ジョージ・ホードリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ジョージ・ホードリー
George Hoadly
George Hoadly by Andrews.jpg
ジョージ・ホードリー(エリファレット・フレイザー・アンドリュース画)
生年月日 1826年7月31日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブン
没年月日 1902年8月28日(満76歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ワトキンスグレン
出身校 ケース・ウェスタン・リザーブ大学
ハーバード・ロー・スクール
前職 弁護士
所属政党 民主党共和党→民主党
親族 ジョージ・ホードリー(父)
配偶者 メアリー・バーネット・ペリー
サイン George Hoadly signature.jpg

任期 1884年1月14日 - 1886年1月11日
副知事 ジョン・G・ウォーウィック
テンプレートを表示

ジョージ・ホードリー英語: George Hoadly1826年7月31日 - 1902年8月27日)はアメリカ合衆国弁護士政治家。1884年から1886年までオハイオ州知事(第36代)を務めた。

生涯[編集]

1826年ニューヘイブンに同市の市長だったジョージ・ホードリー英語版とメアリー・アン・ウールジーの第3子(唯一の息子)として生まれる。1830年クリーブランドに家族で移住。ケース・ウェスタン・リザーブ大学で法学を学び、ハーバード・ロー・スクールに進んだ後に弁護士資格を取得し、シンシナティにあるサーモン・チェイスの法律事務所に勤務した。チェイスが自身の政治活動で多忙だったために、ホードリーはチェイスに代わって法廷に立つ機会が多くなり、実務経験を積むことができた。1859年から5年間シンシナティの裁判官を務め、1866年には独立して法律事務所を設立した。

ホードリーはもともと民主党員であったが、チェイスの影響を受けて共和党に鞍替えした。しかし南北戦争後に奴隷制が廃止されると、奴隷制廃止を支持する党の方針に不満を募らせ、1870年代半ばに民主党に復帰した。

1876年アメリカ合衆国大統領選挙においてホードリーは民主党候補として出馬したサミュエル・ティルデンの利益代表となり、1880年には民主党全国大会の代表を一時務めた。1883年のオハイオ州知事選に民主党候補として出馬し、共和党候補のジョセフ・ベンソン・フォラカーを12,500票差で破って当選した。

翌1884年1月14日に知事職に就任した。ホードリーは不人気な政策を採ったため、大多数からの支持を失った。同年、陪審に関する疑念からシンシナティで暴動英語版が勃発し、暴動に発展するまでのホードリーの対応が遅れたために50人以上もの死者を出す惨事となった。

翌1885年のオハイオ州知事選でホードリーはフォラカーに敗れ、知事の座を明け渡すことになった。

任期終了後のホードリーは政界から退き、弁護士としての活動を再開した。1887年にはニューヨークに移って新たな会社を設立した。1902年夏、急性気管支炎のためニューヨーク州スカイラー郡ワトキンスグレン英語版で死去した。

死後、シンシナティのスプリング・グローブ墓地英語版に埋葬された。

外部リンク[編集]

先代:
チャールズ・フォスター
オハイオ州知事
1884年 - 1886年
次代:
ジョセフ・ベンソン・フォラカー