ジャハーンギール・ホージャ

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アクスの戦い

ジャハーンギール・ホージャJahangir Khoja1788年 - 1828年)は、コーカンド・ハン国軍人で、ホージャ復活を唱え、清朝に反乱を起こした。カシュガルホージャブルハン・アッディーンの孫でホージャ・サリムサク中国語版の子。

生涯[編集]

出自[編集]

コーカンド・ハン国カシュガル・ホージャ家に生まれた。ホージャとはイスラム神秘主義スーフィーナクシュバンディ教団に由来し、17世紀頃より東トルキスタン(新疆)地域ウイグル人の指導者の称号である。

ジャハーンギールの祖父であるブルハン・アッディーンアーファーキーヤ(白山党)に属し、1755年に清の乾隆帝ジュンガルと争い、東トルキスタン(現・新疆ウイグル自治区)を征服した際に牢獄より解放され、清軍によるタリム盆地に協力した[1]。そのため清よりイリのムスリムを管理するよう命じられたが、のちに清に反抗した[2]。1758年、清は再びタリム盆地に侵攻し、タリム盆地全域を占領し[3]、このときにブルハン・アッディーンは処刑された[4]

このとき一族はほとんど捕縛されたが、ブルハン・アッディーンの子サームサーク(ホージャ・サリムサク中国語版)は逃れた[5]

ホージャ復興運動[編集]

サームサークの子であるジャハーンギールはカーブルで学問を修めた後、清への抵抗運動を開始する。の支配から東トルキスタンを回復してホージャの統治を復活させようとした。

蜂起[編集]

1820年から3度にわたって東トルキスタン南部に潜入して蜂起を行った。清とコーカンド・ハン国は秘密に協定を結んで、ジャハーンギール・ホージャを幽閉した。

しかし1826年5月にフェルガナ盆地で起こった地震をきっかけに脱出し、カシュガルに入った。カシュガルに現れた時には数百人の支持者しかいなかったが、コーカンド・ハン国のムハンマド・アリー・ハーンも、ジャハーンギールを支持し[6]、軍事支援を行い、数ヶ月の間に20万人に膨れ上がり、カシュガル、ヤルカンドイェンギサールホータンを占領した。

清はイリ将軍長齢陝甘総督楊遇春、山東巡撫武隆阿、拡粛提督の斉慎に命じて吉林省黒竜江省陝西省甘肅省四川省から兵を集めさせた。1827年アクスでの戦いでジャハーンギール・ホージャは敗北し、カシュガルなどを失った。

最期[編集]

その後1828年にジャハーンギール・ホージャは捕えられて北京に護送された。その後道光帝による尋問の後、処刑された。死体は切り刻まれ、犬に与えられたという。

その後[編集]

しかし、清は財政が苦しく、コーカンド・ハン国への懲罰行動はできなかった[7]。そのため、サームサークの子孫らは1860年代まで、新疆への侵入を繰り返した[8]

また、1830年にはコーカンドはカシュガルを占領するが、このときも清軍は鎮圧できず、禁輸令を緩和した[9]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小松2000,p.305
  2. ^ 小松2000,p.305
  3. ^ 小松2000,p.305
  4. ^ 小松2000,p.310
  5. ^ 小松2000,p.310
  6. ^ 小松2000,p.310
  7. ^ 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社2000年,p310
  8. ^ 小松2000,p.310
  9. ^ 小松2000,p.311

関連項目[編集]