ジョー・ヘンダーソン

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ジョー・ヘンダーソン
ジョー・ヘンダーソンとニール・スウェインソン
ジョー・ヘンダーソンとニール・スウェインソン
基本情報
出生 1937年4月24日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州 リマ
死没 2001年6月30日(満64歳没)
ジャンル ソウル・ジャズ
メインストリーム・ジャズ
ハード・バップ
ポストバップ
新主流派
ジャズ・フュージョン
活動期間 1960 – 1997
レーベル

ブルーノート
マイルストーン
ヴァーヴ
Muse,Embryo,CTI,Fontana,Enja,
Columbia,Galaxy,Contemporary,
Warner Bros.,MPS,East World,
Stretch records,Fantasy,
Elektra,Sonet,Arco,Red,
hat ART,Soul Note,Nabel,
Somethin' else,Chesky,DIW,
Jazz Door,BMG classics Belgium,
Audio Fidelity,Emerald,
32 jazz,Atlantic,MGM,A & M,
TCB,Impulse,L.A.P.R.,Everest,
Mainstream,Blue Thumb,Prestige,
Paramount,Fantasy,Timeless,
Jeru,Blue Collar,Palo Alto,
IDA,Denon,Concord jazz,Grappa,
Landmark,BRC,Sea Breeze,
Justin Time,Bluemoon,Jazz City,
Epic,Reservoir,Doble-Time,
Justice,Geffen,Novus,

Sony,Sony Classical
共同作業者 ブラッド・スウェット&ティアーズ
著名使用楽器
テナー・サックス

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ジョー・ヘンダーソンJoe Henderson, 1937年4月24日 - 2001年6月30日)はアメリカジャズミュージシャンテナーサックス奏者。ヘンダーソンはその輝かしい40年以上のキャリアの中で同時代の多くのアメリカの一流プレイヤーと共演し、ブルーノートを含むいくつかの主要なレーベルで録音を残している。

経歴[編集]

幼少期[編集]

ヘンダーソンはオハイオ州のリオにて、5人姉妹と9人兄弟の大家族の下に生まれた。音楽は彼の両親と兄のジェームズ.T.から奨められた。(彼はファーストアルバムの「for being so understanding and tolerant」を彼らに捧げている。)最初の頃はドラムピアノサクソフォーン、作曲などに興味を持っていた。ケニー・ドーハムによると、ヘンダーソンの兄弟が通う学校の2人のピアノ教師、リチャード・パッターソンとドン・ハーレスが彼にピアノを教えた[1]。彼は兄弟のレコードコレクションにひどく夢中になった。これは地元のドラマー、ジョン・ジャレットがヘンダーソンにレスター・ヤングスタン・ゲッツデクスター・ゴードンチャーリー・パーカーの音楽を聴くようにアドバイスしたのに影響を受けたらしい[1]。彼はフリップ・フィリップスリー・コニッツジャズ・アット・フィルハーモニックの録音も好んだ。中でもパーカーから最も強いインスピレーションを受けた。彼は、ハイスクールのハーバート・マルフィの指導でサクソフォーンを始めた。この時期に彼はスクールバンドやロックグループのためにいつくかの楽曲を書いている。

18歳のとき、ヘンダーソンは50年代のデトロイトジャズシーンで活動し、ニューヨークから訪れたスタープレーヤーとジャムセッションで演奏した。ウェイン州立大学のフルートとベースの授業を受けながら、テール音楽学校で名声のあった教師ラリー・テールの指導のもとでサクソフォーンと作曲のスキルをさらに伸ばした。1959年暮れに自身初めてのグループを作った[1]。ウェイン州立大学在籍時、多くのレスター.ヤングのソロを真似て暗記し、彼の担当教授に完璧にものにしたと信じさせた。クラスメートのユセフ・ラティーフ、バリー・ハリス、ドナルド・バイルドは疑いなく特別なインスピレーションを与えた[2]。彼はケンタッキー州立大学でも音楽を勉強した。

初期の経歴[編集]

彼は1960年から62年の2年間を米軍で過ごした。最初の任地、ベニング基地にて軍のタレントショーのコンテストに参加し、一位の座を勝ち取った。そしてベルボイア基地で兵士慰問の世界ツアーのメンバーに選ばれた。パリにいたとき彼はケニー・ドリューケニー・クラークと知り合った。そして徴兵を終えるためメリーランドに送られた。1962年に退役し、すぐにニューヨークに移動した。彼は初めにサクソフォーン奏者のジュニオール・クックの処で、彼に取ってかけがえの無い指導者であるトランぺッターのケニー・ドーハムと出会った。ある晩、彼らはバードランドで演奏していたデクスター・ゴードンに会いに行った。ヘンダーソンはゴードンからリズムセッションに加わって一緒に演奏しないかと尋ねられた。言うまでもなく、彼は喜んで承諾した[1]

ヘンダーソンの初期のレコーディングはハードバップの強い影響を受けていたが、彼の演奏はビバップだけでなくリズム&ブルースやラテンアメリカミュージック、そしてアバンギャルドの様式も持ち合わせていた。間もなく彼はホレス・シルバーのバンドに参加し、ヒット作の「Song for My Father」で画期的なソロ演奏を提供した。1966年にシルバーのバンドを去った後、ヘンダーソンはフリーランスに戻り、ケニー・ドーハムと一緒にビッグバンドを率いた。彼のビッグバンド向けの編曲は1996年の「Joe Henderson Big Band」のリリースまで録音されなかった。

ブルー・ノート時代[編集]

1963年から1968年にかけて、ジョー・ヘンダーソンは5つの自分名義のアルバムを含む、30近いアルバムをブルー・ノート・レコードに残している。その録音は、彼の初リーダー作であり比較的に保守的なハードバップのセッションの「Page One」(1963年)から、「Inner Urge」や「Mode fo Joe」(1966年)のようなより前衛的なセッションに及んだ。さらにブルー・ノートで他の演奏者がリーダーを務める歴史的なアルバム作、例えばホレス・シルバーの「Song for My Father」、ハービー・ハンコックの「The Prisoner」、リー・モーガンのヒット作の「The Sidewinder」、ピアニストのアンドリュー・ヒルの「Black Fire」(1963年)「Pointt of Departure」(1964年)、ドラマーのピート・ラロカの「Basra」(1965年)などで、卓越した役割りを演じた。

1967年には、短期間ではあったがハービー・ハンコック、ウェイン・ショーターロン・カータートニー・ウィリアムスを擁するマイルス・デイビスクインテットに参加した。しかし、このバンドでの録音は行われなかった。その後、ヘンダーソンの順応性と折衷主義がより強く現れるようになる。

マイルストーン時代[編集]

1967年、ヘンダーソンはオーリン・キープニュースが新しく作ったばかりのレーベル、マイルストーン・レコードと契約し、彼の経歴は新しいフェーズに入った。ヘンダーソンは1967年から1968年の間に、フレディ・ハバードとともにジャズ・コミュニケーションズを率いた。さらにワーナー・ブロスでハービー・ハンコックの「Fat Alber Rotunda」に出演した。この時期にヘンダーソンはジャズ・ファンク・フージョンやスタジオ多重録音、電子音響といった新しいものを経験した。また、「Power To the People」「In Pursuit of Blackness」「Black Narcissus」といった楽曲およびアルバムタイトルは、彼の政治・社会への関心の高まりを反映している。この時期の最後のアルバム「Black Narcissus」も1947年のPowell and Pressburgerの映画から名付けられている。

1971年の「Blood,Sweat & Tears」に参加した後、ヘンダーソンはサンフランシスコに移動して講義を行うようになった。彼はレコーディングおよび演奏を続けいていたが、次第にジャズの聴衆からは評価されなくなった。

晩年[編集]

しかし、グリフィン・パーク・バンドとチック・コリアと共演した「Echoes of an Era」をきっかけに、ヘンダーソンは1980年代を代表するリーダー演奏者となった。熟練した多作の編曲者である彼は、スタンダードと彼自身の初期の曲の再解釈に集中するようになった。1986年、ブルーノートは彼にジャズシーン復活の最前線の役割りを与え、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードで「State of the Tenor」の2巻のアルバムの録音を行った。ロン・カーター、アル・フォスターを擁したこのアルバムは、1957年にソニー・ロリンズが同じレーベルで録音したヴィレッジ・ヴァンガードでのライブアルバムで採用した、テナー・トリオの形式を再現したものであった。ヘンダーソンはセロニアス・モンクの「Ask Me Now」をバラードに仕立てて、その7、8年間の彼の基本的なレパートリーにした。

イタリアの独立レーベルのRed Recordsチャーリー・ヘンダーソンとアル・フォスターとライブ・トリオを組み、「An Evening with Joe Henderson」をリリースした後、ヘンダーソンは大きな転機を迎えた。ヴァーヴが彼に注目し、1990年代の初めに彼と契約を行ったのだ。ヴァーブはヘンダーソンのレコーディングにソングブック・アプローチを適用し、大々的に広告キャンペーンを打った。そして、ヘンダーソンをコンテンポラリー・ジャズ・シーンの第一人者に据えることに成功した。1992年の彼の復帰作である「Lush Life: The Music of Billy Strayhorn」は商業的に大きく成功し、マイルス・デイビス、アントニオ・カルロス・ジョビンのトリビュート・アルバム、ジョージ・ガーシュウィンのオペラ曲を取り上げた「Porgy and Bess」を続けてリリースした。

2001年6月30日、ジョー・ヘンダーソンは肺気腫の闘病の末、心不全で亡くなった[3]

ディスコグラフィ[編集]

リーダー・アルバム[編集]

ジョー・ヘンダーソンを描いた絵画
スチュアート・アームストロングによる晩年のジョー・ヘンダーソンを描いたリノニウム絵画
ブルーノート
マイルストーン
ヴァーヴ
Red Records
  • 1987: Evening with Joe Henderson - with Charlie Haden, Al Foster
  • 1991: The Standard Joe - with Rufus Reid, Al Foster
  • 2009: More from an Evening with Joe Henderson
Jazz Door
その他のレーベル

サイドマンとして参加したアルバム[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d ケニー・ドーハムによる「Page One」のオリジナルライナーノートによる
  2. ^ Mel Martin Interview with Joe Henderson published in The Saxophone Journal, March/April 1991. Retrieved on 24 April 2007.
  3. ^ Scott Yanow, Allmusic Biography Retrieved on 2012-07-13.

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • Swing Journal, 9, 2001. スイングジャーナル社、2001年。