ジョン・ボドキン・アダムズ

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ジョン・ボドキン・アダムズ(John Bodkin Adams、1899年1月21日 - 1983年7月4日)は、詐欺で有罪判決を受け、そして連続殺人の嫌疑をかけられたアイルランドの一般開業医師である。[1]

1946年から1956年までの間に、彼の患者の内、160人超が不審な状況で死亡した。[2] この内、132人が遺言書で彼に金銭、または品目を遺した。

彼は1957年に1人の患者の殺害のかどで公判に付され、そして無罪放免になった。
別の1人の殺人の訴因は、検察によって撤回され、その後、裁判長パトリック・デヴリン(Patrick Devlin)が、撤回理由として「訴権の乱用」("an abuse of process")を挙げた事に関連して、検察の訴権に対する取り扱いに関する質問が議会で為された。[3]

公判は、世界中に見出しで大きく取り扱われ、[4] 「史上最大の殺人事件の公判のひとつ」("one of the greatest murder trials of all time")[5]、「世紀の殺人事件の公判」("murder trial of the century")とも評された。[6] また「殺害行為」("the act of murder")が「専門家の証言によって証明され」("to be proved by expert evidence")なければならないため、「ユニーク」("unique")とも評された。[4]

公判では、後に「二重の結果の原則」を確立する事になる幾つかの重要な法的分岐を有していた。

第一に、苦痛を緩和する目的を以って治療している医師は、時として意図しない結果を得た場合、医師としての生涯を短くするかもしれないという事。[7]

第2に、アダムズの拘禁聴聞会(committal hearing)を取り巻く周囲の為に、法が、被告人らがそのような聴聞会が非公開で行われるように求める事を許可するように変更された事。[8]

最後に、被告人は決して自分を弁護する為に証言するように要求されていなかったが、判事は陪審に対する事件要点の説示の際、いかなる偏見も陪審によってアダムズに付与されてはならない事を強調した事である。[7]

この公判に於いて、アダムズは処方箋詐欺、火葬用紙に虚偽を記載した事、捜査への妨害、そして、危険な薬物の記録を採っていない事等、13の犯罪について有罪とされた。 彼の名は1957年に医師登録簿(Medical Register)から削除された後、2回の申請を経て、1961年に再登録された。

スコットランドヤードの事件に関するファイルは、原則として75年間非公開であり、アダムズの事件に関しては2033年までであるが[9] 2003年にファイルを公開する特別な許可が下りた。

前半生[編集]

アダムズは、プリマス・ブレザリン(Plymouth Brethren)のふかく宗教的な家庭に生まれ、彼は生涯、それのきびしいプロテスタントのセクトの一員でいた。[10] 父サミュエル(Samuel)は地元の集会の説教者で、職業は懐中時計製造修理業者であった。 彼は車にも熱烈な関心を抱いたし、彼はこれをジョンにつたえることになる。 彼がエレン・ボドキン(Ellen Bodkin) 30歳 と(いまは北)アイルランド、ランダルズタウン(Randalstown)で結婚したとき、1896年にサミュエルは39歳であった。 ジョンは長男で、弟ウィリアム・サミュエル(William Samuel)は1903年にうまれた。 1914年にアダムズの父が発作で死亡した。 4年後、ウィリアムが1918年のインフルエンザの大流行で死亡した。[11]

コールレーン・アカデミカル・インスティテューション(Coleraine Academical Institution)に数年間通ったのち、アダムズは、17歳でクイーンズ大学ベルファストへの入学許可を得た。 そこで彼は、講師らによって「要領の悪いがんばり屋」("plodder")で「一匹オオカミ」("lone wolf")と見られ[11]、そして病気(おそらくは結核)のせいもあって、1年間の学業を逃した。 彼は、優等の資格を得られぬまま、1921年に卒業した。[11]

1921年に、外科医アーサー・レンドル・ショート(Arthur Rendle Short)は、彼にブリストル・ロイヤル・インファーマリー(Bristol Royal Infirmary)の医学研修生助手(assistant houseman)の職を与えた。 アダムズは、1年間をそこで過ごしたが、しかし成功をおさめなかった。[12] ショートの助言で、アダムズは、イーストボーンのキリスト教のプラクティス(a Christian practice)の一般開業医職に応募した。[13]

イーストボーン[編集]

ケント・ロッジ(Kent Lodge) アダムズはここに1929年から1983年まで住んだ

アダムズは、1922年にサセックス、イーストボーン(Eastbourne)に着き、そこに彼は、母およびいとこサラ・フローレンス・ヘンリー(Sarah Florence Henry)とともに住んだ。 1929年に彼は、患者ウィリアム・モーフッド(William Mawhood)[14]から2,000ポンド(2011年の物価で104,247ポンドに相当する[15])を借り、トリニティー・トゥリーズ(Trinity Trees)(当時、シーサイド・ロード(Seaside Road)として知られた[16])の、18室の邸宅ケント・ロッジ(Kent Lodge)[17]を買ったが、これは上流むけの住所であった。 アダムズは、食事時にモーフッドの住まいに、母およびいとこを連れさえして、しばしば押しかけたものであった。[14] 彼はまた、品目を地元の店らの勘定に、彼らの許可のないまま、つけはじめた。 ミセス・モーフッド(Mrs Mawhood)はのちに、警察にたいしてアダムズを「本当のたかり屋」("a real scrounger")と評することになる。[18] 1949年にミスタ・モーフッドが死亡したとき、アダムズは、招かれないのに未亡人のもとを訪れ、「おつれあいの物か何かを」("something of her husband's")と言いながら、彼女のベッドルームのドレッシング・テーブルから22カラットの金のペンを取った。 彼はふたたび彼女のもとを決して訪れなかった。[18]

アダムズの非慣習的なやりかたに関するゴシップは、1930年代なかばまでにはじまっていた。 1935年にアダムズは患者マティルダ・ホイットン(Matilda Whitton)から7,385ポンドを相続した。 彼女の全財産は11,465ポンドにのぼったし、[19] それぞれ2011年の価値で430,931ポンドと669,007ポンドに相当する。 遺言書は、彼女の親戚によって異議を申し立てられたが、しかし裁判で是認され、ただしアダムズの母に100ポンドをあたえる補足書はくつがえされた。[20] アダムズは、彼が患者らを「殺(ばら)した」("bumping off")ことに関する「匿名の郵便はがき」("anonymous postcards")を受け取りはじめたが、これは彼が1957年に新聞のインタヴューで認めたことである。[21] これらは、戦争まで1年に3通ないし4通の割合で受け取られ、それから1945年にふたたびはじまった。[22]

アダムズは、戦争のあいだじゅう、イーストボーンにとどまり、そして一般開業医師が召集された同僚の患者を加療する「プール・システム」("pool system")のために選ばれるのが望ましいとほかの医師らから思われないことに「激怒した」("furious")。[23] 1941年に彼は麻酔学の学位記(diploma)を受領し[23]そして1週間に1日、地元の病院で働き、そこで彼は、へまをやらかす人(bungler)という評判をえた。 彼は、手術中に寝入り、ケーキを食べ、金銭をかぞえ、そして麻酔ガス・チューブを取り違えさえし、患者らをめざめさせあるいはチアノーゼにした。[24] 1943年に彼の母親が死亡し[23]そして1952年にいとこサラが癌になった。 アダムズは、彼女が死亡する半時間前に彼女に注射をおこなって、そして歴史家パメラ・カレン(Pamela Cullen)によれば、これが唯一の、「博士(the Doctor)が『最期をやすらかにし』('easing the passing')ていたとみなすことができる事例」("case where it can be considered that the Doctor was 'easing the passing'")である。[25]

アダムズの経歴は大成功で、そして1956年までに「おそらく彼はイングランドで最も裕福な開業医師であった」("he was probably the wealthiest GP in England")。[1] 彼は、地域の最も有名な、かつ影響力を有するひとびとのうちいく人かを診察したが、 そのなかには、 下院議員でオリンピックのメダル獲得者デヴィッド・バーリー、 アドミラル(Admiral)のロバート・プレンダーガスト(Robert Prendergast)、 産業経営者サー・アレクサンダー・マグワイア(Sir Alexander Maguire) 第10代デヴォンシャー公爵エドワード・キャヴェンディッシュ(Edward Cavendish, 10th Duke of Devonshire)、 イーストボーンの警察署長(Chief Constable)リチャード・ウォーカー(Richard Walker)および 大勢のビジネスマンがいた。[26] 幾年間もうわさになり、そしてすくなくとも132通の遺言書でアダムズの名を挙げられたのちに、[27]1956年7月23日に、イーストボーン警察は、或る死者に関する匿名の電話をうけた。 それは、ミュージック・ホール芸能人レスリー・ヘンソン(Leslie Henson)からであったが、彼の友人ガートルード・ハレット(Gertrude Hullett)が、アダムズの治療を受けているあいだに予期せず死亡した。[28]

警察の捜査[編集]

捜査は、イーストボーン警察から8月17日に[29]首都警察の殺人事件班(Metropolitan Police's Murder Squad)にひきつがれた。 スコットランド・ヤードの高級官吏、刑事局長(Detective Superintendent)ハーバート・ハナム(Herbert Hannam)は、1953年の忌まわしいテディントン・トーパス殺人事件(Teddington Towpath Murders)を解決したことで知られていた。[29] 彼は、巡査部長(Detective Sergeant)チャールズ・ヒーウェット(Charles Hewett)によって援助された。 捜査は、1946年から1956年までの事例のみに焦点をあてることが決められた。[27] 内務省の病理学者フランシス・キャンプス(Francis Camps)によって調査された310の死亡証明書のうち、163が疑念を抱かせるものであった。[2] 多くのものは、患者を看護している看護婦に説明するのをアダムズが拒んだ物質の「特別な注射」("special injections")をされていた。 注射をする前に看護師に室から出るようにもとめることが彼の習慣であることが、うかびあがった。[30] 彼はまた、患者を親戚から隔離して、連絡をさまたげる習慣であった。

妨害[編集]

8月24日に、「なみはずれた指し手」("extraordinary move")で[31] 英国医師会(British Medical Association(BMA))が、イーストボーンの医師全員あてに、もし警察に事情聴取されたばあい「職業上の秘密」("Professional Secrecy")(たとえば、患者の秘密)を彼らに思い出させる手紙を送った。[32] ハナムは、印象づけられなかったが、とくにこれはもし骨を折って集められた情報があればそれは死んでいる患者に関係するであろうからである。 彼と法務長官(Attorney-General)サー・レジナルド・マニンガム=ブレア(Sir Reginald Manningham-Buller)(彼はすべての毒物事件を訴追した)は、BMAのセクレタリー、ドクター・マクレー(Dr Macrae)に、「禁を解くように彼にさせるように努めるように」("to try to get him to remove the ban")手紙を書いた。[32] 行き詰まり状態は、11月8日にマニンガム=ブレアがドクター・マクレーに会って事件の重要性について納得させるまで続いた。 この会見のあいだ、高度に異例な指し手で、 [33] 彼は、アダムズに関するハナムの187ページの秘密の報告をマクレーに手渡した。 マクレーは、報告をBMAの会長に持って行き、そして翌日、それを返した。 十中八九、彼もまたそれを複写し、そしてそれを被告人側に手渡した。 [34] 訴えられることの重大さを説得させられて、マクレーは、医師らが警察に語ることへの反対をやめた。 ついに、2人のイーストボーンの医師が警察に証言した。[35]

1956年11月28日、野党の労働党議員スティーヴン・スウィングラー(Stephen Swingler)とヒュー・デラージー(Hugh Delargy)は、事件にかんして英国下院で2つ質問する通知をしたが、1つは「過去6ヶ月間に」("past six months")総合医学会議(General Medical Council。GMC)にどのような「報告を[法務長官が]送った」("reports [the Attorney-General] has sent")かをたずねるものであった。[36] マニンガム=ブレアは、自分はGMCと「コミュニケーションはなかった」("had no communications")が、しかしそれの或るオフィサー(an officer)とのみはコミュニケーションをとったとこたえた。 彼は、報告には言及しなかった。[36] そのかわりに、彼は、リークにたいする捜査を扇動し、[36]ハナムじしんが[37]ドクター・マクレーとの会見にかんする情報をジャーナリスト、十中八九『デーリー・メール』のロドニー・ホールワース(Rodney Hallworth)、にわたしたとのちに断定した。[38]

会見[編集]

1956年10月1日に、ハナムはアダムズにでくわし、[39]そしてアダムズは訊ねた、「あなたは、こういううわさが事実に反しているとおわかりでしょうねえ?」("You are finding all these rumours untrue, aren't you?")[40] ハナムは、アダムズが偽造した処方箋に言及した:「あれはたいへんな不正でした[...]わたしは神の許しをもとめています。」("That was very wrong [...] I have had God's forgiveness for it")、アダムズはこたえた。[40] ハナムは、アダムズの複数の患者の死亡と彼らからの遺産の受け取りをもちだした。 アダムズは答えた:「多くのあれらは報酬の代わりでした、わたしは金銭など求めていない。それが何の役にたつんですか?("A lot of those were instead of fees, I don't want money. What use is it?) わたしは昨年、100ポンドの付加税(surtax)を納めたのですよ。」[40] ハンナはのちに言及した、「ミスタ・ハレットはあなたに500ポンドを遺しました。」 アダムズはこたえた、「まあ、まあ、彼は一生の友人でした [...] わたしは、あれ以上などとさえ思ったのです。」("Now, now, he was a life-long friend [...] I even thought it would be more than it was.")[40] さいごに、なぜ火葬用紙に、故人から相続しないと偽って述べたかその理由を訊ねられたとき、アダムズは言った:

ああ、あれはよこしまにしたのではありません。本当なんです。われわれはいつも、愛する親戚のために火葬が円滑にすすんでもらいたいのです。もしわたしが、遺言書のもとに金銭を得ると言ったなら、かれらは疑いをいだくでしょうし、そしてわたしは火葬と埋葬が円滑にすすんでもらいたいのです。ほんとうにあやしいことなどなかった。いつわりではなかったのです。(Oh, that wasn't done wickedly, God knows it wasn't. We always want cremations to go off smoothly for the dear relatives. If I said I knew I was getting money under the Will they might get suspicious and I like cremations and burials to go smoothly. There was nothing suspicious really. It was not deceitful.)[41]

捜索[編集]

11月24日に、ハナム、ヒーウェットおよびイーストボーン犯罪捜査課(CID)長プー警部(Detective Inspector Pugh)は、アダムズの家宅を、1951年の危険薬物法(Dangerous Drugs Act 1951)のもとに発行された令状で捜索した。 彼らが「モルヒネ、ヘロイン、ペチジンおよびその同類」("Morphine, Heroin, Pethidine and the like")をさがしているといわれたとき、アダムズはおどろいて、「ああ、あの類ですか。ここでじゃなにも見つからないでしょう。私は持っていません。めったにつかいませんし("Oh, that group. You will find none here. I haven't any. I very seldom ever use them")」と彼は言った。[42] ハナムがアダムズの危険な薬物の登録証(Dangerous Drugs Register) - 注文されそして使用されたそれらの記録 - をもとめたとき、アダムズは応えた:「おっしゃっていることがわかりません。 登録証はとってありません。("I don't know what you mean. I keep no register.")」[43] 彼は、1949年以来とっていなかった。[44] 自分がモレルに処方した危険な薬物の一覧をしめされたとき、アダムズは言った、「ほとんどすべてはわたしがやりました。ひょっとすると看護師らはあたえたのもあるかもしれませんが、しかし大部分はわたしでした("I did nearly all. Perhaps the nurses gave some but mostly me")」[43] – 公判ちゅうに看護師らのノートブックがしめすことと矛盾することになる。 ハナムはそれから述べた、「ドクター、あなたは、彼女が死亡する前日に彼女のために75 - 1/6グレーンのヘロインの錠剤を処方しましたね。("Doctor, you prescribed for her 75 – 1/6 grains heroin tablets the day before she died.")」 アダムズは応えた、「かわいそうに、彼女はおそろしく苦悶していました。 すべて使用しました。 わたしは自分で使用しました[...]多すぎると思われますか?("Poor soul, she was in terrible agony. It was all used. I used them myself [...] Do you think it is too much?" )」[43]

アダムズは、警察のために食器棚(cupboard)をあけた: 薬びんにまじって、「チョコレート - 積み重ねられた厚切り - バター、マーガリン、砂糖」("chocolates – slabs stuck – butter, margarine, sugar")。[45] 官公吏らがそれを検査しているあいだ、アダムズはべつの食器棚まで歩き、そしてジャケットのポケットのなかに2つの物をすべりこませた。 ハンナとプーが彼を難詰し、するとアダムズはモルヒネの瓶を2本見せた:彼の話では1本は、アニー・シャープ、[45]彼の治療中に9日前に死亡した患者で主な証人、 もう1本はミスター・ゾーデン("Mr Soden")のためにものと言った。[45] 彼は1956年9月17日に死亡していたが、しかし薬局の記録はのちに、ゾーデンが決してモルヒネを処方されていなかったことをしめした。[46] アダムズはのちに(1957年の主なる公判ののち)、捜索の妨害、瓶をかくしたこと、危険な薬物の記録をとっていなかったことで有罪判決をうけた。 のちに警察署で、アダムズは、ハンナに語った:

死にゆくひとの最後をやすらかにすることは、かならずしも邪悪ではありません。彼女[モレル]は、死にたがっていたのです。それが殺人であるはずがない。医師を訴えることは、不可能です。(Easing the passing of a dying person isn't all that wicked. She [Morrell] wanted to die. That can't be murder. It is impossible to accuse a doctor.)[21][44]

アダムズの邸宅の地下室(basement)に、警察はみつけた、「大量の未使用の磁器と銀器。 1つの室には、まだ包装されている自動車のタイヤが20と自動車の板ばねがいくつかあった。 ワインと火酒(spirits)が多量に貯蔵されていた。」("a lot of unused china and silverware.In one room there were 20 new motor car tyres still in their wrappings and several new motor car leaf springs.Wines and spirits were stored in quantity." )[47] ホールワースは、アダムズは、つぎの世界大戦にそなえて備蓄中であったと報告している。[48] 2階に、「1つの室は兵器庫に充てられていた[:]ガラスになっている陳列ケースに、自動拳銃が数丁。」("one room was given over to an armoury [:] six guns in a glass-fronted display case, several automatic pistols")[47] 彼はこれらのための許可証をもっていた。 別の室の用途は、「もっぱら写真用設備のためであった。 革のケース入りのたいへん高価な写真機」("wholly for photographic equipment.A dozen very expensive cameras in leather cases")があちこちにあった。[47]

セクシュアリティー[編集]

12月に、警察は『デーリー・メール』記者[49]のものである覚え書きを入手したが、これは「警察官吏、執政官および医師」("a police officer, a magistrate and a doctor")のあいだの同性愛のうわさに関するものであった。[50] 最後者は、アダムズを直接に暗示した。 この情報は、記者によれば、ハナムから直接に来ていた。[50] 「執政官」は、サー・ローランド・グウィン(Sir Roland Gwynne)、イーストボーン市長(1929年 - 1931年)でルパート・グウィン(Rupert Gwynne)の兄弟、イーストボーン議会議員(1910年 - 1924年)であった。[51] グウィンは、アダムズの患者で、そして毎日午前9時に訪問することが知られていた。 彼らは、しばしば休日にともにでかけ、そしてその9月にスコットランドで3週間をすごした。[52] 「警察官吏」('police officer')は、イーストボーンの警察次長(Deputy Chief Constable)、アレクサンダー・シーキングス(Alexander Seekings)であった。[53] ハナムは調査のこの線を却下し(1956年に同性愛的行為は違背であったにもかかわらず)、そして警察はそのかわりに記者を叱責した。[54] 覚え書きは、アダムズの、当時イーストボーンの権力者との緊密な関連の証拠である。[55]

アダムズには「情婦」("mistresses")が3人いるといううわさがあった[54]が、しかしこれはおそらく疑いをさけるための「みせかけ」("covers")にすぎなかった。[56] アダムズは、1933年ころ、ノラ・オハラ(Norah O'Hara)と婚約した[57]が、しかし彼女の父親がふたりに家を買い、そして家具を備え付けたあとの1935年に取り消した。 さまざまな説明が提示されてきた: サーティース(Surtees)は、それはアダムズの母が、彼に「商売」("trade")結婚をしてもらいたくなかったからであるとほのめかしているが[58]、ただし彼はまた、アダムズはオハラの父親に娘らに有利なように遺言書を変えてもらいたかった、といううわさを引用している。 カレンは、同性愛であることはべつとして、アダムズは、結婚していることに、初老の女性の患者らとの関係をじゃましてもらいたくなかったということを示唆した。[54] アダムズは終生オハラとはともだちのままでいて、そして遺言書で彼女の名を挙げた。[59]

逮捕[編集]

アダムズは、1956年12月19日に逮捕された。[60] 罪名をいわれたとき、彼は言った:

謀殺(murder)...謀殺...それが謀殺であったとあなたは証明できるのですか?[...]それは謀殺であるとあなたが証明できないとわたしは思っていた。彼女はとにかく死にかけていたのです。[21][44]

それから、彼はケント・ロッジからつれてゆかれるあいだ、彼は伝えられるところによれば受付係の手をしっかりつかみ、彼女に語った: 「天国で会いましょう」("I will see you in heaven.")[21][44]

ハナムは、諸事件のうちすくなくとも4つにおいて、訴追を正当化するだけの証拠をあつめた: クララ・ニール・ミラー(Clara Neil Miller)、ジュリア・ブラッドナム(Julia Bradnum)、エディス・アリス・モレル(Edith Alice Morrell)およびガートルード・ハレット(Gertrude Hullett)にかんする。[2] これらのうち、アダムズは、1つの罪名で訴えられた:モレルの殺害、しかしハレットの死亡(と彼女の夫の死亡も)については「システム」('system')を証明するために使用された。[61]

拘禁聴聞会[編集]

拘禁聴聞会(committal hearing)は、1957年1月14日にルイス(Lewes)でおこなわれた。[62] 治安判事らの議長はサー・ローランド・グウィンであったが、しかし彼はアダムズとの親密な交友のために辞職した。[62] 聴聞会は1月24日に終了し、そして5分間の審議ののちアダムズは公判に付された。 聴聞会ののち、1点の重要な証拠、1000ポンドの小切手が行方不明になり、さらなる警察の捜査を教唆した。 犯人が見つからなかった一方で、スコットランド・ヤードは、地元イーストボーン副警察署長(Deputy Chief Constable of Eastbourne)シーキングス(Seekings)がそれをおきちがえてアダムズを助けたのではないかと疑った。 シーキングズは、アダムズおよびグウィンとともに休暇をとっていたと知られていて、そして1957年1月にグウィンが入院していたあいだ彼の収入の面倒をみていた。[53] 1957年3月18日にオールド・べーリー(Old Bailey)で公判がはじまったときまでに、訴因はモレルのみに減じられ、ガートルード・ハレットは、あるかもしれない別の第2の公判のためにとっておかれた。 3日後、あらたな殺人法(Homicide Act)が施行された。毒物による謀殺は、死刑にはならない犯罪に変わった。 アダムズは、この日より前に拘禁されたので、もし有罪判決であれば、それでもやはり死刑に直面することになる。 もし内相が寛大な措置をあたえる決心をするならば、殺人の第2の訴因、ハレットの罪名の有罪判決は、アダムズに終身刑の判決をいいわたすことがはるかに難しくなる。[7]

『アダムズ・アンド・イヴズ』(Adams and Eves)[編集]

1957年2月22日に、警察は、事件に関する、名誉毀損的で潜在的に偏見的な『アダムズ・アンド・イヴズ』(Adams and Eves)というタイトルの詩作品を通知された。 これは、13日にキャヴェンディッシュ・ホテル(Cavendish Hotel)で客150人のまえでマネージャーによって読まれていた。 或るオフィサーは捜査に10日間を費やし、そして詩作品が手渡されそして再び写しをとられ再び配布された手の鎖を発見した。 しかしながら、原著者は発見されなかったが、ただし、名前が明らかでないフリート・ストリート(Fleet Street)のジャーナリストが嫌疑をかけられた。 詩作品はこういう終わり方をしていた:

[...]

It's the mortuary chapel
If they touch an Adam's apple
After parting with a Bentley as a fee
So to liquidate your odd kin
By the needle of the bodkin

Send them down to sunny Eastbourne by the sea.

エディス・アリス・モレル(Edith Alice Morrell)[編集]

モレルは、チェシャーにいる息子のもとを訪れているあいだに1948年6月24日に脳血栓症(発作(a stroke))をわずらった、裕福な未亡人であった。 彼女は部分的に麻痺し、そして入院させられた。 彼女のかかりつけの医師であるアダムズは、26日に到着し[63]そして翌日に彼女は痛みのためにモルヒネ(4分の1グレーン)を処方された。 アダムズは彼女をイーストボーンに連れ帰り、そしてモルヒネをつづけ、服用量を徐々に増やし、ついに彼女は常用中毒者になった。[要出典]

モレルはいくつかの遺言書をつくった。 なかにはアダムズが、大金、モレルのロールス・ロイス・シルヴァーゴースト(1500ポンド相当[64])および家具を受け取ったものもあれば - 全然、彼の名が挙げられていなかったものもあった。[65] さいごに、1950年9月13日に、彼女の遺言書からアダムズを完全にとりのぞく補足書が書かれた。[66] 1年間と3ヶ月間の治療ののち、彼女は1950年11月13日に81歳で死亡した。[64] アダムズは、死因を「発作」("stroke")[64]と証明し、そして遺体を検査するとき、彼女が死亡していることを確認するために彼女の手首に細長い切れ込みをいれた。[67] 最後の補足書にもかかわらず、アダムズは、ロールス=ロイス、ジャコバンの食器棚(Jacobean court cupboard)および276ポンド相当の銀のカトラリーをふくむアンティークなチェストを相続した。[64] モレルの死ののち、彼はまた、彼女がじぶんに買った赤外線ランプ 60ポンド相当 を運びさった。[68] アダムズは、1100回の訪問でモレルの財産をビラで宣伝し、[69]それには全部で1674ポンドを費やした。[70] 警察は、アダムズはモレルの治療中に彼女のもとを、あわせて321回訪れたと見積もった。 彼女の火葬用紙で、アダムズは「自分が気づいているかぎりでは」("as far as I am aware")自分は死にたいして金銭的関心をもっていないと述べ、それによって検視の必要を避けた。[64]

ガートルード・ハレット(Gertrude Hullett)[編集]

1956年7月23日に、アダムズの別の患者ガートルード・ハレットが50歳で死亡した。[71] 彼女は4ヶ月前の夫の死亡以来意気消沈していて、 そして大量のバルビタール・ナトリウムとフェノバルビタール・ナトリウムを処方されていた。[72] 彼女は、自殺したいという願望についてしばしばアダムズに語っていた。[71]

1956年7月17日にハレットは、アダムズにたいして1000ポンドの小切手をきった - 彼女の夫が彼に買ってやると約束したMG (自動車)の車の代金を支払うために。[73] アダムズは翌日自分の口座に小切手を支払い、そしてそれが21日までに決済されるであろうと言われるや特別に決済されることをもとめた - 翌日に自分の口座に着くように。[74]

7月19日に、ハレットは過量摂取をしたと考えられており、そして翌朝、昏睡状態で見つかった。[71] アダムズは手が空いていなかったし、そしてその日のちにアダムズが到着するまで同僚のドクター・ハリス(Dr Harris)が彼女を診察した。 議論のあいだに1回ならずアダムズは、彼女の意気消沈あるいはバルビタールの医薬治療に言及しなかった。[73] 彼らは、脳出血がきわめて起こりそうであると決めた。 21日に、病理学者ドクター・シェラ(Dr Shera)が脊髄液のサンプルをとるために呼び入れられ、そしてただちに、麻薬中毒のばあいに彼女の胃内容物が検査されるかどうかたずねた。 アダムズとハリスの両者はともにこれに反対した。[71] シェラが立ち去ったのち、アダムズはイーストボーンのプリンセス・アリス病院(Princess Alice Hospital)の同僚を訪れ、そしてバルビタール中毒の治療について訊ねた。 彼は、5分間ごとにメジマイド(Megimide)10ccをあたえるように命じられ、使用するために100ccをあたえられた。 使用説明書の推奨量は100ccないし200ccであった。[75] ドクター・コック(Dr Cook)もまた、ハレットに点滴静注をするように彼に命じた。 アダムズは、そのようにしなかった。[76]

翌朝、8時30分、アダムズは、プライベートな検視の約束をするために検視官を呼んだ。 検視官は、患者がいつ死亡したか訊ね、するとアダムズは、彼女はまだですと言った。[76] ドクター・ハリスはその日ふたたび訪れ、そしてアダムズはそれでもやはり潜在的なバルビタール・ナトリウム中毒に言及しなかった。 ハリスが立ち去ったとき、アダムズは、たった1回メジマイドを10ccを注射した。[76] ハレットは気管支肺炎にかかり、そして23日午前6時にアダムズはハレットに酸素をあたえた。[77] 彼女は23日午前7時23分に死亡した。[77] 21日にとられた尿サンプルの結果は、ハレットの死ののち、24日に受け取られた。 それは彼女が体内に115グレーンのバルビタール・ナトリウムを有していたことをしめした - 致死量の2倍である。[78]

ハレットの死の死因審問は、8月21日におこなわれた。 検視官は、アダムズの治療を質問し、そして要約において「患者の既往歴を知ってる医師が」「ただちにバルビタール・ナトリウム中毒を疑」わなかったことは「とんでもないことで」あったと言った。(in his summing up said that it was "extraordinary that the doctor, knowing the past history of the patient" did not "at once suspect barbiturate poisoning".)[79] 彼は、アダムズの10ccのメジマイドはべつの「たんなるジェスチャー」("mere gesture")であると説明した。[79] 死因審問は、ハレットは自殺をとげたと断定した。[80] 死因審問ののち、1,000ポンドの小切手が、行方不明になった。[81]

ハレットは、過量の5日前に書かれた遺言書で、アダムズに自分のロールス=ロイス・シルヴァー・ドーン(Rolls-Royce Silver Dawn)(すくなくとも2900ポンドの価値がある[81])を遺した。 アダムズは逮捕される6日前にそれを売った。[81]

公判[編集]

アダムズは、初めモレルの謀殺で公判に付され、ハレットの訴因はのちに訴追される予定であった。 公判は17日間、続いたが、これは英国においてその時点で最長の公判であった。[82] それは、パトリック・デヴリン裁判官(Mr Justice Patrick Devlin]])が裁判長であった。 デヴリンは、事件のトリッキーな性質をつぎのように要約した:「殺害行為が専門家の証言によって証明されるということは、きわめて好奇心をそそる状況であり、これらの法廷においてユニークであるかもしれない。」("It is a most curious situation, perhaps unique in these courts, that the act of murder has to be proved by expert evidence.")[4] 被告人側弁護士サー・フレデリック・ジェフリー・ローレンス(Sir Frederick Geoffrey Lawrence) - 「動産および離婚事件の専門家[であり]刑事裁判においてはよそもの」("specialist in real estate and divorce cases [and] a relative stranger in criminal court") -は、初めての殺人事件を弁護していた - は陪審に、殺害がおこなわれたという、ましてや殺害がアダムズによっておこなわれたという、証拠はないことを納得させた。 彼は、起訴はモレルを看護した看護師らからの証言におもにもとづくこと - そして証人らの証言のどれもがその他と一致しないことを強調した。 そして、公判2日目に、彼は看護師らによって書かれた、アダムズによるモレルの治療を証実するノートブックをもちだした。 検察側は、これらのノートブックをまったく見ていないと主張した(それらは、公判前準備手続きの証拠のリストに記録されているけれども)。[83] これらは看護師らの諸事件の回想とはことなっていたし、そしてアダムズの処方にもとづいて、検察が考えていたよりもすくない量が患者にあたえられていたことをしめした。 さらには検察の2人の専門家の医療の証人らは異なる証言をした。 ドクター・アーサー・ダスウェート(Dr Arthur Douthwaite)は、殺害は確実に実行された(ただし彼は正確な日付に関しては証言のなかばで気持ちをかえた)[84]が、しかしドクター・マイケル・アッシュビー(Dr Michael Ashby)は、より無口であった。[85] 被告人側証人ドクター・ジョン・ハーマン(Dr John Harman)は、アダムズの治療は、ふつうでないけれども、無謀ではなかったということを強硬に主張した。 さいごに、検察側は、饒舌なアダムズを証言するように呼ばず、それによって彼が「おしゃべりでわが身を絞首台に送る」("chatting himself to the gallows")ことをさけて被告人側によって打ち返されバランスを崩した。[86] これは思いもよらないことで、検察側と報道陣をぞっとさせ、裁判官をさえ驚かせた。[7]

陪審が評決を議論するべくさがったとき、首席裁判官レーナー・ゴダード(Lord Chief Justice Rayner Goddard)は、デヴリンに電話をかけ、もしアダムズが無罪であるなら、ガートルード・ハレットの殺害という第2の罪名で公判に付される前に彼の保釈を許可するように彼を強くうながした。 イングランド法律史上で殺人で訴えられた人物が保釈を許可されたことはけっしてなかったから、デヴリンは、不意を打たれた。[7] 公判にさきだつ拘禁聴聞会のあいだじゅう、ゴダードは、サー・ローランド・グウィン(Sir Roland Gwynne)とともに正餐をとっているのをルイスのホワイト・ハート・ホテル(White Hart hotel)で見られていた。[87] ゴダードは、首席裁判官として、そのときまでに、すでにアダムズの事件を審理するようにデヴリンを指名していた。[7]

1957年4月9日、陪審は44分後に戻ってきてアダムズは無罪と評決された。[88]

公判における偏見と政治的干渉[編集]

公判が「最高級の」("at the highest level")ひとびとによって「妨害され」("interfered with")[89] ていたということを示唆する、相当な証拠がある。[90] 重要例としては、1957年1月のアダムズのための拘禁聴聞会のあいだに、ゴダードは、被告人の恋人とされているサー・ローランド・グウィン(1929年から1931年までイーストボーン市長)およびもと法務長官ハートリー・ショークロス(Hartley Shawcross)とともに、ルイスのホテルで正餐をとっているのを見られた。[91]

看護師らのノートブックの紛失[編集]

アダムズのもとで働いていた看護師らによってなされた記録のうち8冊は、公判前の警察の記録に記録されていたが公判がはじまるまえに消え[83]、サー・レジナルド・マニンガム=ブレアは、自らそれらに親しく接する機会をうばわれた。 彼は、公判の2日目に被告人側によってそれらのコピーのみを示された。 これらの書類は、十分に準備された被告人側によって、アダムズにたいしてもともとノートを書いた看護師らによってあたえられる証拠に対抗するために使用された。 ことの6年後、これらのノートは、看護師ら自身の記憶よりも信頼できると言われ得よう。 被告人側は、なぜこれらの書類を入手したかその理由を説明するようにもとめられなかったし、そして法務長官は、「サー・ブリイング・マナー」("Sir Bullying Manner")というニックネームにもかかわらず、この件を追求する努力を払わなかった。 彼はまたあらたな証拠に接するために休会をもとめなかった - 裁判官であれば確実にそれをあたえるであろうという事実にもかかわらず。[92][93]

アダムズは、なぜ被告人側がノート・ブックを有するようになったかの3つの矛盾する説明をした: これらは、彼がそれらが自分の動産のなかに見つけたときに、モレルの息子によって彼にあたえられた。 これらは、彼女が死亡したのち、彼の戸口に匿名で配達された。 いっぽう、彼の事務弁護士はのちに、これらは公判のすぐまえに被告人側チームによってアダムズの診療場で見つけられたと主張した。 しかしながらすべての版は、警察の諸記録とは異なっている: 公訴局長官にあたえられた拘禁聴聞会のための証拠物件のリストにおいて、これらのノートはあきらかに言及されている。 法務長官はそれゆえそれらが存在することを知っていたに違いない。[94] カレンによれば、これは、「ドクター・アダムズにたいする事件の下に坑道をほろうという最高級の意志があったこと」("that there was a will at the highest of levels to undermine the case against Dr Adams")をしめしている。[2]

BMAへの証拠の開示[編集]

1956年11月8日に、法務長官は、ハナムの187ページの報告を、事実上医師の職業組合である英国医師会(British Medical Association)の会長に手渡した。 この文書は - 検察側のきわめて重要な文書は - 被告人側の手にあり、これは、内相グウィリム・ロイド・ジョージ(Gwilym Lloyd George)が、マニンガム=ブレアを叱責するために、こういう書類は「議会あるいは議員個人に」("Parliament or to individual Members")しめされてはならないと述べた状況であった。 「この文書の開示はわたしをそうとう困惑させそう」("the disclosure of this document is likely to cause me considerable embarrassment")だから、「わたしは、害悪が結果しないことを希望することしかできない」("I can only hope that no harm will result")。[95]

「起訴の取り下げ」(nolle prosequi)の使用[編集]

モレル殺害という訴因に関する無罪の評決ののち、法務長官は、ハレットの死亡についてアダムズを訴追するちからを有していた。 彼は、nolle prosequi(起訴の取り下げ)- 歴史的に、被告人が公判に付されるにはあまりに悪いときに同情的な理由でのみ使用されたちから - によって証拠を提供しないことを選んだ 。 これは、アダムズにはあてはまらなかった。 デヴリンは公判後の本において、「訴権の乱用」("an abuse of process")という言葉使いまでした。[7]

事件の選び方を誤った[編集]

ハナムの助手チャールズ・ヒーウェットは、モレルの遺体は火葬されていてそれゆえ陪審に提示する証拠は無いから、マニンガム=ブレアのアダムズをモレルの殺害で訴追する決定に双方のオフィサーがどれくらいびっくり仰天したかを描写した。[48] 彼は、この医師に対するほかの事件があり、それらのばあい薬物の痕跡は発掘された遺物に見いだされていたが、それらは証拠としていっそう強制的であった。[48] カレンもまた、モレルを、警察がたいへん不審であると考えた4つのうち「最も弱いもの」("the weakest")と説明した。[2]

干渉の理由であるかもしれないと提示されたもの[編集]

  • 国民保険サービスの状況:この事件は、「医療職にとってたいへん重要であった」("very important for the medical profession")。[96]国民保険サービス(National Health Service)は1948年に創設されたが、しかし1956年までに財政的に限界点まで拡張され、そして医師らは不満をいだいていた。[90]じっさいに、医師の報酬を考慮するために王立委員会(Royal Commission)が、1957年2月に設立された。[90]もし死刑判決を言い渡された医師がいれば、絞首刑に処せられないように、サービスからの「大規模の離反」("mass defections")につながるであろう[90]。そのうえ、それは、サービスに対する、そしてときの統治にたいする公衆の信頼を揺るがせるであろう。[90]
  • スエズ危機:1956年7月26日にエジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を公表した。これは英国とフランスによって反対され、そして最後通牒は10月30日に発せられた。爆撃は、次日にはじまった。11月5日に英国とフランスは侵攻した。合衆国およびNATOからの政治的および経済的圧力は、12月24日までに撤退につながった。1957年1月に首相アンソニー・エーデンは辞職し、次はハロルド・マクミランであった。状況が状況であるから、ハロルド・マクミランが1957年1月10日に首相になったとき、彼はエリザベス女王に、自分の統治が「6週間」持続することを保証できないとかたった。[97]アダムズの運命はそれゆえよろめいている統治のそれとからみついていた。
  • ハロルド・マクミラン(Harold Macmillan)リンク:1950年11月26日に第10代デヴォンーシャー公爵エドワード・キャヴェンディッシュ(Edward Cavendish, 10th Duke of Devonshire)が心臓発作をおこした。アダムズは彼のせわをし、そして彼が死亡したときに彼のかたわらにいたが、これはモレルの死亡の13日後のことであった。[98]公爵は死亡の前14日間、医師に診察してもらっていなかったのだから、検視官に通知されるべきであった。アダムズは、死亡にたちあっていたけれども、法における抜け穴のために、公爵が自然死をとげたという死亡証明書に署名することができた。[98]公爵の姉妹が、ハロルド・マクミランと結婚していたし、そしてなかには公判の準備中に首相になったマクミランは、この事件がこれいじょう捜査されてもらいたくなかったかもしれないということを主張するひともいる:[90]法務長官マニンガム=ブレアは、内閣の会合に定期的に出席した。[99]

警察の保存記録[編集]

事件に関するスコットランド・ヤードのファイルと公訴局長官(Director of Public Prosecution)のそれらは、2033年まで非公開の予定であった。[9] これは、被疑者、証言者、および事件のほかの関係者の高齢を考慮すれば、普通でない決定であった。 ファイルは、2003年に時別な許可があたえられたのちに公衆に公開された。[9]

不審な事例[編集]

捜査ちゅうにハンナによってあつめられた証言から証拠のいくつかを引用する価値があるが、しかしこれらは決して法廷で空気にあてられなかった。 全体的に考えれば、これらは、或るひとつの手口(a certain modus operandi)を示唆している:[100]

  • 1939年8月 - アダムズは、アグネス・パイク(Agnes Pike)を治療中であった。しかしながら、彼女の事務弁護士らは、彼が彼女にあたえていた催眠薬の量を心配し、そしてべつの医師ドクター・マシュー(Dr Mathew)に治療を引き継ぐようにもとめた。ドクター・マシューは、アダムズのいるところで、彼女を診察したが、しかし病気の存在を見つけることができなかった。患者は、「薬物の影響を強くうけて」("deeply under the influence of drugs")、話の筋がとおらず、そして自分の年齢を200歳と言った。のちに、診察中にアダムズは不意に進み出て、そしてパイクにモルヒネを注射した。なぜこうしたのか訊ねられてアダムズは応えた「彼女が暴力をふるうかもしれないから」("because she might be violent")。ドクター・マシューは、アダムズが、すべての親戚に面会を禁じていたことにきづいた。ドクター・マシューは、アダムズの医薬治療をとりやめ、そして8週間の彼の治療ののちパイクは自分で買い物をし、そしてじゅうぶんな能力を回復した。[101]
  • 1946年12月24日 – エミリー・ルイズ・モーティマー(Emily Louise Mortimer)が75歳で死亡した。のちになってアダムズは、彼女の室からブランデーのボトルと置き時計をとった。彼は警察に、置き時計は自分によって貸与されていたことと「ナーシング・ホームに火酒を残しておくことは正しく」('right to leave spirits in a nursing home')ないことを主張した。アダムズは、モーティマーの遺言書から残余部分を受け取り、そして1957年までに彼が相続した分け前から配当金の1950ポンドをうけた。[102]
  • 1950年2月23日 – エーミー・ウェア(Amy Ware)が76歳で死亡した。アダムズは、彼女の死亡のまえに親戚に会うのを禁じていた。彼女は、自分の全財産8,993ポンドのうち1000ポンドをアダムズに遺し、しかしアダムズは、火葬用紙で自分は遺言書の受取人ではないと述べた。彼はうったえられ、そしてこれのために1957年に有罪判決を言い渡された。[103]
  • 1950年12月28日 – アナベル・キルガー(Annabelle Kilgour)が89歳で死亡した。彼女は、発作をおこした7月から、アダムズによって診察されていた。アダムズが彼女に鎮静剤をあたえはじめた直後に、彼女は12月23日に昏睡状態におちいった。のちにかかわった看護師は警察に、自分は、「アダムズはあやまった注射をしたかまたは集中した型であることを確信している」('quite certain Adams either gave the wrong injection or of far too concentrated a type")と語った。キルガーは、アダムズに200ポンドと置き時計を遺した。[104]
  • 1952年1月3日 – アダムズはフェノバルビトン錠剤を5000錠、購入した。4年後に家宅捜索がされたときまでに、なにも残っていなかった。[105]
  • 1952年5月11日 - ジュリア・ブラッドナム(Julia Bradnum)が85歳で死亡した。前年、アダムズは彼女に、遺言書は有効であるかどうかをたずね、そしてそれを点検するために銀行に同行しようと申し出た。それを調べるや、彼は、彼女が受取人らに「住所」("addresses")をあたえていないことと、それが書き直さなければならないことを指摘した。彼女は、養女に家を遺したかったが、しかしアダムズは、家を売ってから誰であれ彼女があたえたい人に金銭をあたえることがいちばんよいのではないかと提案した。これを彼女はおこなった。アダムズは結局661ポンドをうけとった。アダムズは、この患者を診察しているあいだ、彼女の手をにぎり、そして片膝をついて彼女に雑談しているのがしばしば見られた。[106]
    • ブラッドナムは、死亡する前日に、家事をして、そして散歩をしていた。翌朝、彼女は目ざめたとき気分がすぐれなかった。アダムズが呼ばれ、そして彼女をみた。彼は彼女に注射をして、「3分もすれば終わるでしょう」("It will be over in three minutes")とのべた。そのとおりであった。アダムズはそれから確認し、「彼女が死んだのではないかと思う」("I'm afraid she's gone")そして室を去った。[106]
    • ブラッドナムは1956年12月21日に発掘された。アダムズは、ブラッドナムは脳出血のために死亡したと死亡証明書で述べた。フランシス・キャンプスは、彼女の脳をしらべ、そしてこの可能性を排除した。遺体の残りは、死亡の真因を演繹するべき状態ではなかった。遺言執行者アダムズがブラッドナムの棺の上に、彼女が1952年5月27日に死亡したことを述べるプレートを置いていたことが注意された。これは、彼女の遺体が埋葬された日付であった。[106]
  • 1952年12月22日 - ジュリア・トマス 72歳は、12月上旬にネコが死んだのちアダムズ(彼を彼女は「ボバムズ」("Bobbums")と呼んだ)から鬱病の治療をうけつつあった。19日に、アダムズは鎮静剤をあたえたので、彼女は「朝は気分がよくなった」("better for it in the morning")ものであったことになる。翌日、彼女はさらに錠剤をあたえられたのち昏睡状態におちいった。21日に、彼は、トマスの調理人に語った:「ミセス・トマスはわたしにタイプライターをあたえる約束をしてくれましたから、いまもってゆきます」("Mrs. Thomas has promised me her typewriter, I'll take it now")彼女は翌朝午前3時に死亡した。[107]
  • 1953年1月15日 – ヒルダ・ニール・ミラー(Hilda Neil Miller) 86歳 が、その姉妹と住んでいたゲスト・ハウスで死亡した。彼女らはそれ以前、幾ヶ月も郵便を受けとらなかったし、親戚らから切り離されていた。ヒルダの長期の友人ドリー・ウォリス(Dolly Wallis)がアダムズに彼女の健康状態についてたずねたとき、彼は彼女が「理解できない」("did not understand")医学用語で彼女に答えた。ヒルダを訪問ちゅう、アダムズが室内の品物をポケットにいれるのを看護師フィリス・オーエン(Phyllis Owen)に見られていた。アダムズは自らヒルダの葬儀と埋葬の手配をおこなった。[108]
  • 1954年2月22日 – クララ・ニール・ミラー(Clara Neil Miller)が87歳で死亡した。アダムズは彼女をみるとき、しばしばドアに錠をかけた - 一回は20分間まで。ドリー・ウォリスがこのことについてたずねたとき、クララは、彼は彼女の「個人的なことがら」("personal matters")で助けていたと言った:ブローチをピンでとめ、服をととのえる。彼のふとった両手は、彼女にとって「気持ちがよい」("comforting")ものであった。彼女もまた、薬物の影響を受けているようにみえた。[108]
    • 多くの年々のうち最も寒かった年、その2月の前半、アダムズは40分間、彼女の室に彼女とともにこしかけていた。看護師が気づかれぬまま中にはいると、クララの「ベッド・クローズはずべてはがされ...そしてベッドの足に近い端のてすりの上方に、彼女の胸にはナイト・ガウンがかけられ室の窓は上も下も開いていて」("bed clothes all off... and over the foot rail of the bed, her night gown up around her chest and the window in the room open top and bottom")、[109]、アダムズは彼女に聖書を読んでやっていた。このことに関してのちにハナムに直面したとき、アダムズは「そのことをあなたに語った人物は、なぜわたしがそれをしたか知らないのです」("The person who told you that doesn't know why I did it")。[110]
    • クララはアダムズに1,275ポンドを遺し、そして彼は彼女の死ののち、さらに彼女の財産に700ポンドを請求した。[111]彼がただひとりの遺言執行者であった。[111]彼女の葬儀は、アダムズによって手はずされ、そして彼とゲスト・ハウスの所有者アニー・シャープのみが出席した。[112]彼女は、クララの遺言書において200ポンドをうけとった。[113]アダムズは、式ののち教会区牧師に1ギニーのチップをあたえた。[112]クララは、1956年12月21日に警察捜査ちゅうに掘り出された遺体2柱のうちの1柱であった。フランシス・キャンプスは、彼女は - アダムズが死亡証明書で言った心臓の問題ではなく - 高濃度の薬物によるかもしれない、気管支肺炎にかかっていたと断定した。[114]処方の記録によれば、アダムズは気管支肺炎を治療するものはなにも処方していなかった。[114]
  • 1955年5月30日 – エーミー・ウェア(上述)の義理の兄弟ジェームズ・ダウンズ(James Downs)が、88歳で死亡した。彼は、4ヶ月前に片方のくるぶしを骨折してナーシング・ホーム(nursing home)にはいっていた。アダムズは、モルヒネをふくむ鎮静剤で治療していて、そのために彼は忘れっぽくなった。4月7日にアダムズは、彼の看護師シスター・ミラー(Sister Miller)に、彼をいっそう精神を機敏にする錠剤をあたえた。2時間後、彼のために遺言書を訂正する事務弁護士が到着した。アダムズは、事務弁護士に、自分は1000ポンドを相続する受遺者になる予定であるとかたった。事務弁護士は遺言書を訂正し、そして2時間後、別の医師ドクター・バークワース(Dr Barkworth)とともにもどってきて、バークワースは、患者は精神が機敏になると断言した。ドクター・バークワースは、その時間に3ギニーを支払われた。看護師ミラーはのちに警察に、自分は、その4月のより早い時期にアダムズが「もうろくした」("senile")ダウンズに語るのを聞いたと語った。「いいかいねえジミー、あなたはわたしにくれると約束したね... あなたがわたしの面倒を見てくれるだろうし、そしてあなたは遺言書に私の名前をいれさえしてくれないのはわたしはわかっているよ」("Now look Jimmy, you promised me... you would look after me and I see you haven't even mentioned me in your will.")「わたしはあなたにけっして報酬は請求しなかった」("I have never charged you a fee")。ダウンズは、36時間の昏睡ののち死亡したが、これはアダムズの最後の訪問の12時間後のことであった。アダムズは、サービスについて彼の財産に216ポンドを請求し、そして彼が「故人の死亡にたいして金銭的な関心はない」("no pecuniary interest in the death of the deceased")ことをのべるダウンズの火葬用紙に署名した。[115]
  • 1956年3月14日 – アルフレッド・ジョン・ハレット(Alfred John Hullett)が71歳で死亡した。彼は、ガートルード・ハレットの夫であった。彼の死亡の直後に、アダムズは、5グレーンのモルヒネをふくむミスタ・ハレットの名前で皮下注射用のモルヒネ溶液を入手するために薬剤師のもとに行き、そして処方は実際の日付よりもまえの日付をつけさせた。警察は、これはアダムズが私的な供給品から彼にあたえたモルヒネを覆い隠すためであると推定した。ミスタ・ハレットは、遺言書でアダムズに500ポンドを遺した。[116]
  • 1956年11月15日 – ニール・ミラーが死亡したゲスト・ハウスの所有者アニー・シャープ(Annie Sharpe) - したがって主要な証人 - が、「腹膜腔の癌腫症」("carcinomatosis of the peritoneal cavity")で死亡し、一方でハナムとヒーウェットは、ロンドンで公訴局長官と会っていた。[48]アダムズは、5日前に癌と診断し、そしてシャープにhyperduricなモルヒネと36錠のペチジンを処方していた。[111]警察はたいへん失望した:彼らには彼女にインタヴューする機会が2回あって、そしてハナムとヒーウェットは、彼女が「口を割」("crack")るところであると感じていた。[48]彼女はいそいで火葬され、彼女の死亡の捜査をさまたげた。[111]

ハナムはまた、アダムズの家のスタッフのうち4人がアダムズによってモルヒネ、ヘロインまたはペチジンのいずれかを処方されていたことを見いだした。 アダムズはこれらを国民保険制度で入手し、それでハナムに、彼はかれらの名前を使用しそして薬物を自分の供給品に保管しておく - 詐欺行為 - と断定する気にさせた。[117]

無罪放免ののち[編集]

公判の余波のなかで、アダムズは、国民保険制度を辞め、そして1957年7月26日に、8件の処方箋詐欺、4件の火葬用紙の虚偽記載、3件の1951年の危険薬物法(Dangerous Drugs Act, 1951)違反で有罪判決を言い渡され、罰金は2400ポンドで、経費は457ポンドであった。[118] 危険な薬物を処方する彼の許可は、9月4日に撤回され、そして11月27日に彼は総合医学会議(General Medical Council)によって医療登録簿(Medical Register)から名を削除された。[118] アダムズは、いっそう忠誠な患者の幾人かを診つづけ、そして彼らに薬を不法にこっそりと処方した。[118]

公判のすぐ後に、『デーリー・エクスプレス』の主犯罪記者パーシー・ホスキンズ(Percy Hoskins)は、アダムズをウェストゲート=オン=シー(Westgate-on-Sea)の隠れ家にさっと連れてゆき、そこで彼は2週間を費やして自分の人生を物語った。 ホスキンズは公判中にアダムズと友人になっていて、そして彼の罪責を疑う唯一の主要なジャーナリストであった。 アダムズは、インタヴュー代として10,000ポンドを支払われ、ただし彼は収益をけっしてつかわなかった - それらの紙幣は、銀行の金庫室で、手を触れられぬままみつかった。 アダムズはそれから、いくつかの新聞を文書誹毀で訴え、そして勝った。[119] 彼はイーストボーンにもどり、そこで彼は、彼が人々を殺害したという町の共通な信仰をものともせず、ひそかに開業しつづけた。 この信仰は、全体として友人・患者によって共有されなかった。 1つの例外は、ローランド・グウィン(Roland Gwynne)で、彼は、公判ののち。アダムズから距離を置いた。[120]

アダムズは、2回申請してかなわなかったのち1961年11月22日に一般開業医師として復帰し、そして危険な薬物を処方する権限は、翌7月に回復された。[121] 彼は、個人開業医として開業しつづけ、町の「レッド・ハウス」("Red House")開業とのパートナーシップは再開しなかった。 1962年8月にアダムズはアメリカへのビザを申請したが、しかし危険な薬物の有罪判決のために拒否された。[122]

アダムズはのちに、英国ハト・クレー射撃協会(British Clay Pigeon Shooting Association)の会長(そして名誉医療役員)(President (and Honorary Medical Officer))になった。[123]

ローランド・グウィンは、1971年11月15日に死亡した。 アダムズは、彼の死亡証明書に署名した。[124]

死亡[編集]

1983年6月30日、アダムズは、イースト・サセックスにあるバトル(Battle)で銃猟中に滑って尻の骨を折った。 イーストボーン病院に搬送されたが、胸部感染症にかかり、左心室機能不全で7月4日に死亡した。 彼は402970ポンドの財産を遺し、そしてパーシー・ホスキンズに1000ポンドを遺贈した。[125]ホスキンズは、その金銭を慈善にあてた。 アダムズは、最期まで諸遺産を受け取りつつあった。 1986年に彼の公判に基づいたTVドキュメント『The Good Doctor Bodkin Adams』(名医ボドキン・アダムズ)が、ティモシー・ウェスト(Timothy West)主演で製作された。

アダムズにたいする歴史的諸見解[編集]

2003年以前[編集]

アダムズに関する意見は、分かれてきたが、ただし、近年、彼は殺人犯であったという見解の傾向がある。 彼の公判に臨んだシビル・ベッドフォード(Sybille Bedford)は、彼は無罪であると強硬に主張していた。[126] しかしながら多くの出版物は、アダムズの生前に彼をとりまくうわさの広がりをしめして、名誉毀損でうったえられた。 いっぽうで、1961年の映画『Victim』は、主人公の法廷弁護士メルヴィル・ファー(Melville Farr)が「ドクター・ポーチェスター」("Dr Porchester")なる人物を弁護したことが言及されているときは、アダムズに言及している。 「彼は絞首刑になるべきだったよなあ」("He should have hung, you know")、ファーはキャロウェー(Calloway)に言われたが、彼は法廷にいた俳優である。彼は答えている、「そうなるだろうとわれわれが思った瞬間もあった。 皆ほっとしたよ。」("There was a moment when we thought he would. We were all very relieved.)[127]

アダムズの死亡ののちは、筆者らはいっそう自由に推理することができた。 1983年にロドニー・ホールワース(Rodney Hallworth)とマーク・ウィリアムズ(Mark Williams)は、アダムズは連続殺人犯であって、十中八九、統合失調症患者であったと断定した。 「多くの専門家の意見では、アダムズは、有罪判決を言い渡されていない、集団殺人犯として死亡した。」("In the opinion of many experts Adams died an unconvicted mass-murderer".)[128] パーシー・ホスキンズ(Percy Hoskins)は、1984年の著作において、アダムズは有罪でなく単に「ナイーヴ」("naive")で「強欲」("avaricious")であるという強硬な意見であった。 1985年にサー・パトリック・デヴリン(Sir Patrick Devlin)、裁判官は、アダムズは「金銭めあての安楽殺人犯人」(mercenary mercy killer)であったかもしれないが[129]、しかし、同情的であるけれども、彼は強欲であると同時に「死を売る用意があった」("prepared to sell death"):[123] 「彼は、自分自身を殺人犯でなく死の分配者(dispenser)とみなしていた[...]彼の意見によれば、彼はなにも悪いことをしていなかった。 医師が遺産を得ることに、ヘロインがなし得るかぎり幸福な死を[...]おかえしにさずけることに悪いことはない。」('He did not think of himself as a murderer but a dispenser of death [...] According to his lights, he had done nothing wrong. There was nothing wrong in a doctor getting a legacy, nor in his bestowing in return [...] a death as happy as heroin could make it.')[123] 彼はまた「ドクター・アダムズはミセス・ハレットの人生をおわらせるのを手伝ったと確信しえたであろう」("could be convinced that Dr Adams had helped to end Mrs Hullett's life") 2000年に、アダムズの元同僚サーティースは、彼を警察の反目の犠牲者であるという、より共感的な記述を書いた。

2003年以後[編集]

これらの著者は、意見の基礎を、ほとんどもっぱら、モレルに関して法廷で挙げられた証拠においた。[130] 警察の保管記録は、歴史家パメラ・カレン(Pamela Cullen)の請求でひらかれ[9]、彼女は、アダムズは「シップマン(Shipman)よりもおおくの犠牲者を出しているかもしれない」と書いている。[131] 彼女の意見では、アダムズは、「ドクター・アダムズの罪責の欠如によるよりも[事件の]提示の」("was presented than [to] Doctor Adams' lack of guilt")されかたによって、無罪放免になった。[132] 彼女はまた、ハナムの捜査は動機の観点から「目隠し革をかけられて」("blinkered")いたという事実を強調した: ハナムは、1950年代をつうじて連続殺人犯にほんとうに動機をあたえるもの、たとえば「身体的欲求、情動そしてしばしば現実のビザールな解釈」("physical needs, emotions and often bizarre interpretations of reality")についてほとんど知られていないから、金銭的利益が駆動力であると仮定した。[133]

ジョン・エムズリー(John Emsley)は、2008年の著作で、「30年間超のあいだに彼が自分の患者のうち160人を殺害したことはいまやほとんど確実である」("It now seems almost certain that over a 30-year period he killed 160 of his patients")と言うカレンに賛成している。 キャサリン・ラムズランド(Katherine Ramsland)は、公判の結果にもかかわらず、アダムズは「それにもかかわらず法が殺人とみなすことを連続して犯したと信じられている」("is nevertheless believed to have repeatedly committed what the law regards as murder")と記録している。[134] ハーバート・G・キネル(Herbert G Kinnell)は、『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(British Medical Journal)』における執筆で、アダムズは「シップマンのためのロール・モデルを提供したかもしれない」("possibly provided the role model for Shipman")と思弁している。[135]

法的遺産[編集]

アダムズの公判は、イングランドの法システムに多大な影響を及ぼした。

  • 第一に、もし医師が「苦痛、ないし心痛を和らげる目的で重篤な患者を治療し、結果として余命を短くされたとしても、医師は殺人罪に於いては有罪でない」("gave treatment to a seriously ill patient with the aim of relieving pain or distress, as a result of which that person's life was inadvertently shortened, the doctor was not guilty of murder")という二重効果の原則を確立した事である。[136][137]
  • 第二に、 拘禁聴聞会において言及された潜在的に偏見的な証拠(ハレットに関する - その時にモレルの殺害に関するアダムズの最初の公判で用いられなかったであろう証拠)の為に、タッカー委員会(the Tucker Committee)が開かれる事となり、これが後に1967年の刑事司法法(Criminal Justice Act 1967)において法律が変更される事に繋がった事。[8]
  • Though a defendant had never been required to give evidence in his own defence, Judge Devlin underlined in his summing-up that no prejudice should be attached by the jury to Adams not doing so.[7]
  • 最後に、被告人側は自分の弁護に証言する事を要求されないが、同時に証言しない事により、陪審によって如何なる偏見も付与される事は無いという事である。[7]
  • この事件は、危険薬物規則(Dangerous Drugs Regulations)に「患者の詳細と合計使用量の署名、及び日付入りの記録を必要とする」旨を追記させる契機ともなった。[8]

その後の諸事例[編集]

英国の別の医師ドクター・レナード・アーサー(Dr Leonard Arthur)は、ダウン症候群の新生児ジョン・ピアソン(John Pearson)の殺害未遂のかどでレスター・クラウン・コート(Leicester Crown Court)で裁判にかけられた。 彼は法律家チームの助言で、アダムズ同様に自分を弁護する証言をせず、専門家の証言に依存した。彼は無罪放免となった。[138]

2000年、ハロルド・シップマン(Harold Shipman)は、患者を殺害したとして刑事訴追された唯一の医師となった。 彼は15の訴因で有罪とされた。 そして、2002年にはシップマン調査団(the Shipman Inquiry)はハロルドが200人超を殺害したと断定した。

脚注[編集]

  1. ^ a b The Case of Dr John Bodkin Adams”. strangerinblood.co.uk. 2010年2月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e Cullen, p. 636
  3. ^ Cullen, p. 537
  4. ^ a b c Not Guilty, Time, 22 April 1957.
  5. ^ Law and Literature, ed. Brook Thomas, p. 149 – quoting Rupert Furneaux
  6. ^ The Times, 11 June 1985, p. 10
  7. ^ a b c d e f g h i Devlin, 1985
  8. ^ a b c Surtees, p. 132
  9. ^ a b c d Cullen, p. 7
  10. ^ He left £500 in his will to Marine Hall, his local Brethren congregation. (Cullen, p. 554)
  11. ^ a b c Cullen, pp. 19–23
  12. ^ Cullen, p. 23, p. 608
  13. ^ Cullen, p. 24
  14. ^ a b Cullen, p. 55
  15. ^ Bank of England inflation calculator, http://www.bankofengland.co.uk/education/Pages/inflation/calculator/flash/default.aspx
  16. ^ Kelly's Directory of Eastbourne (1929). Kelly's Directories Ltd 
  17. ^ Guilty on 14 Charges – TIME
  18. ^ a b Cullen, p. 56
  19. ^ (Cullen, p. 59)
  20. ^ Surtees, p. 24
  21. ^ a b c d Hoskins, 1984
  22. ^ Cullen, p. 536
  23. ^ a b c Cullen, p. 32
  24. ^ Surtees, p. 32, pp. 37–38
  25. ^ Cullen, p. 203
  26. ^ Surtees, p. 33
  27. ^ a b Cullen, p. 42
  28. ^ Cullen, pp. 15–17
  29. ^ a b Cullen, p. 40
  30. ^ Cullen, p. 593
  31. ^ "...almost designed to frustrate the investigation". (Cullen, p.587)
  32. ^ a b Cullen, p. 224
  33. ^ The Home Secretary, Gwilym Lloyd-George wrote to Manningham-Buller that: "The disclosure of this document is likely to cause me considerable embarrassment. As you know, police reports have always been treated as highly confidential documents and it has been the invariable practice to refuse to disclose their contents to Parliament or to individual Members. Indeed I should have no hesitation in claiming privilege if their production were required in a court of law." He ended: "I can only hope that no harm will result." (Quoted in Cullen, p. 230)
  34. ^ "It cannot be imagined that the Attorney General, a lawyer just one place below the rank of the Lord Chancellor of the realm could 'loan' a police report of such importance for Macrae to take it to his President and expect that only one particular paragraph would be read by them or that they would make no copy of the report." (Cullen, p. 232)
  35. ^ Cullen, p. 587
  36. ^ a b c Cullen, p. 227
  37. ^ Cullen, p. 232
  38. ^ Cullen, p. 228
  39. ^ In court, the defence would accuse Hannam of intentionally "waylaying" Adams in order to informally question him.Hannam denied this. (Cullen, p. 369)
  40. ^ a b c d Cullen, p. 189
  41. ^ Cullen, p. 190
  42. ^ Cullen, p. 235
  43. ^ a b c Cullen, p. 236
  44. ^ a b c d Cullen, p. 238
  45. ^ a b c Cullen, p. 237
  46. ^ Cullen, p. 551
  47. ^ a b c Cullen, p. 594
  48. ^ a b c d e Hallworth, 1983
  49. ^ Probably Rodney Hallworth (Cullen, p. 610)
  50. ^ a b Cullen, pp. 243–244
  51. ^ Cullen, pp. 622–635
  52. ^ Cullen, p. 188
  53. ^ a b Cullen, p. 47
  54. ^ a b c Cullen, p. 610
  55. ^ Cullen, p. 591 and p. 641
  56. ^ Cullen, p. 611
  57. ^ She was the sister-in-law of one of Adams's Brethren friends (Norman Gray), and her father owned six butchers in the town. (Surtees, p. 23)
  58. ^ Surtees, p. 23
  59. ^ He left her: "in gratitude and memories of our long standing friendship any one item of furniture or personal or household or domestic use ornament or consumption belonging to me at the time of my death". (Cullen, p. 553)
  60. ^ Cullen, p. 240
  61. ^ Cullen, p. 250
  62. ^ a b Cullen, p. 249
  63. ^ Cullen, p. 560
  64. ^ a b c d e Cullen, p. 94
  65. ^ Cullen, pp. 88–93
  66. ^ Cullen, p. 93
  67. ^ Cullen, p.564
  68. ^ Cullen, p. 96
  69. ^ Cullen, p. 563
  70. ^ Cullen, p. 565
  71. ^ a b c d Cullen, pp. 156–159
  72. ^ Over 80 days 1512 grains of the former and 6¼ grains of the latter were prescribed. (Cullen, pp. 158)
  73. ^ a b Cullen, p. 569
  74. ^ Cullen, p. 568
  75. ^ Cullen, p. 585
  76. ^ a b c Cullen, p. 571
  77. ^ a b Cullen, p. 153
  78. ^ Cullen, p. 161
  79. ^ a b Cullen, p. 185
  80. ^ The inquest has been described as a "travesty". In the opinion of Cullen, with an ongoing police investigation, the inquest should have been adjourned until the investigation had concluded. (Cullen, p. 184)
  81. ^ a b c Cullen, p. 577
  82. ^ Cullen, p.281.
  83. ^ a b Cullen, pp. 597–598.
  84. ^ Cullen, pp. 423–424.
  85. ^ When asked by Lawrence whether it was possible "to rule out the hypothesis that when the end came in that way at that time on that date, it was the result of natural causes?", Ashby replied "It cannot be ruled out". (Cullen, p. 448.)
  86. ^ Surtees, p. 122.
  87. ^ Cullen, p.633.
  88. ^ Cullen, p. 526.
  89. ^ Cullen, p. 596
  90. ^ a b c d e f Cullen, p. 599
  91. ^ Cullen, Pamela V., A Stranger in Blood: The Case Files on Dr John Bodkin Adams, London, Elliott & Thompson, 2006. ISBN 1-904027-19-9
  92. ^ Devlin, p72.
  93. ^ His reticence is especially perplexing since he was known for his doggedness. As Lord Devlin later said of him: "He could be downright rude but he did not shout or bluster. Yet his disagreeableness was so pervasive, his persistence so interminable, the obstructions he manned so far flung, his objectives apparently so insignificant, that sooner or later you would be tempted to ask yourself whether the game was worth the candle: if you asked yourself that, you were finished."
  94. ^ Cullen, pp. 598–599
  95. ^ Cullen, p. 230
  96. ^ Devlin, p. 35.
  97. ^ Macmillan, Harold. The Macmillan Diaries, The Cabinet Years, 1950–1957, ed. Peter Catterall (London, Macmillan, 2003).
  98. ^ a b Cullen, pp. 97–101.
  99. ^ Cullen, p. 648.
  100. ^ Cullen, p. 589
  101. ^ Cullen, pp. 61–65
  102. ^ Cullen, pp. 72–73
  103. ^ Cullen, pp. 124–126
  104. ^ Cullen, pp. 109–111
  105. ^ Documentation was found recording the purchase, though Adams denied it had taken place.(Cullen, p. 273)
  106. ^ a b c Cullen, pp. 102–108
  107. ^ Cullen, pp. 80–81
  108. ^ a b Cullen, pp. 132–144
  109. ^ Cullen, pp. 143–144
  110. ^ Cullen, p. 144
  111. ^ a b c d Cullen, p. 142
  112. ^ a b Cullen, p. 141
  113. ^ Cullen, p. 140
  114. ^ a b Cullen, p. 143
  115. ^ Cullen, pp. 126–131
  116. ^ Cullen, pp. 145–147
  117. ^ Cullen, p. 547
  118. ^ a b c Cullen, p. 548
  119. ^ Eric Ambler's 1963 book The Ability to Kill originally contained a chapter on Adams. 50 promotional copies were produced before the publishers got cold feet and removed the chapter for fear of being sued. The book was finally published with an alternative chapter included (jimbooks.com)
  120. ^ Cullen, p. 634
  121. ^ Cullen, p. 549
  122. ^ Cullen, pp. 550–552
  123. ^ a b c Profile of Adams at shycyberchamber.com
  124. ^ Cullen, p. 635
  125. ^ Cullen, pp. 553–554
  126. ^ "Whenever the name of Dr John Bodkin Adams comes up, I am asked, 'Did he do it?' 'Was he guilty?' And I always answer, 'No'". (Bedford, p. vii)
  127. ^ Victim, 1961
  128. ^ Hallworth, p. 243
  129. ^ Devlin, p. 199
  130. ^ Though Hoskins and Hallworth did visit Eastbourne in 1956 and talked to local residents and the police. Surtees interviewed many local residents and Adams himself, though decades after the events.
  131. ^ He "may have had more victims than Shipman – and he had a far more successful career as a serial killer" from strangerinblood.co.uk
  132. ^ Cullen, p. 556
  133. ^ Cullen, p. 637
  134. ^ Katherine M. Ramsland, Inside the minds of healthcare serial killers, 2007, page 38
  135. ^ Kinnell HG (2000). “Serial homicide by doctors: Shipman in perspective”. BMJ 321 (7276): 1594–7. doi:10.1136/bmj.321.7276.1594. PMC 1119267. PMID 11124192. http://bmj.com/cgi/pmidlookup?view=long&pmid=11124192. 
  136. ^ Treat Me Right: Essays in Medical Law and Ethics
  137. ^ The summing up affirmed "that a doctor will be immune from criminal liability if his or her primary intention in these circumstances can be characterised as an intention to relieve pain, rather than an intention to hasten death." (Australian Euthanasia Laws Bill 1996)
  138. ^ Killing the Willing ... And Others! Legal Aspects of Euthanasia and Related Topics

情報源[編集]

  • Bedford, Sybille (1989). The Best We Can Do. London: Penguin. ISBN 0-14-011557-9. 
  • Cullen, Pamela V. (2006). A Stranger in Blood: The Case Files on Dr John Bodkin Adams. London: Elliott & Thompson. ISBN 1-904027-19-9. 
  • Devlin, Patrick (1985). Easing the passing: The trial of Doctor John Bodkin Adams. London: The Bodley Head. ISBN 0-571-13993-0. 
  • Hoskins, Percy (1984). Two men were acquitted: The trial and acquittal of Doctor John Bodkin Adams. London: Secker & Warburg. ISBN 0-436-20161-5. 
  • Hallworth, Rodney; Williams, Mark (1983). Where there's a will... The sensational life of Dr John Bodkin Adams. Jersey: Capstan Press. ISBN 0-946797-00-5. 
  • Surtees, John (2000). The Strange Case of Dr. Bodkin Adams: The Life and Murder Trial of Eastbourne's Infamous Doctor and the Views of Those Who Knew Him. Seaford. ISBN 1-85770-108-9. 

読書案内[編集]

  • Ambler, Eric, The Ability to Kill, 1963 (promotional edition with chapter on Adams only – subsequent editions had it removed due to libel fears)
  • Cavendish, Marshall. Murder Casebook 40 Eastbourne's Doctor Death, 1990.
  • Chapman, D. 'Jill's Letter' in The Postmodern Malady, Concept, 2010. ISBN 978-1477645062.
  • Gaute, J.H.H. and Robin Odell, The New Murderer's Who's Who, Harrap Books, London, 1996.

外部リンク[編集]

  • "An Intruder at Eastbourne", Time, New York, 28 January 1957 (Account of the initial trial, which because of libel and contempt laws could not have been published in Britain at the time).