ジョン・ワシントン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・ワシントン
John Washington
生誕 イングランド王国エセックスPurleigh
死没 バージニア植民地ウェストモアランド郡Washington Parish
死因 自殺
民族 イングランド人
職業 農場主、政治家
宗教 聖公会
テンプレートを表示

ジョン・ワシントン(John Washington, 1633/4年 – 1677年)は、バージニア植民地イングランド系アメリカ人。初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンの先祖にあたる。

生い立ち[編集]

ローレンス・ワシントンとAmphillis Twigden(1633年4月 エセックスのPurleigh生まれ)の息子として生まれた。イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーSouth Caveに財産を所有するようになり、1656年、バージニア植民地に移住した。商船の二等航海士になり、その船のポトマック川での沈没後、引き揚げがなされたが、航海士は辞任した。[1]

1674年の調査で、トーマス・リーにより、5000エーカーのland grantがジョン・ワシントンとニコラス・スペンサーに認められた。後のマウントバーノンである。

バージニア植民地[編集]

1656年に初めてバージニアに来て、プランテーションを経営するナサニエル・ポープ大佐の家に滞在し、娘アンと恋に落ちた。

アン・ポープと結婚し、アンの父から結婚祝いにNorthern Neckウェストモアランド郡Mattox Creekの700エーカー (2.8 km2)の土地を貰い[1]、裕福な農場主となった。奴隷や年季奉公によるタバコやkitchen cropsの栽培に依存していた。バージニア州House of Burgessesに定住し、植民地内の政治家となった。[1]

ベイコンの反乱につながる事件の間、バージニアの民兵大佐に任命された。敵対者やインディアンの酋長との和平交渉中にメリーランドの人を支援する一団を率いた。民兵は、様々な部族の6首長を殺し、インディアン達は虐殺に対し、入植者達を後に襲撃して報復した。[2]ウィリアム・バークレーはインディアン酋長の殺害について、ワシントンを強く批判したが、入植者はワシントンの虐殺を支持した。インディアンと入植者との関係が悪化した[3]

結婚と家族[編集]

1657年にアン・ポープと結婚し、3人の子供がいた。

アンの死後、アン・ジェラードと結婚した。彼女に先立たれ、彼女の妹フランシス・ジェラードと結婚した。

ジョンとアン・ポープはコロニアルビーチのジョージ・ワシントン Birthplace National Monument に埋葬された。彼の墓は家族墓地で最大である。

遺産[編集]

地元アングリカン・コミュニオンの教会区(バージニア州設立の教会)の名前が彼に敬意を表し、ワシントンに変更された[1]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d Irvin Haas (1992). Historic Homes of the American Presidents. Courier Dover Publications. ISBN 0-486-26751-2. https://books.google.co.jp/books?id=p8RBlp8bNpwC&redir_esc=y&hl=ja 
  2. ^ Abby Sage Richardson (1875). The History of Our Country: From Its Discovery by Columbus to the Celebration of the Centennial Anniversary of the Declaration of Independence. ホートン・ミフリン. https://books.google.co.jp/books?id=fRQOAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  3. ^ ヘンリー・カボット・ロッジ (1917). George Washington. ホートン・ミフリン. https://books.google.co.jp/books?id=atR5HHm8PawC&redir_esc=y&hl=ja 

外部リンク[編集]