ジョニー・マーサー

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マーサー1947

ジョン・ハーンドン "ジョニー" マーサー (1909年11月18日 – 1976年6月25日)は北米の作詞家・作曲家・歌手。キャピトル・レコードを共同設立した。[1]

1930年代半ばから1950年代中期に活躍。1500曲以上書き、映画・ブロードウェイ劇もやった。アカデミー賞に19回入選、4回受賞。

誕生[編集]

ジョージア州サヴァンナ生まれ。

父は弁護士、母は1850年代に北米にやってきたクロアチア移民・アイルランド移民の娘。祖父は海の商人で、南北戦争中に海上封鎖をやった。[2] 曽祖父は将軍en:Hugh Weedon Mercer。その父はアメリカ独立戦争の革命軍の将軍Hugh Mercerで、プリンストンの戦いで戦死。マーサーはパットン将軍の遠縁のいとこでもあった。[3]

音楽の才能は母親ゆずりで、母は感傷的なバラードを歌った。父もスコットランド民謡を多く歌っていた。叔母は「あんたは生後6か月で鼻歌を歌っていたよ!」とマーサーに云い、ミンストレル劇やボードヴィルにマーサーを連れて行きクーン・ソング英語版ラグタイムを聴かせた。[4]

子ども時代[編集]

家族の避暑別荘“Vernon View”は沼地にあり、苔だらけの森・星だらけの夜空は後のマーサーのインスピレーション源になった。[5]

子供時代の遊び友達や召使は黒人であり、アフリカ起源の単語を多数ふくむガラ語で話して歌う釣り人や行商人の言葉を聴いて育ち、黒人教会も大好きだったため、黒人音楽に親しんだ。

「なによりも歌に魅了されていた」と後年マーサーは述懐。[6]

11歳で6人組で歌い始め、一度聴いた歌はすべて覚え作者に興味を抱くようになった。あるとき彼は兄に聞いた。

「なあ、兄ちゃん、いちばん良いソングライターってだれ?」

兄「そやなあ、アーヴィング・バーリンちゃうか」。[7]

歌詞を覚えるほか読書家で冒険小説を書いていた。トランペットとピアノを独学しようと思ったが、あまりうまくいかなかった。譜面は読めなかった。[8]

キャリア[編集]

初期[編集]

1928年19歳でニューヨークに引っ越し。ジャズブルースハーレムブロードウェイで爆発しており、ガーシュインコール・ポーター、バーリンのミュージカルレヴューが咲き乱れていた。[9]

John Mercerとしてボードヴィル端役から始めた。[10] 昼間は不動産を扱い夜に歌った。歌手Eddie Cantorの楽屋に行きコミック・ソングを提供しボツにされたがCantorはマーサーを応援する。[11]

処女作"Out of Breath (and Scared to Death of You)"(作曲は友人のEverett Miller)はレヴューThe Garrick Gaietiesで1930年に使われた。そのショーで未来の妻、コーラスガールのGinger Meehanと出会う。Meehanは以前は若きクルーナー歌手ビング・クロスビーの無数のコーラスガールの一人だった。作曲者Millerの父(大手出版社T. B. Harmsの重役)が同曲を出版した。[12]Joe Venuti and his New Yorkersが録音した。

20歳のマーサーは他のソングライターたちと付き合い始め、ミュージカルParis in the Springの契約でカリフォルニアに行ったときに自分の偶像ビング・クロスビールイ・アームストロングと会う。その時、ミュージカルに合わせて書くよりも自由に書くほうが良いことに気づく。

出版社で週給25ドルで雇われGingerと1931年に結婚。[13] マーサー夫人はコーラスをやめ針子(裁縫婦・女仕立て屋)になり、倹約のため母親ともどもブルックリンに引っ越し。Gingerがユダヤ人だったのでマーサーは結婚してから親に結婚を報告した。1932年,コンテストで勝ってポール・ホワイトマン楽団と歌えたが状況は変わらなかった。同年Frank Trumbauer's Orchestraで初レコーディング。

ヒット作家の仲間入り[編集]

Whiteman楽団にいたころに"Pardon My Southern Accent"を書き火が付いた。インディアナ出身のホーギー・カーマイケルはスタンダードスターダストを書き、すでに大御所だったが、南部出身のマーサーを気に入り、組んだ。[14]二人は一年かけて『Lazybones』をつくり、すぐにヒットになり、各自1250ドルの印税小切手をもらった。[15]

晴れてASCAPに加入。バーリン、ガーシュイン、ポーターなどに祝福されティンパンアレーの友愛会に参加した。1930年代はレヴューがすたれ映画が興隆した。ハリウッドにさそわれるとビング・クロスビーを追って西に行った。[16]

ハリウッド時代[編集]

夕暮れ時のキャピトル・レコード

1935年にハリウッドに着くと地位が確立した。精密なマイクロフォンが開発され、歌手は前もって録音されたものを口パクで映画内で演じたため、歌の味わいが深まり、作曲家の地位が高まった。マーサーは歌手としても成功。[17]

最初は駄作のOld Man Rhythm,次も駄作のTo Beat the Bandだったが、そこでフレッド・アステアと出会い、アステアの"I’m Building Up to an Awful Let-Down"がヒット。[18] マーサーは酒飲みのビング・クロスビーと付き合い、自身も飲み、羽目を外すことが多くなった。[19]

作曲も担当した『I'm an Old Cowhand from the Rio Grande』を映画Rhythm on the Range(1936)でクロスビーが歌い大ヒットし、売れっ子となった。同年『Goody Goody』もヒット。

絶頂期の始まり[編集]

1937年ワーナーのベテラン作曲家Richard Whiting(『Ain't We Got Fun?』)と組み『Too Marvelous for Words』がヒット、続いて『Hooray for Hollywood』をつくった。

Whitingが心臓発作で死ぬとHarry Warrenと『Jeepers Creepers』を作ってオスカー入選。同曲はルイ・アームストロングが録音し不滅の名曲となった。Warrenとは1938年の『You Must Have Been a Beautiful Baby』もヒット。二人のコミック・ソング"Hooray For Spinach"は映画Naughty But Nice(1939)に提供。[20] クロスビーとのデュエット"Mr. Crosby and Mr. Mercer"は1938年にヒット。

1939年ベニーグッドマンバンドのトランぺッタージギー・エルマンの曲に作詞した『And the Angels Sing』はビング・クロスビーカウント・ベイシーが録音したが、Martha Tiltonが歌いグッドマンが伴奏し、エルマンがトランペット・ソロを取ったバージョンがナンバー1になった。後に同曲のタイトル『そして天使も歌う』はマーサーの墓碑銘になった。

『Day In, Day Out (1939 song)』『フールズ・ラッシュ・イン』のヒットが続き、人気ラジオ・ショー「Your Hit Parade」ではトップ10のうちにマーサー作品が5曲入っていた。.[21]

ニューヨークで出版社を設立したが短命に終わった。ホーギー・カーマイケルとミュージカル『Walk With Music』をやったがプロットがまずく失敗。いくつかの落胆はあったもののマーサーは30歳でキャリアは絶好調だった。

ハロルド・アーレンとのタッグ[編集]

そして理想的な相方ハロルド・アーレンと出会い、作詞において洗練されたウィットと南部特有の言い回しをまじえたスタイルが確立した。最初に『Blues in the Night』(1941)が成功。アーサー・シュワルツは「恐らく最も偉大なブルース・ソングであろう」と評した。[22]

続いて『One for My Baby (and One More for the Road)』(1941), 『That Old Black Magic』 (1942),『降っても晴れても~Come Rain or Come Shine』 (1946)などを共作し、すべてスタンダード化した。[23]

ホーギー・カーマイケルと再々合流し『スカイラーク』 (1941), オスカー受賞の『In the Cool, Cool, Cool of the Evening』 (1951)を共作。ジェローム・カーンとは『You Were Never Lovelier』を共作。

1942年にハリウッドでキャピトル・レコードをプロデューサーのBuddy DeSylvaとレコード店のオーナーGlen Wallichsとともに設立。[1]

ついでにCowboy Recordsも共同設立した。1940年代中期にはハリウッドで最高の作詞家だった。アーヴィング・バーリン同様、文化の流行・変わりゆく言語に敏感だった。

頼まれ仕事で『Laura 』『Midnight Sun』『Satin Doll』など、すでにヒットしていたインスト曲にも詞をつけた。外国語曲にも作詞し、最も有名なのは『枯葉~Autumn Leaves』(フランス語:"Les Feuilles Mortes")だった。

1950年代[編集]

1950年代、バップロックンロールが流行り、仕事が激減したが、仕事は続け、いくつかは後世に残った。MGM映画『掠奪された七人の花嫁』 (1954)、『僕はツイてる英語版』(1958)に書いた。

ミュージカル『Top Banana』(1951), 『Li'l Abner』 (1956), 『Saratoga』(1959)にも書いた。

テレビ出演もたまにした。

『The Glow-Worm』(歌:Mills Brothers)、エラ・フィッツジェラルドも歌った『Something’s Gotta Give』がヒット。

マンシーニとのタッグ[編集]

1961年『ムーンリバー』をオードリー・ヘップバーン主演映画『ティファニーで朝食を』に、『酒とバラの日々』を同名映画に書き、スタンダード化。作曲は両方ヘンリー・マンシーニ。両方オスカー受賞。[24] 1963年Charadeも二人で共作。

1964年にエラ・フィッツジェラルドの有名な『ソングブック』シリーズに唯一の作詞家として取り上げられVerveから発売された。 トニー・ベネットに『I Wanna Be Around』(1962)、シナトラに『Summer Wind』(1965)を提供。[7]

晩年[編集]

1969年、出版人Abe OlmanとHowie Richmondとともに「ソングライターの殿堂」設立。 1971年、ニューヨークで回顧コンサートを催し、マーガレット・ホワイティング英語版が歌い、『An Evening with Johnny Mercer』というレコードになった。[25]

1974年ミュージカル『The Good Companions』興行。

1974年Pete Moore OrchestraとHarry Roche Constellationと自作曲のアルバムを二枚録音。後に一枚もの『...My Huckleberry Friend: Johnny Mercer Sings the Songs of Johnny Mercer』として再発。

[編集]

サバンナの墓地のベンチに彫られているマーサーの自画像とサイン

1975年、ポール・マッカートニーが共作を申し込むが脳腫瘍で死の床にいたマーサーはこれを辞退[26]。1976年6月25日カリフォルニア・ベルエアにて死去。

アカデミー賞[編集]

最優秀歌曲

2009年にクリント・イーストウッドがマーサーの伝記映画"The Dream's on Me" (Turner Classic Movies)を制作、DVD化。

主な作品[編集]


資料[編集]

伝記[編集]

  • Bach, Bob & Mercer, Ginger (1982). Our Huckleberry Friend: The Life, Times, and Lyrics of Johnny Mercer. Lyle Stuart. ISBN. 
  • Furia, Phillip (1990). Poets of Tin Pan Alley. Oxford University Press. ISBN. 
  • Furia, Phillip (2003). Skylark: The Life and Times of Johnny Mercer. St. Martin's Press. ISBN. 
  • Kimball, Robert, et al (2009). The Complete Lyrics of Johnny Mercer. Knopf. ISBN. 
  • Lees, Gene (2004). Portrait of Johnny: The Life of John Herndon Mercer. Hal Leonard. ISBN. 
  • Wilder, Alec (1990). American Popular Song. Oxford University Press. ISBN. 
  • Will, Max (1997). They're Playing Our Song. Da Capo Press. ISBN. 

参照[編集]

  1. ^ a b Johnny Mercer (1909–1976)”. The New Georgia Encyclopedia. 2006年12月9日閲覧。
  2. ^ Gene Lees, Portrait of Johnny: The Life of John Herndon Mercer’’, Pantheon Books, New York, 2004, ISBN 0-375-42060-6, p.15.
  3. ^ Lees, 2004, p. 11.
  4. ^ Philip Furia, ‘’Skylark: The Life and Times of Johnny Mercer’’, St. Martin’s Press, New York, 2003, ISBN 0-312-28720-8, p. 11.
  5. ^ Lees, 2004, p. 21.
  6. ^ Furia, 2003, pp. 12–13.
  7. ^ a b *Wilk, Max (1997). They're Playing Our Song (First ed.). Da Capo Press. ISBN 0-306-80746-7. 
  8. ^ Lees, 2004, p. 28.
  9. ^ Furia, 2003, p.39.
  10. ^ Furia, 2003, p.39.
  11. ^ Lees, 2004, p. 58.
  12. ^ Lees, 2004, p. 61.
  13. ^ Furia, 2003, p.61.
  14. ^ Furia, 2003, p.70.
  15. ^ Furia, 2003, p.73.
  16. ^ Gottfried, Martin (1984). Broadway Musicals. New York: Abradale Press. ISBN 0-8109-8060-6. 
  17. ^ Furia, 2003, p.79.
  18. ^ Lees, 2004, p. 115.
  19. ^ Furia, 2003, p.83.
  20. ^ Furia, 2003, p.106.
  21. ^ Furia, 2003, p. 111.
  22. ^ Bob Bach and Ginger Mercer, Our Huckleberry Friend: The Life, Times, and Lyrics of Johnny Mercer, Lyle Stuart, Secaucus New Jersey, 1982, ISBN 0-8184-0331-4, p.98
  23. ^ Furia, Philip (1992). Poets of Tin Pan Alley. New York & Oxford: Oxford University Press. pp. 151, 273–274. ISBN 0-19-507473-4. 
  24. ^ Roger Hall,A Guide to Film Music: Songs and Scores, PineTree Press, 2007, p. 13.
  25. ^ DRG 5176
  26. ^ Furia, 2003, p. 264.

外部リンク[編集]