ジュンテンドー

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株式会社ジュンテンドー
JUNTENDO CO., LTD.
種類 株式会社
市場情報
東証2部 9835 2000年3月上場
本社所在地 日本の旗 日本
735-0029
広島県安芸郡府中町茂陰一丁目13番45号
本店所在地 698-0002
島根県益田市下本郷町206番地5
設立 1948年(昭和23年)6月
(有限会社飯塚順天堂駅前薬局)
業種 小売業
事業内容 ホームセンター、カー用品専門店、ドラッグストア 等
代表者 代表取締役会長 飯塚道正
代表取締役社長 飯塚正
資本金 42億2,425万円
売上高 単体456億円 連結478億円
2010年2月期)
純資産 単体108億円 連結109億円
(2010年2月)
総資産 単体324億円 連結334億円
(2010年2月)
従業員数 612人(正社員)
決算期 毎年2月末日
主要子会社 ジャスト商事 100%
外部リンク http://www.juntendo.co.jp/
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営業本部を置いている安芸府中店

ジュンテンドー (JUNTENDO) は、島根県益田市に本社、広島県安芸郡府中町に営業本部を置く株式会社ジュンテンドー (JUNTENDO CO., LTD.) が運営する日本の中堅ホームセンター。業界内での売上順位では 14 位と見られている。東証2部上場

中国地方近畿地方大阪府滋賀県を除く。三重県名張市を含む)に151店舗(2011年10月現在)を展開している。地域密着型の店舗作りを得意としており、1店舗当たりの面積は900 - 2000m²と小さめで、近年の5000m²級の大型ホームセンターとは一線を画しているが、マイン峰山店のような大型店舗も存在する。

また、ドラッグストア(サンデーズ)経営を行ったり、島根県松江市出雲市浜田市益田市鳥取県米子市山口県萩市岡山県高梁市カー用品店イエローハットフランチャイズチェーン店の運営も行ったりしている。さらに、子会社のジャスト商事を通じて中国地方(ただし岡山県は除く)で書店経営を行っている。

順天堂大学や、かつて津村順天堂と名乗っていたツムラバスクリンとは無関係である。

概要[編集]

1877年10月17日、山口県佐波郡佐波村第403番屋敷にて、渡邉文市生誕する。14歳の時、父の死去により中学2年で中退し、防府の柏木薬店(店主・柏木幸助)に勤務する。

1894年10月、防府の生雲瀧次郎の援助により島根県石見国美濃郡益田町折戸(現・益田市折戸)にて「順天堂薬店」を開店する。「順天堂薬店」の近所に「第五十三国立銀行」益田支店長の飯塚正居が住んでいた。正居はかねてから文市の誠実な生活態度にほれ込んだ。文市は、正居の一人娘のリョウ(正居の妻ツネの兄・平田正表の長女を養子としてもらっていた)と結婚し飯塚文市となる。

1907年4月、「日本薬局方」(第3版)等の施行にともない、薬業は近代化されつつあった。文市は医師の処方箋により調剤のできる「薬局」を目指し、従兄弟の足立滋春を「大阪薬学専門学校」へ進学させた。滋春が卒業するまで島根県薬剤師会幹事・薬剤師虎谷常太郎を雇用し、店舗改装し「飯塚順天堂」が誕生する。

「なんでもあるくすりや」と命名し「明治のドラッグ・ストア・順天堂」と呼ぶにふさわしい店舗で日常品から食料品まで全てを揃えた店舗であった。薬の製薬及び販売し富山の薬売りが独占していた市場を次第に掌握するようになる。「順天堂」の名は遠く松江・山口まで知られわたるようになる。

1894年、朝鮮半島の釜山近郊に飯塚農営部を設置。

1918年3月、順天堂分店「だるまや」創業。

1924年11月、「順天堂・横田支店」開設。

1929年4月、「順天堂・江津支店」開設。

1930年6月、「順天堂・益田駅前支店」開設し業務を拡大していく。息子の幸一が東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)を卒業し薬剤師となり家業を継ぐ。

1941年、島根県でも島根県医薬品統制組合が発足し、初代理事長に松井義三郎(松井薬局本店)が就任した。また、県内7地区(松江・能義・邇摩・邑智・那賀・美濃・鹿足)に医薬品小売統制組合が結成され、美濃地区の理事長には幸一が選任された。

1943年5月、島根県医薬品統制組合は、島根県医薬品統制株式会社に発展し、加藤丈太郎(加藤二星堂)が社長に就任した。

1943年6月には戦時統制令によって「島根県売薬生産統制株式会社」が設立され、県下各薬局の自家製剤権は全てこの会社に譲渡することとなった。幸一も父・文市時代からの製薬権を譲渡した。

戦後、1948年6月1日に益田駅前の角地(現・益田薬局の場所)に「有限会社飯塚順天堂駅前薬局」を資本金25万円で設立。幸一が病床につくようになり長男・道正が東京薬学専門学校を卒業し慶應義塾大学病院薬剤部に勤務していたが退職し、1953年2月1日、資本金100万円に増資し「有限会社飯塚順天堂薬局」に商号変更。

道正は、日本薬局協励会主催の全国大会にて経営コンサルテングの松香のアメリカのドラッグ・ストアについての講義を聞いて、すぐさまアメリカのドラッグ・ハウスの資料をとりよせ日本式ドラッグ・ストアの「薬局+荒物雑貨」を目指すこととなる。これが今日の「ホームセンター」+「ドラッグストア」の原点となる。

しかし薬品関係のディスカウントにはブレーキがかかる。薬品メーカーへの代理店契約の破棄を通告したところ、クレームがついた。さらに薬品の値引き販売を察知した薬品組合からも、激しい圧力がかかってきた。

結果「ホームセンター」としての店舗展開をしていくこととなる。

沿革[編集]

外部リンク[編集]