スウェーデンの歴史

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本項ではスウェーデンの歴史を記す。スウェーデンスカンディナヴィア半島東部に位置する南北に長い国土を有する国である。同じ北ヨーロッパに属するデンマークノルウェーフィンランドのみならずバルト三国ロシアポーランドにさらにドイツとの間でも戦争外交が展開された歴史を持つ。また近代においては武装中立を国是とし、世界有数の福祉国家を建設したことも注目すべき点であろう。

概史[編集]

先史時代から古代[編集]

発掘調査などによれば、今のスウェーデンにおける人類の痕跡は、紀元前1万年ころに遡れる。このころには人が定住し、紀元前3000年ごろには農業を営み、青銅器を使用していたとされる。スウェーデンについての最古の記録は古代ローマの歴史家タキトゥスの「ゲルマニア」に書かれた、「スイーオネース」の記録であろうと考えられている。タキトゥスによれば彼らスイーオネースはバルト海に浮かぶ島(当時スカンディナヴィア半島は島だと考えられていた)に住み、陸上戦力のみならず水軍を持ち、勢力を振るったという。

ヴァイキングの時代[編集]

スカンディナビアには北ゲルマンの諸部族の小王国が乱立していたが、次第にスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3王国に収斂されて行った。彼らはローマ人やフランク王国から「北の人(「ノルマンニ」あるいは「ノルマン人」)」と呼ばれ、船団、艦隊を組織し、バルト海から北海沿岸での交易、略奪を行った。特に略奪を行うノルマンニは「ヴァイキング」と呼ばれ、9世紀にはその剽悍、野蛮を怖れられた。

彼らのなかにはデンマーク・ノルウェー・バイキングのようにアイスランドからグリーンランド、さらにアメリカ大陸に到達、植民したものもいたが、スウェーデン・ヴァイキングは主に、東方へと進出し、ドニエプル川ヴォルガ川を遡り、東ローマ帝国イスラム世界と交易などの接触を持った(それ以前にバルト海を掌握していた可能性もある)。またロシア平原に定住し、8世紀から11世紀までにノブゴロド公国キエフ大公国などルーシ諸国の建国者となった。東スラヴ人側からの伝記では、彼らは「ヴァリャーグ」と呼称されているが、これがスウェーデン・ヴァイキングであるかは定かでない。少なくとも彼らがゲルマン人の一派である事は確認されている。

このようにヴァイキングとして各地に探検、植民をしてきたが、彼らの発祥の地であるスカンディナヴィア半島東では9世紀頃からスヴェア人の王国が建国され、自然崇拝による祭祀が営まれた。10世紀にはキリスト教が伝来し、幾分の抵抗をともないながらも受容されて行った。

統一王国の誕生とカルマル同盟[編集]

12世紀になるとエーリク9世によるフィンランド進出(北方十字軍)が行われ、ヴァルデマール王を開祖とするフォルクンガ朝のころにはフィンランド南部を併呑した(スウェーデン=フィンランドの形成)。この十字軍は、1300年頃まで継続し、1323年ノヴゴロド公国に対してシュルッセルブルグの和議を結ぶことによって終了した。

このようなスウェーデン王国は発展していく中で、王と貴族たちの争いが激化して内部の弱体化が進んだ。1397年にはデンマークノルウェー摂政であるマルグレーテ1世のもとでカルマル同盟が結成され、スウェーデンはデンマークの支配を受けることになった。

デンマーク支配に対するスウェーデン人の抵抗運動は絶え間なく展開され、デンマークによる弾圧1520年クリスチャン2世による「ストックホルムの血浴」で極点に達した。このような弾圧に対し、スウェーデン人はグスタフ・ヴァーサを指導者として蜂起した。ハンザ同盟の助力も得て独立を勝ち取り、ヴァーサ朝が開基された。

「北方の獅子」と「北方のアレクサンドロス」[編集]

バルト帝国の時代のスウェーデン。現在の濃い色に加え薄い色の範囲まで。

ヴァーサ朝はバルト海沿岸に領土を拡大させ、グスタフ2世アドルフのころには身分制議会が置かれ、さらに重商主義政策を推進し、北アメリカデラウェア植民地を建設したほか(ニュースウェーデン)、各種産業を保護育成した。

グスタフ2世アドルフは「北方の獅子」とよばれ、デンマーク、ポーランド・リトアニア共和国ロシア・ツァーリ国と争い、リガなどバルト海沿岸を征服支配、バルト帝国を確立した。ポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)の戦乱につけこんでスウェーデン軍を上陸させ国内各地を荒らしまわったが、オスマン・トルコ対策を一段落させて南方から戻ってきたポーランドの名将スタニスワフ・コニェツポルスキに撃退された。その後、1618年に始まる30年戦争には1630年プロテスタント側に味方し介入。ポンメルンからバイエルンまで破竹の進撃をしたがリュッツェンの戦いで戦死した。国王の戦死を受けて宰相ウクセンシェルナハイルブロン同盟の結成など画策しつつ戦争を続行し、中央ヨーロッパに進出、1648年ヴェストファーレン条約ではスウェーデンは戦勝国となった。しかしグスタフ2世アドルフの後継者クリスティーナは、この条約で要求の半分の賠償金、西ポンメルンの獲得など大幅な譲歩をした。

クリスティーナは政治より学問に関心があり、デカルトなどを宮廷に呼んで哲学的思惟に耽ったりした。そして財政危機などを招いて退位し、ローマで余生を過ごした。クリスティーナの退位によって、プファルツ選帝侯家の傍系プファルツ=クレーブルク家が王位に即いた。クリスティーナの女系の従兄である初代国王カール10世は、1655年からポーランド、デンマークと戦争を起こし1661年まで続いた(北方戦争)。この時代が、スウェーデンの絶頂期とも言われている。その後、カール11世1680年に土地改革を行って自作農を増やしたり、国力の増強に努めた。この時代、プロイセンの勃興やデンマークの復讐戦などに手を焼いたものの、バルト帝国は維持され、絶対王政が開始された。しかしスウェーデンの国力は大陸国家の範疇を出ず、植民地帝国の形成にまでは至らなかった。

1697年カール12世が即位すると、バルト海の出口を求めるロシアのピョートル1世、デンマーク・ポーランド連合軍と1700年に始まる大北方戦争を戦った。スウェーデンはナルヴァの戦いに勝利し、カール12世は「北方のアレクサンドロス」の異名をとった。スウェーデンは一時ポーランドを傀儡国家にすることに成功するが、1709年ポルタヴァの戦いで敗北すると、カール12世はオスマン帝国に落ち延びた。劣勢は覆せず、1718年にカール12世は急死した。その妹ウルリカ・エレオノーラが即位するが、戦況はスウェーデンに不利に転じ、1721年ニスタット条約リヴォニアエストニアカレリアなどバルト海沿岸の覇権を喪失した。

スウェーデンの没落[編集]

このころからスウェーデン宮廷ではメッソナ党ハッタナ党による派閥争いが熾烈を極め、王権は弱体化し、派閥に属する貴族による議会が国政を取り仕切る「自由の時代」となった。比較的平和な時代が続き、生物学リンネなどが活躍し、学芸が大いに発展した。しかしスウェーデンの対外的国力は低下していき、かつての「バルト海の覇者」の面影はなくなってしまった。

このようなスウェーデンの没落を憂慮したグスタフ3世クーデターによって絶対君主制を復活させ、強力に内政を充実させ、外交ではフランス王国と提携し、エカチェリーナ2世時代のロシア帝国と対抗した。グスタフ3世はスウェーデン中興の実を挙げたが、暗殺された。

その後、フランス革命が起こり、ナポレオン1世が登場すると、スウェーデンは第三次第四次対仏大同盟に参加したが、敗北した。1809年にはフランス帝国の強制でフィンランドをロシアに譲渡することになった。この年、国王グスタフ4世が廃位され、立憲君主制に体制を改め、翌年にナポレオンの元帥ベルナドットを王太子に迎えた。後のカール14世ヨハンである。スウェーデンは王太子カール14世ヨハンの元でヨーロッパの解放に重要な役割を果たし、ナポレオン戦争において戦勝国となった。しかしフィンランドの奪還は諦め、代償としてノルウェーの獲得に留まる事となった(キール条約)。スウェーデンは戦勝国であったが、フィンランドや西ポメラニアなど、大陸側の領土を失った(ウィーン会議)。しかしフランス人であるベルナドットの合理的な思考の元で、スカンディナヴィア半島の統一を幸運にも成し遂げ、以後のスウェーデンは保守主義に転じ、北欧はより一体化していく(スウェーデン=ノルウェー)。

スウェーデンの近代[編集]

ナポレオン戦争後のスウェーデンは、カール14世の政策により今日の中立の芽が蒔かれたが、19世紀半ばになると、北欧全土が列強の脅威にさらされる事となり、スウェーデンを中心に汎スカンディナヴィア主義(ノルマン主義)と呼ばれる運動が、北欧諸国民の間で盛んになった。これは列強への対抗心からの北ヨーロッパ統一の機運の高まりであった。この運動を利用して、オスカル1世の大国復興を巡る駆け引きが行われたが、王権の低下と共に挫折した。

1872年に即位したオスカル2世は、汎スカンディナヴィア主義の幻想をドイツ帝国汎ゲルマン主義と重ね合わせたが、もはや国王の統治権は形骸化しつつあり、国王による国家牽引は時代遅れであった。その後スウェーデンでは民主化が進められ、1866年には二院制議会が置かれ、さらに1908年には成人男子による普通選挙制度が導入され、1920年には労働者を支持基盤とする社会民主労働党が政権を獲得した。

ナポレオン戦争以後は戦争に直接参加しなかったため、スウェーデンには平和が到来した。学芸と科学技術が大いに発展し、探検家ヘディン、作家ストリンドベリ経済学者ヴィクセルダイナマイトの発明者でノーベル賞の設立者ノーベルなどの偉人が現れた。

1905年には平和裏にノルウェーの独立を認め、さらに第一次世界大戦第二次世界大戦でも中立を維持し、国連の第2代事務総長ハマーショルドを出すなどノルディック・バランスを維持し、NATOにも加盟しないなど、武装中立政策を貫徹した。

スウェーデンの現在[編集]

スウェーデンが世界に誇る福祉政策は、1932年から1976年まで続いた社会民主労働党政権によって推進された。この政策は第2次世界大戦後の経済成長期にスウェーデンを世界有数の「福祉大国」(福祉国家論におけるスウェーデン・モデル)にすることに成功したが、1990年代には行き詰まりを見せはじめた。1991年の総選挙で半世紀ぶりに政権交代がなされ、保守政権が誕生した。しかしこの政権は経済運営に失敗し、1994年には社会民主労働党が政権を奪還する。新政権は福祉政策の弱点であった国際金融での立場の弱さを克服するため、EUの加盟にこぎつけた(1995年)。社会民主労働党政権は、経済を順調な成長軌道に乗せ、1997年には財政再建に成功する。再建された財政でスウェーデン人は再び福祉政策を増強することを選び、現在に至っている。

内政においては、様々な問題を抱えているものの好景気を維持し、外交ではサーミ人の保護、欧州統合への参加による武装中立の放棄、イラク戦争への派兵反対など、積極的な国際活動を行って、その存在感をアピールしている。またバルト三国に対する干渉も冷戦中から行われており、冷戦後には北欧資本の輸出の中心となるなど、この地域におけるスウェーデンの影響力は現在も強い。また文化面においても、ポピュラー音楽ノーベル賞など世界的流行を発信し続けている。

年表[編集]

スウェーデンの王朝(独立後)[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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関連項目[編集]