ジンギスカン (グループ)

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ジンギスカン
Dschinghis Khan
別名 Genghis Khan (別表記)
出身地 西ドイツの旗 西ドイツミュンヘン
ジャンル ディスコポップ・ミュージック
活動期間 1979年 - 1985年2005年2007年 -
レーベル Jupiter Records
公式サイト dschinghis-khan.com
メンバー Henriette Strobel
Edina Pop (Marika Késmárky)
Claus Kupreit (Prince Igei Khan)
Angelika Erlacher (Eltuya Khan)
Benjamin Schobel (Fürst Ögödei Khan)
旧メンバー Steve Bender
Louis Hendrik Potgieter
Leslie Mándoki
Wolfgang Heichel
2009年ライヴ
ジンギスカン

ジンギスカンドイツ語: Dschinghis Khan)は、1979年から1985年にかけて世界的に活躍した西ドイツ音楽グループ。以降も何度も再結成されている。

概要[編集]

1979年にデビューした西ドイツのミュンヘン出身の男女6人組(後に5人組となる)の音楽アーティストグループ。「ジンギスカン」や「めざせモスクワ」などが世界的に大ヒットし、1979年にはドイツ映画『Sunnyboy und Sugarbaby』でDschinghis Khanとして出演しパフォーマンスもしている。

1985年に解散したが、2005年12月にスティーヴの尽力で再結成され、1985年から20年ぶりにDschinghis Khanの活動を再開させることが報道された。1994年11月12日に43歳の若さで他界していたルイスと議員を目指していたことで参加を見合わせたレスリーを除くオリジナルメンバー4人に、シュテファン、エプル、ダニエルのゲストダンサー3人を加えたメンバーによる初のライブが12月17日モスクワオリンピックアリーナで行われた。スティーヴはこの時すでに末期肺がんに侵されており、メンバーも周知の上で再結成に同意している。

翌年の2006年5月7日にスティーヴが63歳で他界し、残ったオリジナルメンバーのエディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングの3人が話し合った末、翌2007年からは新たに7人からなる「遺産(The Legacy)」というバックダンス&コーラス集団[1]を加え活動を続けている。2014年以降ヴォルフガングがパフォーマーを引退したため、オリジナルメンバーはエディナとヘンリエッテの2人のみとなっている。

エディナとヘンリエッテは2018年3月25日[2]にラルフ・ジーゲルと再度長期契約を結んだ。

2018年より、本家Dschinghis Khanとヴォルフガング・シュテファンのDschinghis Khanに分かれて活動しており、ヴォルフガング・シュテファン側については本家も把握出来ておらず分裂状態である。 ヴォルフガング・シュテファン側は2019年のDschinghis Khan40周年には日本を含む各国ライヴを行う予定を進めた(本家側は知らない)。

2022年3月、ウォルフガングがFacebookでシュテファン側とのDschinghis Khanを脱退していたことを明らかにした。理由としては「決定的な方向の違い」との事。また、同時期にエディナ・ヘンリエッテ側のDschinghis Khanには公式マークが着くようになった。

グループ名[編集]

グループ名は、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーン」のドイツ語表記のジンギス・カン(Dschinghis Khan)に由来する。このグループ名は英語圏でもドイツ語表記のままで受け入れられている。しかし、日本版CDでは契約の関係から、英語表記に由来するジンギスカン(Genghis Khan)が用いられている。

2005年の復活の後に開設された公式Webサイトは「ジンギス・カンとジンギスカンの遺産(Dschinghis Khan & The Legacy of Genghis Khan)」と名乗り、1979年以来のオリジナル・メンバーを「ジンギス・カン(Dschinghis Khan)」、2007年に招集したバックダンス&コーラス集団を「ジンギスカンの遺産(The Legacy of Genghis Khan)」と呼び、サイト内の情報を分類・整理している。

しかし、2018年4月6日[3]より、ヴォルフガング・ハイヒェルが本家とは別に「Dschinghis Khan」を名乗り、シュテファンと組んで活動している。2019年に40周年記念ライブで日本を含む各国を回りたいと語っていたが、ファンの質問メールに本家側は「ヴォルフガング、シュテファンとは全く活動していないし、40周年記念ライブについても知らない」と答えており、実質、Dschinghis Khanは分裂状態となっている。

結成[編集]

1979年、西ドイツの音楽プロデューサーラルフ・ジーゲル (Ralph Siegel)と、経済学者であったベルント・マイヌンガー (Bernd Meinunger)が、当時人気を博していた西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』 (Rasputin) をモデルとして『ジンギスカン』という楽曲を作った。それをヨーロッパポップ・ミュージック登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に応募するために6人のメンバーが集められ、結成したのが、このグループである。

6人の内、ルイスだけが企画当初からメンバーとなることが決まっており、彼を除く5人はオーディションで選ばれた。1979年のユーロビジョン、ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わり、グランプリにはならなかった。

元々プロダンサーのルイスとヘンリエッテはダンスの素養があったが、他のメンバー4人、とりわけスティーヴは腰痛の持病があったことから振付の練習には大苦戦していた。17日間、朝から晩まで練習を続けた。

結成前から婚姻関係にあったヴォルフガングとヘンリエッテ以外のメンバーは、全くの初対面であった。お互いのことをよく知るため、練習の合間を縫っては全員で買い物や散歩に出掛けた。特に親しくなったのが、レスリー・エディナ・スティーヴの3人である。レスリーとエディナが同郷(ハンガリー出身)であることと、エディナとスティーヴの年齢が近いことがきっかけとなった。

楽曲の多くは、マイヌンガーが作詞を、ジーゲルが作曲をそれぞれ担当したが、後にはメンバーも作詞・作曲を手掛けるようになった。なお、「ジンギスカン」、「めざせモスクワ」の英訳はスティーヴが担当した。

メンバー[編集]

オリジナルメンバー[編集]

南アフリカプレトリア出身のドイツ系ブール人。身長184cm。毛髪と虹彩は茶色。姓はポットギターと読まれることもあり、名前はルイと読まれる事がほとんど。また、パトリック・ベイリー / Patrick Baileyの別名でも知られる。喫煙者。好きな食べ物はフライドポテトとインド料理と野菜、好きな飲み物は紅茶とビール。アフリカーンス語、英語、ドイツ語を話すことができる。ドイツ語に関しては、リスニングはできるがスピーキングは英語訛りが強い。
建築会社販売ディレクターの父ルイ・ヨハネス・マテウス・ポトギターと元秘書の母アンナ・ズザンナ・ポトギターとの間に、6人兄弟の2番目として生まれた。兄ヨハン、妹アンネリーゼ、カレン、エルナ、タラナがいる。ちなみに妹のカレンは軍務に初めて合格した女性として有名。
ヨハネスブルグバレエグラフィックアートを修めた後、1975年にミュンヘンへ渡った。以降、結成前まで同地のゲルトナープラッツ劇場でソロダンサーとして活躍していた。
メンバーの中で唯一、企画当初からメンバーとなることが決定していた。基本的には王族の扮装をしているが、Rom以降は他のメンバーと同じく普通の衣装になっている。基本的にはダンスのみを担当していたが、契約に関して他のメンバーとの差は無かったという。ダンスをメインに一部の曲ではメンバーの補佐として歌うスタイル(ロッキング・サンのみソロ有り)であったが、1981年のスティーヴ脱退以降は本格的にボーカルも担当するようになった。スティーヴ脱退後、「めざせモスクワ」の低音パートをスティーヴのポジションで歌っている。
ちなみに、当時のインタビューでは自分はいつもDschinghis Khanでは王様の扮装をしている為、プライベートで素の姿で居ると気づかれないのが利点だと答えていた。
解散後はジンギスカン・ファミリーのキーボード担当として、レスリーやヘンリエッテと共に短期間活動した後、南アフリカに帰国。帰国後はヨハネスブルグのホテルの支配人を務めていた。
1994年11月12日、ポートエリザベスにてエイズによる合併症で死去。晩年は痩せ細り、最期は母親に看取られて生涯を閉じたという。ルイスの死がメンバーの知るところとなるのは11年後、ジンギスカン再結成のためにスティーヴがメンバー探しに奔走した2005年のことである。
  • エディナ(イダイナ)・ポップ / Edina Pop1941年2月4日 - )
ハンガリーブダペスト出身(のちハンガリー系ドイツ人)。本名はケーシュマールキ・マリカ / Késmárky Marika。身長170cm。毛髪の色はダークブロンド、虹彩の色は茶色+緑。好きな食べ物は辛くて酸味のあるエキゾティックなもの、好きな飲み物はワインとたまにトロピカルカクテル。ハンガリー語、英語、ドイツ語を話すことができる。ハンガリー語の訛りが強い。
洋服屋や車掌、給油係をしていた父ケーシュマールキ・カルマンと主婦の母ケーシュマールキ・マリカとの間に生まれた。ダンス教師をしているケーシュマールキ・カルマンという兄弟がいる。
ちなみに本名である「マリカ」という名前は彼女の出生当時ハンガリーで大流行した名前で、ハンガリーの60代以上の女性には非常によく見られる名前である。
音楽学校卒業後から高級ホテルやコンサート、テレビなどを舞台に歌手活動をこなし、1969年西ドイツに進出。1970年Bei jedem Kuss (直訳:どの口づけの時にも)でデビューを果たし、1972年のユーロビジョンのドイツ予選では Meine Liebe ich will dir geben (直訳:あなたに捧げたいわたしの愛)で7位を獲得する。私生活では1971年にドイツ人俳優ギュンター・シュトル / Günther Stollと結婚したが、1977年に死別した。
ジンギスカン当時の衣装は、ヘンリエッテと対になるように、スカートが定番だった。加入前は眼鏡がトレードマークだったが、加入後は外している。彼女によれば「メンバーを含めた周りが助けてくれていたので事故が起きることは無かった」という。日本語盤アルバムのパッケージに記されているメンバーのプロフィールでは、彼女の名前が DEINA POP と誤記されている。同じハンガリー出身のレスリーや年代の近いスティーヴとは親しい間柄だった。闘病中のスティーヴの体調を常に気にかけていたため、彼の娘・メラニーから感謝されている。
再結成時はショートヘアになっている。再結成後のトークによると、他のメンバー曰く電話病(電話で話すのが大好き)らしく、本人は電話代がかさむと話し、スティーヴからEメールを教わっていた。
  • ヘンリエッテ・パウリーネ・シュトローベル(ハイヒェル) / Henriette Pauline Strobel-Heichel1953年11月13日 - )
オランダアムステルダム出身。身長171cm。髪色はブロンドと銅色の間、虹彩は緑+灰+青。好きな食べ物は東洋料理やエビ料理、ラムの腿肉、好きな飲み物は生オレンジジュース(たまにスパークリングワインで割る)。オランダ語、英語、ドイツ語、スイスドイツ語を話すことができる。趣味はダイビング[要曖昧さ回避]
歯科医の父ヘルムート・カール・シュトローベルと元秘書の母カタリーナ・ヤネッテ・シュトローベルの間に長女として生まれる。セールスマネージャーの兄ヘルベルト・パウル・シュトローベルがいる。
アムステルフェーンの女学校を卒業後、西ドイツのオーバーストドルフ歯科助手(ちなみに彼女の実家は歯科医である)、マヌカン美容師バレエフィギュアスケートの個人レッスンを受ける。セーターを脱ぎながら滑っていた際に転倒して骨折、リハビリを経て滑ったが、再度怪我をしたことでフィギュアスケートは辞めている。バレエダンサーでもあった。結成前はマヌカン(その店で販売している服を着用して接客するアパレル店員)をしていた。
1976年、メンバーのヴォルフガンクと結婚。ジンギスカン加入は、ジーゲルの「もう1人女性メンバーがほしい」という話にヴォルフガングが「ヘンリエッテはどうか」と提案したことがきっかけだった。この提案を一度は断ったものの、ヴォルフガングにジーゲルの元へ引っ張られてオーディションを受けることとなった。ダンスの素養もあり、無事合格してジンギスカンへ加入した。ヘンリエッテ自身は歌唱に関して自信がなく、自分の歌声が酷いと思っていたが、ヴォルフガングは「良い声だ」と評価していた。
解散後の1986年にヴォルフガングと離婚。その後は友人とともにスペインマヨルカ島でファッション関係の仕事をしていた。再結成後に姓が変わっているのはこのためである。
再結成後はシュトローベル姓で活動、髪型も一つ結びやストレートなど様々に変化し髪色も色々変わっている。解散前はパンツスタイルの衣装が多かったが、再結成後はエディナと揃えたスカートの衣装が多い。
旧西ドイツマインツ出身。本名はカール=ハインツ・ベンダー / Karl-Heinz Bender。身長171cm。毛髪の色はダークブロンド、虹彩は明るい青色。生年が1946年とされているものもあるが、本当の生年は1942年である。愛称はGlatze(グラッツェ、ドイツ語で「ハゲ頭」の意)。ヘビースモーカー。好物はロールブラーテン、コーヒー。ドイツ語と英語を話すことができる。
肉屋の父カール・ベンダー(スティーヴが幼い頃に戦死)と販売員の母ヴィルヘルミーネ・レジーネ・ベンダーとの間に長男として生まれる。2人の姉がいる末っ子。本人によるとほんの小さな頃に父が戦死したために母親は朝から晩まで働き通しであったという。後にエルフリーデ・ベンダー(旧姓ビッゲラー)と結婚し、メラニー・ベンダー / Melanie Benderが生まれ、メラニーは父の背中を追って歌手になっている。
義務学校を卒業後、実務学校へ進み、彫刻、家具作成、塗装などを学んだ。卒業後は塗装師をしていたが、師匠と揉めて退職している(スティーブによると、すぐ叩くタイプの人だったらしい)。結成前には2年間の渡米経験があり、数々のロックバンドでギタリスト兼ボーカリストとして活躍。結成後もパフォーマーの他に「ディスコ・ドラゴン」、「キャプテン・ネモ」などの作曲や、「ジンギスカン」、「めざせモスクワ」などの英語版の作詞を担当。
ジンギスカン加入のきっかけは、ジーゲルがスキンヘッドのスティーヴが載ったレコードジャケットを見て「これだよ、僕が欲しかったのは!」と気に入ったこと。そのジャケットはスティーヴが日本の仏像をモチーフに撮影するために、面白半分にハゲのかつらを着用し撮影したものだった。その後ジーゲルから白羽の矢を立てられ、グループへの加入が決定し、スキンヘッドが定着した。
ジンギスカン在籍時はスキンヘッドにしており、1日に2回髪を剃っていた。
上記だが、初めてスキンヘッドにした際は自分の風貌がひどく恐ろしく見えて泣きそうになり、家に4週間引きこもっていたという。
ややハスキーな声で、声域はヴォルフガングとレスリーのほぼ中間だが、コーラスでは低音を担当することも多かった。歌手であった事もあり歌は得意だったものの、年齢と腰痛持ちもあってダンスは苦手で振り付けをよく間違えていた。
海外から送られたものも含め、全てのファンレターとメールに目を通して返事をしていたため、グループきっての紳士としても名高い。遠く離れた日本のファンに対しても勿論紳士的で、高性能の翻訳ソフトを使用し、ファンサイトにも度々訪れ、3つか4つのサイトには自ら当時の自分のアイコンを使用してコメントを送っていた程。
1995年にはエディナとレスリーとともに来日している。
持病の腰痛ヘルニア の悪化に伴うドクターストップを受け、1981年に脱退。脱退後はドイツの音楽プロデューサーとして活躍、事務所を構え後にサイトも運営していた。
解散から20年後の2005年、ジンギスカン再結成のために奔走。再結成時の「ロッキング・サン」では、不参加だったレスリーのパートを歌った。このスティーヴによる「ロッキング・サン」は、伝説としてファンから今なお愛されている。
生前最後のインタビューではジンギスカン当時と変わらずタバコを片手に、「ジンギスカン(曲)の練習が日に6時間あった。そのおかげでみるみる痩せて、衣装を3回も縫い直した」と笑って話している。
2006年5月7日肺がんにより死去。2004年夏にがんが発覚し余命宣告を受けていたが、死の2か月前まで事務所には伝えていなかった。
  • ヴォルフガング・ハイヒェル / Wolfgang Heichel1950年11月4日 - )
旧東ドイツマイセン生まれ、ベルリン育ち。身長188cm。毛髪と虹彩の色は茶色。好きな食べ物は日本食(特に寿司とうどん)と中華、ミネラルウォーター、シャンパン、スイス風コーヒー。ベジタリアンでもある。大の犬好きで、コリーを飼っていたことがある。ドイツ語、英語、オランダ語を話すことができ、少しならフランス語も理解できる。
機械工学技師の父アルフレート・ハイヒェルと看護師の母アンナ・ハイヒェルの間に長男として生まれる。異母兄弟のクリスティアンとマチアスがいる(どちらもヴォルフガングとは20以上歳が離れている)。
完璧主義者で、学生時代は文武両道だった(本人談)。芸術教育学を修めたものの、歯科学に関しては(自業自得もあり)物理の単位を落としてしまい中退している。
ジンギスカン結成前はシンガーソングライタープロデューサーとして活躍していた。結成後もパフォーマーのかたわら「カスパル・ハウザー」などの作曲も担当した。
オーディションを経てジンギスカンに加入。ジンギスカンでは1番人気で、女性ファンからの手紙やプレゼントが数多く届いたという。メンバーのヘンリエッテとは1976年に結婚しており、彼女にオーディション参加を勧め、加入のきっかけを作った張本人である。ヘンリエッテとの馴れ初めは、ディスコでのパフォーマンスで歯が折れてしまった際に、支配人の手引きでヘンリエッテの父による治療を受けたことだった。なお、ヘンリエッテとは解散後の1986年に離婚している。
解散後しばらくは、ジーゲルがプロデュースするグループ "That's Life" で音楽活動。その後はスイスに移住して音楽活動から退いたが、ジンギスカン再結成に伴って活動を再開。再結成時、恰幅(かっぷく)が良くなり濃いメイクをしていたことから、ファンも初めヴォルフガングだと判別できなかった。再結成の主軸であったスティーヴ亡き後も話し合いの末にジンギスカン再結成を続けていた。
2014年にパフォーマーを引退したものの、ジンギスカンおよび特別ゲストとしてモンゴルの祭典やロシアのイベントに招待された。2018年には2005年の再結成時に共演したシュテファン・トラックと合流してDschinghis Khanを名乗って活動している(ヘンリエッテ、エディナとは別行動である)。シュテファンとともにモスクワに特別ゲストとして招待されてライブを開催するなど、新たなジンギスカンとしての活動は続いており、2019年の40周年ライブのためにも動いた。(https://www.dschinghiskhan.com/news/)。
2022年3月、ウォルフガングがFacebookでシュテファン側とのDschinghis Khanを脱退していたことを明らかにした。理由としては「決定的な方向の違い」との事。
ハンガリーのブダペスト出身、ハンガリー名はマーンドキ・ラースロー / Mándoki László。身長174cm。毛髪の色は栗色、虹彩の色は青緑。好物はハンガリー料理ハンガリーワイン。男性メンバーでは唯一の非喫煙者である(後に葉巻を吸うようにはなっている)。ハンガリー語、ドイツ語、英語、ロシア語を話すことができるが、ドイツ語と英語に関してはハンガリー訛りが強い。
癖のある長髪口髭トレードマークで、長髪は時折一つに結んでいることもある。
財務省の監査役だった父マーンドキ・ラースローとレストランチェーン人事マネージャーだった母マーンドキ・イローナとの間に長男として生まれる。マーンドキ・ピーターという弟がいる。
ジンギスカン結成前は、酒場のバンドマンとして苦しい生活を送っていた。当初はジャズシンガー志望であった。ジャズ音楽の専門学校でドラムパーカッションを学び、自らジャム(Jam)という名のジャズロックバンドを率いてボーカリストパーカショニストとして活動した。1975年共産主義政権の学生運動弾圧から逃れるためにアニメーターガーボル・チュポー / Csupó Gáborらとともにミュンヘンへ渡る。ミュンヘンへ渡った理由としては、自由が欲しかったという側面もあるという。このためハンガリーに帰郷しづらくなってしまい、「帰ったら処罰されてしまうかもしれない」と話していたこともあったが、冷戦終了後にはハンガリーヘ帰郷できるようになった。
印象的な容姿(当時のラルフのインタビューでは奇妙な容姿と言われていた)と歌唱力の高さからジンギスカンへの加入が決定し、ボーカルおよびダンサーとして活動することとなった。当初は懐疑的であったという。加入後は「ワイルドハンガリアン」として親しまれ、ボーカルやダンサーのかたわら、故郷ハンガリーを題材にした『プスタ』などの作曲も手掛けるようになる。
また、ヴォルフガングと対照的に地声は低いが、歌声は高く、少年のようにも聴こえる程。メンバーの中では、スティーヴや同郷のエディナとは特に親しい間柄だった。
ジンギスカン解散後も友人と会社経営をしながら音楽活動を続け、1995年にはエディナ、スティーヴとともに来日。会社を経営している事実を公表し話題を呼んだ。
2005年の再結成の際は、存命しているメンバーの中では唯一参加を見合わせた。これは当時レスリーが議員を志しており、ジンギスカンへの参加は広報活動と見なされ、最悪の場合逮捕されてしまう恐れがあったためである。やむを得ず再結成への参加は見合わせたものの、メンバーとの交流は続いており、スティーヴが死去した際は彼の葬儀にも出席している。その後も音楽活動からは身を引いており、公式サイトからもレスリーの部分のみ削除された状態となっている。しかしプライベートで歌ったり、ドラムを叩いたり、パーカッションをしていたり、映画音楽を作ったりと、音楽には触れているようである。

ジンギス=カン・ファミリー / Dschinghis Khan Family(1986年 - 1988年)[編集]

  • ユルゲン・グーンホルツ / Jürgen Gronholz
  • クリスティン・ザーゲント=ブラント / Christin Sargent-Brandt
  • マイク・トゥール / Mike Toole
『ジンギスカン』解散後、ルイス、レスリー、ヘンリエッテの3人に上記メンバー3名を加え、ジンギス=カン・ファミリーのグループ名で、あしかけ3年間活動した。[4]

2005年 - 2006年までのメンバー[編集]

  • シュテファン・トラック / Stefan Track
帽子に赤色系の衣装で長い髪と髭の姿のルイ役を演じたが、オリジナルメンバーとの確執から解雇宣告をされる。メンバー(特にエディナとヘンリエッテ)曰く、目立ちたがりで態度が大きく、「俺をオリジナルメンバーと同格にしろ」と迫っていたのだという。
引退していたヴォルフガングと再会したのをきっかけに、2018年よりヴォルフガング側のジンギスカンとして活動を再開していたが、2022年に決定的な方向の違いでヴォルフガングが脱退。自身が中心となってジンギスカンの活動を続けている。[5]
  • エゲデイ・カン / Ögödei Khan
モヒカン頭に黒い衣装のやんちゃなロッカーといった見た目の人物。演じているのはダニエル・ケスリンク / Daniel Käsling
  • エルトゥヤ・カン / Eltuya Khan
オレンジ系衣装の女性。演じているのはエプル・カーヤ / Ebru Kaya

2005年の再結成ライブのときに参加したスティーヴの事務所に所属していたダンサー。2007年には同じメンバーでロッキング・サンとしてデビューした。このうちシュテファンは、メンバーとトラブル(ヴォルフガングがDKOで話したシュテファンの契約破棄の理由はグループ内での役割に関して行き違いがたびたびあり、報道関係にも尊大・無礼であった。そしてオリジナルのメンバー4人と同等の立場を要求した)を起こしたために2006年1月をもって契約破棄となり脱退した。またダニエルとエプル・カーヤもその年限りの参加となった。公式サイトには、2005年のモスクワコンサートの報道記事[6]動画コーナーがあり、シュテファン・エプル・ダニエルの記述やパフォーマンスを見ることができる。 この内シュテファンは2018年11月24日にロシアのモスクワにDschinghisKhan及び特別ゲストとして呼ばれ、2005年の再結成以降10年以上ぶりにヴォルフガング・ハイヒェルと再開している。その後ヴォルフガングと共にDschinghisKhanを結成していたが、2022年3月、ヴォルフガングのFacebookにて2020年にシュテファンとの決定的な方向の違いで脱退していたことが明らかになった。

ザ・レガシー (The Legacy)のメンバー[編集]

2007年に招集された以下のメンバーは、公式サイトで『遺産』 (The Legacy)あるいは『ジンギスカンの遺産』[1](The Legacy Of Genghis Khan)[7]と呼ばれるダンサー集団である。ミュージカル俳優として訓練を受けた人々で、コーラスも担当する。2016年1月にはエゲダイ、イゲイ、エルトゥヤ、ヤッサの4人がエディナ、ヘンリエッテと共にジンギスカンのメンバーとしてモスクワでのライブに参加した。ヤスガンは途中から居なくなり、今現在はイベントなどによるのかオーラとキャッシュは居たりいなかったりしている。

  • エゲダイ / Ögödei
ジンギスカンの息子という設定。演じているのはベンヤミン・ショーベル / Benjamin Schobel。元々ルイスのポジションだったが2011年のライブツアー以降は、付け髭を外している。
  • イゲイ / Igei
現在テレビなどに出演する際にルイスのポジションを担当している。こちらもジンギスカンの息子という設定。演じているのはクラウス・クプライト / Claus Kupreit。海賊のような容姿をしている。『ロッキング・サン』を歌う際は再結成に不参加のレスリーのパートを担当する。
  • エルトゥヤ / Eltuya
女斧使いという設定。髪の毛を1本三つ編みにしている。演じているのはカトヤ・フォーゲル / Katja Vogel、またはコリナ・グンツェル / Corinna Günzel[8]
  • ヤスガン / Yesugan
女剣士という設定。おだんごヘア。双剣使いのようで、両手に剣を持っている。演じているのはアンジェリカ・ニンバッハ / Angelika Nimbach[8]。2008年のライブツアーには参加していない。
  • オーラ / Ohla
お姫様という設定。演じているのはターニャ・ミューラー / Tanja Mueller、またはエヴィ・ヴァイガンド / Evi Weigand[8]ベリーダンス風の衣装を着ている。現在はDschinghis Khanホームページの画像のメンバーの中にはおらず、居たりいなかったりしている。
  • ヤッサ / Yassa
モンゴルの戦士という設定。剣を片手に持つ、髭のワイルド系で、毛の帽子や腰の飾りの他、たまにマントを羽織っていることもある。スティーヴのパートを歌う場合もある。演じているのはトーマス・グラバー / Thomas Graeber、またはシュテファン・ゾーター / Stefan Sauter[8]
  • キャッシュ / Cash
危険な黒の戦士という設定。唯一の黒人で辮髪。演じているのはアッティラ・マリオ・ディアロ / Attila Mario Diallo[8]。他界したスティーヴのパートを歌うことが多いが、ロッキング・サンなどレスリーパートも歌ったりする。現在はDschinghis Khanホームページの画像メンバーには入っておらず、Ohla同様居たりいなかったりしている。

2006年[編集]

  • イゲイ(Claus Kupreit)
  • エゲダイ(Benjamin Schobel)
  • エルトゥヤ(Katja Vogel)
  • ヤッサ(Thomas Graeber)
  • オーラ(Tanja Mueller)


2016年以降[編集]

  • プリンス・イゲイ・カン/Prince Igei KHan[9]
2007年から加入。演じているのはクラウス・クーパイト/Claus Kupreit。
  • エゲダイ・カン/Ögödei Khan
2011年から加入。演じているのはヨハネス・クピエート/Johannes Kupiert。
2020年9月、演じていたヨハネスが亡くなった事がエディナやクラウスなどのインスタで明らかになった。
  • エルトゥヤ・カン/eltuya khan
演じているのはアンジェリカ・エルラッヒャー / Angelika Erlacher。2016年から加入[10]
  • ヤッサ・カン/Yassa Khan
2012年より加入[11]。演じているのはレン・ヴィラット・フェトノイ / Läm Virat Phetnoi。
Thomas Graeber(Stefan Sauter)とは別人のアジア系男性[12]
  • ぺルケ・カン
2019年より加入。演じているのはヤン・グロースフェルト / Jan Großfeld。
  • バトウ・カン/Batou Khan
2023から加入。演じているのはMarco Matias/マルコ・マティアス。
強面気味でスキンヘッドに口ひげが特徴で、元は冥界の門番の異名を持つ暗殺者。
  • ズリ・カン/Zuri Khan
2023から加入。演じているのはSelina Khol/セリーナ・コール。
ふわふわしたブロンドヘアの女性で父親に溺愛されて育った、スリルを求める元泥棒。
  • ミヒャエル・T・カン/ Michael T Khan
2023から加入。演じているのはMichel Turner/ミッシェル・ターナー。
多少ワイルド系の見た目の元山賊で逃げていた所をカーン一族に救われ、一族の一員となった。

ディスコグラフィ[編集]

ドイツのチャートでは「ジンギスカン」が1位、「めざせモスクワ」が3位、「ローレライ」が6位、「ハッチ大作戦」が7位と4曲のTOP10入り楽曲がある。

楽曲は国や地名・特定の人物をモデルにしたものが多い。なお()内は邦題。

アルバム[編集]

  • Dschinghis Khan(ジンギスカン、1979年)

A面

  1. Moskau(めざせモスクワ
  2. Komm doch heim(家に帰って)
  3. Samurai(サムライ
  4. Rocking Son Of Dschinghis Khan(ロッキング・サン)
  5. Pass auf, der Drache kommt(ディスコ・ドラゴン)

B面

  1. Dschinghis Khan(ジンギスカン
  2. Israel, Israel(イスラエル
  3. China Boy(チャイナボーイ)
  4. Sahara(砂漠の国サハラ)
  5. Puszta(プスタ)
  6. Der Verräter(密告者のテーマ)


  • ROM(1980年)
ボーナストラックを抜いたものが"Viva"として同年リリース。日本では『ザ・グレイテスト・ヒッツ』として発売。本作までは6人体制で発売された。

A面

  1. Rom(栄光のローマ)
  2. Madagaskar(さらばマダガスカル)
  3. Kaspar Hauser(カスパル・ハウザー)
  4. Mann und Frau (男と女)
  5. Käpt'n Nemo (キャプテン・ネモ)
  6. Die Fremden (宇宙からのメッセージ)
  7. Sierra Nevada (シエラネバダ )

B面

  1. Machu Picchu(インカ帝国)
  2. Kontiki(コンチキ号の冒険)
  3. Tiger, Tiger(女豹のように)
  4. Moskau
  5. Hadschi Halef Omar(ハッチ大作戦)
  6. Der Verräter
  7. Dschinghis Khan


  • Wir sitzen alle im selben Boot(めざせ世界制覇、1981年)
日本で最後に発売されたアルバム。

A面

  1. Wir sitzen alle im selben Boot (世界はひとつ)
  2. Pistolero (哀愁のピストレーロ)
  3. Windjammer(ウインドジャマー)
  4. Die Fremdenlegion Armee der Verlorenen Seelen(外人部隊)
  5. Michael(こげよ、マイケル)

B面

  1. Loreley(ローレライ
  2. What Shall We Do with the Drunken Sailor(酔いどれ水兵)
  3. Goobye Hawaii(グッバイ・ハワイ)
  4. Aladin(英雄アラジン)
  5. We Love You(ウイ・ラブ・ユー)


  • Helden, Schurken & der Dudelmoser(1982年)
  • Corrida(1983年, "Bullfighting")
  • Die Großen Erfolge(1999年)
  • 7 Leben〈2007年)
  • Here We Go〈2020年)

シングル[編集]

発売日 品番 タイトル 備考
1979年6月1日 VIP-2747 A Dschinghis Khan ジンギスカン
B Sahara 砂漠の国サハラ
1979年9月25日 VIP-2766 A Moskau めざせモスクワ
B Rocking Sun Of Dschinghis Khan ロッキング・サン
1980年1月21日 VIP-2806 A Samurai サムライ
B Chaina Boy チャイナ・ボーイ
1980年3月5日 VIP-2815 A Hadschi Halef Omar ハッチ大作戦
B Komm Doch Heim 家に帰って
1980年11月21日 VIPX-1544 A Machu Pichu インカ帝国(マッチュ・ピッチュ)
B Rom 栄光のローマ
1981年4月1日 VIPX-1568 A Pistolero 哀愁のピストレーロ 本作から5人体制となった。
B Sierra Nevada シェラネバダ
1981年6月 VIPX-1584 A Loreley ローレライ 本作を最後に日本でのシングルリリースをしていない。
B Windjammer ウィンドジャマー
  • Wir sitzen alle im selben Boot(1981年)
  • Klabautermann(妖精クラバウターマン、1982年)
  • Der Dudelmoser(アルプスのドゥーデルモーザー、1982年)
  • Himalaja(前人未到の地ヒマラヤ、1983年)
  • Olé Olé(闘牛士の死にオーレ! 1983年)
  • Mexico(めざせメキシコ、1985年)

その他[編集]

レスリー・マンドキとニュートン・ファミリーのエヴァによるデュエット曲。『めざせモスクワ』のように、1988年に行われたソウル・オリンピックをモチーフにして制作された。日本でも少女隊が英語と日本語でカバーした。

日本への影響[編集]

オリコン洋楽シングルチャートで1979年8月6日付から5週連続1位を獲得した。

ジンギスカンは、楽曲『ジンギスカン』の強烈なインパクトにより、1970年代後半からディスコなどのダンスシーンでアラベスクなどとともに人気を博した。また、それにより当時の竹の子族と呼ばれる若者にも多大な影響を与え、日本語訳を含む数多くのカバー曲も生まれた。また日本のテレビ番組において、羊肉料理のジンギスカンを紹介する場面で、Dschinghis Khanの曲をBGMとして使うことが多く見られる。

1995年エディナ・ポップ、スティーヴ・ベンダー、レスリー・マンドキの3人が来日して『なるほど!ザ・ワールド』に出演した(日本公演を行っていないため、この日が初来日)。ヴォルフガング・ハイヒェルはスイスに、ヘンリエッテ・シュトローベルはマヨルカ島に移住して居たため未参加、ルイスは既に亡くなっていたため参加不可能。この時3人は『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を生で歌っている。また、インタビューの時レスリー・マンドキは「友人と会社を経営しています」と答えていたという(外部リンクを参照)。

また、2005年に『めざせモスクワ』が、いわゆる空耳ソングとしてインターネットコミュニティ上で流行となり、『もすかう』のタイトルで、多数のFlashムービーが制作された。なお『タモリ倶楽部』の空耳アワーではDschinghisKhan、moskau、Hadschi Halef Omar の他、DschinghisKhanでのエディナのソロ曲Komm doch heimなどの空耳が紹介された事がある。

北海道日本ハムファイターズのチャンステーマとしても使用されている

神村学園高等部の高校野球の応援曲としても使用されている

関連アーティスト[編集]

出典[編集]

外部リンク[編集]

先代
Ireen Sheer
ユーロビジョン・ソング・コンテスト・ドイツ代表
1979
次代
カーチャ・エプシュタイン