ジャック・コポー

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ジャック・コポー
Jacques Copeau
ジャック・コポー(1936年)
生誕 (1879-02-04) 1879年2月4日
フランスの旗 フランスパリ
死没 (1949-10-20) 1949年10月20日(70歳没)
フランスの旗 フランスコート=ドール県ボーヌブルゴーニュ
墓地 ペルナン・ヴェルジュレス墓地
出身校 リセ・コンドルセ
職業 劇団主宰者、演劇批評家劇作家俳優
著名な実績 ヴィユ・コロンビエ劇場創設・主宰
栄誉 レジオンドヌール勲章シュヴァイエ
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ジャック・コポー(Jacques Copeau、1879年2月4日 - 1949年10月20日)は、フランス現代演劇の開拓者。劇団主宰者、演劇批評家劇作家俳優アンドレ・ジッドらとともに新フランス評論(NRF)誌を創刊。

経歴[編集]

パリで金具工場を経営する中流家庭に生まれた。リセ・コンドルセに学ぶ。16歳から戯曲作りを試みる。

1896年、ソルボンヌ大学に進む。1902年1月、デンマークの女性と結婚し、コペンハーゲンに住む。その年、長女(後の女優マリー・エレーヌ・ダステ(Marie-Hélène Dasté))を得る。

1903年4月帰国し、アルデンヌ県の金具工場を管理するが、頻繁にパリに出て、ジッドらと交わり、演劇批評で名を広める。1905年、パリに移る。次女(後の修道女)を得る。

1905年7月、ジョルジュ・プティ画廊に勤め、かたわら、演劇雑誌・新聞『レルミタージュフランス語版』、『ル・テアトルフランス語版』、『グラン・ルヴュ(La Grande Revue)』に、劇評を寄稿した。

画廊に出入りするジッド、ジャン・シュランベルジェフランス語版アンリ・ゲオンフランス語版ら文学者・演劇関係者で、1909年2月、『新フランス評論(NRF)』誌を創刊し、1912年から1914年まで同誌を編集した。

1909年5月、画廊をやめ、また工場経営からも手を引いて、1910年、パリ東隣、セーヌ=エ=マルヌ県のル・リモンに仕事場を構え、『カラマーゾフの兄弟』の上演台本を練った。それは、1911年、グラン・ルヴュ誌の編集者で演出家の、ジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)が持つ芸術座(Théâtre des Arts) で上演された。4月の初演にはシャルル・デュランが、さらに、10月の再演にはルイ・ジューヴェも出演した。注目されたが、入りはよくなかった。

保守的な国立劇場(コメディ・フランセーズオデオン座)と写実的な商業演劇とに飽きたらず、演劇に品位と文学性とを取り戻したかったコポーは、1913年、パリ6区の古い小劇場を借りて改装し、そこの町名からヴィユ・コロンビエ劇場と名付け、一座を組織した。デュラン、ジューヴェら10人の座員は、夏一杯、ル・リモンで稽古を重ね、10月23日、初日の幕を開けた。フランス現代演劇の幕開けであった。『新フランス評論』の仲間、ジッドジョルジュ・デュアメルロジェ・マルタン・デュ・ガールらが、手伝った。大統領も首相も観劇した。簡潔な装置の無駄のない芝居運びが評判を呼び、ロンドン・タイムズにも紹介され、1914年3月、イギリス巡演をした。

そして1914年8月、第一次世界大戦になった。コポーは軍務に志願し、一座の多くも召集され、劇場は閉鎖された。

大戦末期の1917年、文化省に依頼されたアメリカ講演旅行中、一座の興行を促され、帰国して出直し、2シーズンを打った。滞米中座員と摩擦があり、デュランを解雇した。戦後の1919年6月23日帰国し、ヴィユ・コロンビエ劇場をコンクリートの常設舞台に改装した。

1920年2月10日、公演を再開し、12月、近くに、ジュール・ロマンが校長の、演劇学校を開設した。演劇に純粋で、禁欲的に過ぎる姿勢は、金銭的に報われなかったが、周囲の勧める補助金の申請も、座席数の多い劇場への移転も、演目の拡大も、断った。1922年11月、番頭格のジューヴェが去り、ヴィユ・コロンビエ劇団は、デュラン一座・ジューヴェ一座と、競うことになった。

1921年、レジオン・ド・ヌール勲章シュヴァリエを受ける。

1923年、『生まれた家』を書き上げ12月に上演するが、ジューヴェ一座の演目に惨敗した。内外の巡演を打ち上げて1924年5月、ヴィユ・コロンビエ劇団を解散した。ジューヴェは俳優の一部を引取り、コポーは手がけた戯曲の上演権を譲った。10月、俳優や生徒35人と、ブルゴーニュボーヌ市近傍のモントルイユ(Montreuil)に移った。演劇を地方に広めたい宿願もあった。

コポーは内外への講演旅行で資金を稼ぎ、長女マリーを含む俳優らは、コメディア・デラルテ風の興行をして回った。コポー党(les Copiaux)と呼ばれた。コポーとレ・コピオーとは、1925年末ペルナン・ヴェルジュレスPernand-Vergelesses)に移り、近隣各国を巡業した。ペルナンに劇場を建てたいコポーの希望は、しかし、果たせなかった。

1926年春、オデオン座の主事を勧められ、断った。11月ニューヨークへ渡り、英語版『カラマーゾフの兄弟』を演出して成功し、アメリカに留まるよう勧められたが、断った。

1929年10月、コポーのコメディ・フランセーズ支配人就任を望む声が起こり、流れた。

1931年1月、コポー党は解散し、甥のミシェル・サン=ドニフランス語版Michel Saint-Denis)が、十五人劇団(La Compagnie des Quinze)を組織した。一座はヴィユ・コロンビエ劇場で公演した。コポーは、1933年11月 - 1935年2月、『新文学』誌(Les Nouvelles Littéraires)に劇評を書いていた。

1936年 - 1938年、コメディ・フランセーズの演出を手がけた。1936年春、ジューヴェが、低迷する同座から総支配人就任を要請され、固辞し、代わりに、コポー、デュラン、ジューヴェらの在野派が演出に参加すると、取り決めたのである。

1936年 - 1937年、数本の映画にも出演した。

1940年5月、支配人の輪禍のため、コメディ・フランセーズの臨時支配人を勤めた。ジャン=ルイ・バローを加入させた。ドイツ軍のフランス侵入に、一時疎開してから復帰するが、占領軍に1941年1月解任され、ペルナンに隠棲した。

1943年7月、ボーヌの慈善病院の中庭で、自作の『黄金のパンの奇跡』を上演した。

1949年3月4日、70歳をパリで祝われ、ボーヌに戻る。アルツハイマー症候群を病み、衰弱が進み入院した。昔の弟子が、治療費・生活費を助けた。

1949年10月20日、ボーヌにて死去、享年70歳。ペルナンの墓地に葬る。11月27日、パリのマリニー劇場(Théâtre Marigny)で追悼式典が開かれ、演劇界・文壇・映画界の大勢が集まった。老齢不参のジッドの弔辞を、マドレーヌ・ルノーが代読した。故人の演出を再現して、弟子たちが演技した。

演出の記録[編集]

数字は、初演の年月日。再演は、ほとんど記さない。

ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦前)[編集]

ニューヨーク・ヴィユ・コロンビエ劇場(Garrick Theatre[編集]

ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦後)[編集]

  • 冬物語、シェイクスピア、1920.2.10
  • 商船テナシティ(Le Paquebot Tenacity)、ヴィルドラック、1920.3.5
  • 運動選手の仕事(L'Oeuvre des Athlètes)、デュアメル、1920.4.10
  • ふるさとクロムデール(Cromedeyre-le-Vieil)、ジュール・ロマン、1920.5.17
  • 休みの日(La Folle Journée)、マゾー(Emile Mazaud)、1920.7.10
  • 日々の糧、ルナール、1920.11.2
  • 階段下の乞食(Le Pauvre sous l'escalier)、ゲオン、1921.1.24
  • スパルタの死(La Mort de Sparte)、シュランベルジェ、1921.3.23
  • 愛と黄金の書、トルストイ、1922.3.7
  • 安楽死(La Mort joyeuse)、エヴレイノフ(Nicolaï Evreïnov)、1922.3.7
  • 偶然の喜び(Les Plaisirs du hasard)、バンジャマン(René Benjamin、1922.4.20
  • サウル(Saül)、ジッド、1922.6.16
  • ミシェル・オークレール、ヴィルドラック、1922.12.27
  • 生まれた家(La Maison natale)、コポー、1923.12.13
  • 愚か者(L'Imbécile)、ピエール・ボスト、1923
  • 分に応じて(Il faut que chacun soit à sa place)、バンジャマン、1924.2.14
  • 邯鄲(下稽古のみ)、日本の能より、1924.2

コメディ・フランセーズ[編集]

その他[編集]

  • 朝霧(Brouillard du matin)、コポー、1897.3.27(新劇場(Nouveau Théâtre))
  • カラマーゾフの兄弟(英語版)、ドストエフスキー、1927.1(ニューヨーク、ギルド劇場(Theatre Guild))
  • お気に召すまま(フランス語版)、シェイクスピア、1934.10.13(アトリエ座(Théâtre de l'Atelier))
  • 黄金のパンの奇跡(Le Petit pauvre)、コポー、1943.7(ボーヌの慈善病院の中庭)

参考図書[編集]

  • J・ラドリン(清水芳子訳):評伝ジャック・コポー 20世紀フランス演劇の父、未來社(1994)ISBN 4-624-70076-7
  • 中田耕治:ルイ・ジュヴェとその時代、作品社(2000)ISBN 4-87893-353-4

外部リンク[編集]