ジョヴァンニ・セガンティーニ

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ジョヴァンニ・セガンティーニ
Giovanni Segantini
1890年
生誕 1858年1月15日
イタリアの旗 イタリアトレンティーノ=アルト・アディジェ州 アルコ
死没 1899年9月28日(41歳)
スイスの旗 スイスポントレジナ
国籍 イタリアの旗 イタリア
教育 ブレラ美術学校(en)
著名な実績 画家
代表作 『アルプス三連祭壇画』『悪しき母達』など

ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858年1月15日 - 1899年9月28日)は、イタリア画家アルプスの風景などを題材とした絵画を残し、アルプスの画家[1][2]として知られている。一方で『悪しき母達』など神秘的、退廃的な作品を残したことから、作風は世紀末芸術とされることもある。

生涯[編集]

幼少時[編集]

1858年オーストリアのトレンティーノ(現在のイタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州)にあるコムーネの一つ、アルコで生まれた。父アゴスティノ・セガティニ(セガンティーニの旧姓)は農民階級の大工で、母マルゲリータ・デ・ジラルディは中等階級中のやや低い身分の出であった[3]。ジョヴァンニはマルゲリータの第2子(第1子はセガンティーニが生まれる前に火事で命を落とした[2])で、生まれた頃には体が弱く、両親の周到な注意の下に漸く育つことが出来た[4]。しかし母マルゲリータはジョヴァンニを生んで病にかかり、1863年、ジョヴァンニがまだ5歳の時に29歳で夭折した[5]

父親はジョヴァンニを連れてミラノに向かい、先妻との間に設けた息子と娘(ジョヴァンニにとっての異母兄妹)のもとを訪ねた。しかしその子供達の生活は困窮しており、ジョヴァンニとその父が到着した頃には店を閉じなければならなくなっていた[6]。ジョヴァンニの父と先妻との息子は、自分達の成功を夢見て、幼いジョヴァンニを残してアメリカに赴き、そのまま帰ってこなかった。後に残されたジョヴァンニは、異母の姉のもとで暮らしたが、異母の姉は毎日ジョヴァンニ一人を残して仕事に出かけた[6]

異母の姉のもとで、窓から空を眺めて単調な生活を送っていたジョヴァンニは、ある日フランスに歩いて行くという思いつきに魅せられ、姉が仕事に出た後歩いて街に出た[7]。しかし数キロ先で疲労のために倒れ、親切な人々に保護された。その翌日にミラノに送り返されそうになったが、ジョヴァンニがそれを嫌がり、またジョヴァンニの経歴を聞いた人々は不憫に感じたため、それからしばらくの間彼らの家においてもらえることになった。この当時ジョヴァンニは7歳だった[8]

そののち再びジョヴァンニは姉の元へ帰ることになったが、そこでは再び冷遇された。ジョヴァンニはしばしば、姉の家ではなく、街中や人の住んでいない家屋の屋根裏部屋で夜を過ごしていた。そこでは飢えや寒さに苦しめられた上、孤独感から愛情にも飢えていた[9]。また屋根裏部屋で天然痘に感染した際にも、姉の元へ帰りたくないジョヴァンニは、医師の好意で出来るだけ長い間病院に留めてもらった[10]

その後親戚の紹介で、ジョヴァンニは薬屋で働かせてもらうこととなった。しかしある夏の日に、他の店員と共に店の金を盗んで逃走した[11]。さらに、逃走中ジョヴァンニが疲労のため眠りについている間に、一緒に逃げていた店員は金をもって一人で逃走。ジョヴァンニは後悔のために死を決意し、3日間農場の枯草置場に潜伏していたが、農夫に発見され、結局ミラノへ送り返された[12]

絵画との出会い[編集]

聖アントニオ合唱の間 (1879年)

ミラノに戻ったセガンティーニは、絵師の助手兼門弟となり、画法の手ほどきを受けた。その当時は、友人の援助を受けながら風景画などをの作品を仕上げ、愛好家に売るなどしていた。しかし生活は困窮し、橋の下で夜を過ごしたこともあった[13]。そののちに、セガンティーニはブレラ美術学校の夜学校に進学、肖像画や劇場の小道具を描くなどして生活費を稼ぎながら絵画の勉強をした[14]。セガンティーニの最初期の作品である『聖アントニオ合唱の間』はこの時期に描かれ、展覧会に出品されて銀賞を受けた[15]

しかしセガンティーニは、決まりきった画法に忠実な絵を描くことを拒み、自由な方法で創作を行った。そのため教授たちには目の敵とされ、校長に対して苦情を申し入れられた上、展覧会でセガンティーニの作品を最後に展示されたりした。自身の作品が展覧会で最後に飾られているのを見たセガンティーニは激昂し、自作を壁から下ろして破り捨て、街中に飛出して街灯に登り、街灯のガラス板を破壊した。そのためセガンティーニは、結局ブレラ美術学校を退学になった[16]

結婚、ブリアンツァへの移住[編集]

湖を渡るアヴェマリア(第2作)(1886年)

ブレラ美術学校を退学になったセガンティーニは、友人達の援助を受けてミラノにアトリエを借り、そこで創作活動を行った[17]。しかしミラノでの生活に満足できず、アルプスの山々に憧憬をおぼえて、スイス国境に近い1881年ブリアンツァ地方のコモ湖畔の村へ移住した。またその前年の12月、セガンティーニは、ミラノでも何度か絵のモデルとなっていたルイジア・ブガッティ(デザイナーのカルロ・ブガッティ(en)の従姉妹)と結婚した[18]

セガンティーニ夫婦はブリアンツァにある村、プジアーノに住まいを構えた。そこでアルプスの自然をもとにした作品を創作し、『十字架の接吻』『横木につながれた牛』『湖を渡るアヴェ・マリア(3作)』『花野に眠る少女』などさまざまな作品を残した。特に、アムステルダム万国博覧会で金賞を獲得した『湖を渡るアヴェ・マリア』は、19世紀の絵画史上で重要な位置を占める作品であるとされる[19]。また、1888年グラスゴー国際博覧会(en)にも多くの作品を出品し、イギリスでも名を知られるようになった[20]

アルプス時代、突然の死[編集]

セガンティーニ一家は、ブリアンツァ地方で生活している間も、プジアーノからルガーノカーリオなどへ移住していた。しかしアルプスのさらなる高地に思いを馳せ、1886年にイタリアから国境を越えてスイスへ向かい、ベルニナ地方(en)のポスキアヴォen)やシルヴァプラーナen)を経由して、最終的にグラウビュンデン州サヴォニンen)に到着、セガンティーニ一家はしばらくの間ここで生活した[21]。そこではアルプスの風景や肖像画などを製作して過ごした。また、妻ルイジアとの間には4人の子供をもうけた[22]

1894年に、セガンティーニ一家はサヴォニンを後にし、より標高の高いエンガディン地方(en)のマローヤ(Maloja)に移り住んだ[23]。その地でセガンティーニは、『アルプスの春』などの作品を制作した。そして1898年から、エンガディンの風景が見渡せるシャーフベルクen)にたびたび登り、大作『アルプス三部作』の制作に取り掛かった[24]

しかし、第1作『生』を完成させ、第2作『自然』が完成に近づいた頃、セガンティーニは突然病に襲われた。高熱がつづき、やがて腹膜炎の症状が現れだした。セガンティーニは『私は私の山が見たい』と言い残し、1899年9月28日、腹膜炎によって死去した[25]。遺体はその2日後に共同墓地に埋葬された[25]。三部作の第3作『死』は未完のまま残された。

作品[編集]

セガンティーニは、これまでにない画法でアルプスの風景画を描き、芸術界を驚かせた[26]。アルプスのような高山は空気がうすく、描く対象となるものの輪郭が明瞭であるため、ヨーロッパの平地の風景などを描くのに用いられてきた、風景を単純化して描く印象派風の技法では、高山の風景を描写することが困難であった。そのため、セガンティーニ以前に高山を描いて成功したものはなかった[26]。セガンティーニは印象派の技法を取り入れつつ、澄んだ空気によって明瞭に見える細部を省略せずに描いた。そのため、山岳の構成などは極めて精緻に描かれている一方、絵全体の眺めには統一性がある[27]

晩年には象徴主義的な作品を制作するようになったが、セガンティーニのスタイルや主題が急に変化したわけではなく、初期の作品にあった特徴が現れていると指摘されている[28]。また一貫した作品の特徴として、自らの母を幼い時に失ったことに起因する、神聖な『母愛』が指摘される[29]。母親は「良い母」として描かれることもある一方、「悪い母」として表現されることもあった[2]。前者の作品としては『二つの母』、後者の作品としては『悪しき母達』などが挙げられる。また、アルプスの農民の悲哀に触れたことによって、作品に『哀愁』が表現されるようになったとも指摘されている[29]

セガンティーニの作品は、度々ミレーと比較されることがある。しかしセガンティーニがミレーの作品に影響を受けたわけではなく、二人が同じ田舎の農民として暮らしたということに起因する類似であるとされる[30]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 佐久間 (1921) p.8
  2. ^ a b c May, U. (2001) ABRAHAM’S DISCOVERY OF THE ‘BAD MOTHER’- A CONTRIBUTION TO THE HISTORY OF THE THEORY OF DEPRESSION, Int. J. Psychoanal. 82 283-305
  3. ^ 佐久間 (1921) p.11
  4. ^ 佐久間 (1921) p.12
  5. ^ 佐久間 (1921) p.13
  6. ^ a b 佐久間 (1921) p.15
  7. ^ 佐久間 (1921) p.28
  8. ^ 佐久間 (1921) pp.31-33
  9. ^ 佐久間 (1921) p.37
  10. ^ 佐久間 (1921) p.36
  11. ^ 佐久間 (1921) p.40
  12. ^ 佐久間 (1921) p.41
  13. ^ 佐久間 (1921) pp.42-45
  14. ^ 佐久間 (1921) p.47-48
  15. ^ 佐久間 (1921) p.49
  16. ^ 佐久間 (1921) pp.53-56
  17. ^ 佐久間 (1921) p.57
  18. ^ 佐久間 (1921) pp.64-66
  19. ^ 佐久間 (1921) p.87
  20. ^ 佐久間 (1921) p.118
  21. ^ 佐久間 (1921) p.108
  22. ^ 佐久間 (1921) p.180
  23. ^ 佐久間 (1921) p.235
  24. ^ 佐久間 (1921) p.279
  25. ^ a b 佐久間 (1921) pp.290-291
  26. ^ a b 佐久間 (1921) p.124
  27. ^ 佐久間 (1921) p.129
  28. ^ 佐久間 (1921) p.245
  29. ^ a b 佐久間 (1921) p.77
  30. ^ 佐久間 (1921) p.72

参考文献[編集]

  • 佐久間政一 『泰西名畫家傳 セガンティニ』 日本美術學院、1921年
  • Segantini: catalogo generale. Milan: Electa. (1982). 

関連項目[編集]