付近の高原エリアにリゾートマンションが急速に建設され、販売されると、すぐに売り切れとなった。新潟の湯沢町は例となる。 それらの急なリゾートマンションの建設によってその地域での水不足が心配されることもあった。
JRのスキー臨時列車「シュプール号」が設定されたのもこの頃で、国鉄末期の1986年に運転を開始、関東・中京・近畿から長野県・新潟県をメインに、近畿からは山陰へも、関東からは東北方面へも運行された。寝台特急「北斗星トマムスキー/ニセコスキー」が運行されていたのもこの時期である。同じ時期にJR北海道では札幌や千歳空港からトマム・富良野・ニセコへのリゾート特急を、東武鉄道では南会津へのスキーヤー向け夜行列車「スノーパル」の運行を開始している。
大都市からスキー場へのツアーバスも多数運行されたが、スキー場へのアクセスは自家用車が多かったため、大都市からスキー場エリアへの高速道路や並行する幹線道路は断続的な渋滞が発生していた。 たとえば、関越自動車道では、通常の金曜の深夜にかかわらず50km以上の渋滞が生じたり、都内の環八においては、東名高速用賀インターから関越道東京側入口となる練馬まで15km程度の距離であるにもかかわらず、3時間~5時間かかる事もよくあったという。
ブームの真っ只中である1990年前後には林間学校や修学旅行(特に高校)がスキーという学校もかなりあった。
1993年には、屋内スキー場として日本最大であった、ららぽーとスキードームSSAWSが開業し同ブーム終焉後の2002年に閉鎖された。
[編集] スキーブーム下における他産業の対応
1992年、東京ディズニーリゾート(TDL)の客が減ったため、オリエンタルランド側のCMで、「スキーよりミッキー」という宣伝を行った。このCMのストーリーは、スキーに向かう途中の車の中で、渋滞にうんざりする仲間のうちの一人の女性が「スキーよりミッキー」と突然言い出し、スキー板を積んだ車のまま、ディズニーランドの駐車場の入り口に同様の車が向かうというもので、スキー業界の人々に驚きを与えた。事実、 スキーブームには、TDLの入場者数が減っていた。
楽器メーカーでは、ヤマハが音源内蔵シーケンサーQY10を1990年に発売している。これは、「スキーバスの中に持ち込んで手軽に作曲が楽しめるもの」というコンセプトの下で設計されている。
[編集] スキーブームの終焉、衰退
しかしバブル時代の象徴とも言われたこのスキーブームも、その崩壊とともに鎮静化に向かった。80年代以降一貫して増加していたスキー人口は、バブルの残り香が漂っていた1993年の1860万人をピークに減少に転じ、スノーボード人口の増加や1990年代より慢性的に続く暖冬傾向による雪不足も相まって、2000年代前半には800万人を割るなど約10年で、ピーク時の3分の1にまで減少し、それに伴いスキー場も約2割減少した。2000年代後半以降は減少の度合いは比較的緩やかになっているものの、客層の主体が中高年が多くを占めるようになるなど、若者のスキー離れは依然歯止めがかからない状態が続いている。
[編集] 本業以外からのスキー場経営参入企業
- ダイエー(安比高原スキー場、リクルートから買取)
- 松下興産
- 東急グループ(栂池、八方尾根、岩岳、グランデコリゾート、蓼科東急スキー場)
- 京王グループ(妙高赤倉の一部)
- JR東日本(GALA湯沢スキー場、スキー場の為に新幹線駅を設けた。)
- 中京テレビ(白馬47スキー場)
- NEXCO東日本(パラダ)
※かつてスキー場経営に参入していた企業
- ヤマハ(キロロリゾート、つま恋、キロロリゾートは2007年(平成19年)10月1日に三井不動産子会社の三井不動産リゾート株式会社に譲渡しており、つま恋は現在スキー場を閉鎖している)
- リクルート(安比高原スキー場、上記のダイエーに譲渡している)
[編集] 本業以外からのスキー用品参入企業
- ダイワ精工(釣具)