ジャン・フォートリエ

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ジャン・フォートリエ
誕生日 (1898-05-16) 1898年5月16日
出生地 フランスの旗 フランス共和国パリ
死没年 1964年7月21日(1964-07-21)(66歳)
死没地 フランスの旗 フランスシャトネ=マラブリー
国籍 フランスの旗 フランス
運動・動向 タシスム
芸術分野 画家, 彫刻家
教育 ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ
スレード美術学校
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ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier, 1898年5月16日 - 1964年7月21日)は、フランス画家彫刻家タシスムの作家として最も重要な一人であるとされる。またジャン・デュビュッフェヴォルスとともに、第二次世界大戦後の抽象芸術の先駆的な存在であるとされる[1]

略歴[編集]

パリに生まれた。母は未婚であり、苗字は母から受け継いだ。幼少時代は祖母によって育てられ、1908年に祖母が亡くなると、母と共にロンドンに移住した[2]。1912年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学したが、堅苦しい指導に不満を抱き、スレード美術学校に転校した。しかしフォートリエはそこでも同じような失望を経験した[2]

フォートリエはテート・ギャラリーの作品、とりわけジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品に強い影響を受けた[2]。フォートリエ自身の作品は、1922年サロン・ドートンヌに初めて展示された。その2年後の1924年にはパリで個展を開いた[2]。この頃の作風は「表現主義風」[1]とされる。

1928年には、絵画制作と平行して、ガリマール出版社が企画したダンテ神曲』の挿絵入り本のために版画を制作したが、結局出版されることはなかった[2]。それから1933年までは絵画と彫刻の制作に時間を費やしていたが、金欠に陥ったため、1934年から1936年の間ティーニュ英語版(フランスのリゾート地)で生活し、スキーのインストラクターをしたりジャズクラブを立ち上げたりして生計を立てた[2]

1937年、フォートリエは創作活動を再開し、1943年には22の彫刻作品を残した。また同年ゲシュタポに捕まり、パリから逃走してシャトネ=マラブリーに避難。避難先で連作『人質』を制作した。この作品は1945年に展示され、サルトルなどから「最も戦後的な画家」という賛辞を受けた[1]。戦後の作品は抽象性を強め、また絵画の大きさも小さくなる傾向にあった。絵の具のかたまりを押しつぶしたような作品は「鉱物のような人間像」「戦争をくぐりぬけて得た非情な人間観」が表現されていると評される[1]

1964年にシャトネ=マラブリーで死去。1989年には、パリ市立近代美術館で回顧展が開かれた。また2005年には、ピエール・ジアナダ財団が主催した回顧展が、スイスマルティニーで開かれた。

作品[編集]

  • Blue Lake II (1926)
  • Flayed Wild Boar (1927)
  • The Trees (1928)
  • Large Nude from the Front (1930)
  • Large Tragic Head (1942)
  • 人質 (連作、1943- )
  • The Key (1949)
  • 彼の美しい目 (1955)
  • 永遠の幸福 (1958)
  • シーソーのシステム (1960)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 座右宝刊行会編『世界の美術25 現代の美術』(1964年、河出書房)p.32
  2. ^ a b c d e f Philip Cooper 2009. From Grove Art Online [1]