ジャック・クール

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ジャック・クール(Jacques Cœur, 1395年 - 1456年)は、中世フランス貴族。国王会計方として、フランスを代表する資本家として名を馳せたが、シャルル7世の愛妾アニェス・ソレルの殺人罪や公金横領罪などの罪に問われ有罪となり、その全てを失った。ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、最初の資本家としてその名が知られる。

出生[編集]

ジャック・クールの銅像

ジャック・クールは1395年、フランス中部のリンブルク兄弟の『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の舞台として知られる町ブールジュで生まれた。クール家は毛皮商人として当時町の有数の資産家として数えられていた名家で、兄はサン=テチエンヌ大聖堂の参事会員、姉はシャルル6世の秘書に嫁ぎ、母方の祖父が造幣所長として働くなどしていたという。幼少期の教育状況に関しての資料は残っていないが、貨幣鋳造や金銀細工などの家業を継ぐため、数年単位の年季奉公に出ていたと考えられている。 1420年にブールジュ市長の娘と結婚した[1]。 クールがどの時期から特権的野心を抱くようになったのか定かでは無いが、貨幣鋳造業などは一代限りの貴族の称号が与えられる栄誉職であり、また取得していた下級聖職位には数々の特権が与えられていた。後にそれらの利点を生かした交友関係を広げていることなどから、かなり若い段階で自身の人生設計に関する強い意識を持っていたとされている。

1427年、王立貨幣鋳造所を入札し、貨幣鋳造業に就いたクールは、2年後には、硬貨の質を落として鋳造するという悪事に手を染め、かなりの財産を築く。この件に関し、一時は罪に問われることとなるが、当時絶大な人気を誇ったジャンヌ・ダルク率いるオルレアン解放軍の使用した貨幣を製造していたことなどから酌量の余地が与えられ、1429年にシャルル7世の赦免状を獲得している。1436年には造幣局の管理官に任免され、1439年には会計方を命じられている。[2]

この件で貨幣鋳造業は廃業とされるが、シャルル7世直々に宮廷御用商人に任命され、宮廷内のあらゆる物資の納入をまかされるようになった。クールは国王へ無償の資金援助を行う傍ら、その見返りとして得た様々な特権を用い、自身の事業を拡大していった。

没落[編集]

自身の才覚の赴くまま事業を拡大し、莫大な富を得たクールであったが、その出世と成功の裏に数多の反感を買うこととなった。シャルル7世の愛妾アニェス・ソレルの死を契機として、1451年7月31日にクールは逮捕され、裁判にかけられる。この一連の動きを働きかけたジャン・ド・レヴィ、ギヨーム・グフィエなどは、自身の先祖が代々受け継いでいた土地をクールに買い取られた者たちであった。罪状は殺人罪の他貨幣改鋳、異教徒への武器の納入、アラブ諸国への貴金属の輸出など十数項目に及び、判決までに2年を要した。

クールも様々な手を用いて身の潔白を証明しようとしたが、結局1453年5月29日、大法官ギヨーム・ジュヴネル・デ・ズルサンによって有罪判決が言い渡され、財産没収の上で禁固刑に処された。

身柄はその日のうちにタユブール城の塔内へ幽閉されたが、1455年に教会関係者の手を借りて脱走に成功したクールは、教皇カリストゥス3世の元へと身を寄せた。

その後、教皇がロードス島救援のために編成していた十字軍の総司令官として遠征し、1456年11月25日、遠征途中のキオス島で戦死を遂げた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 440ページ
  2. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 441ページ

参考文献[編集]

  • 『伝説の大富豪たち』- アラン・モネスティエ(JICC出版局、ISBN 4796604928