ジャチント・シェルシ

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ジャチント・シェルシGiacinto Scelsi, 1905年1月8日 - 1988年8月9日)は、イタリア現代音楽作曲家ラ・スペツィア生まれ。

作風[編集]

前期[編集]

デビュー当初は必ずしも一つの音の倍音成分を聞き込むような語法で作曲したとは言えないが、「ピアノソナタ第2番」、「第二組曲」などのピアノ作品には同音連打の固執やペダル効果など、明らかに音色重視の作曲法であったことが伺える。未来派の最後の残党であった彼は、音響モデル自体がそのまま作品になるのを理想とした。しかし、テクスチュアの生成を即興か既存の舞曲を参照していたりする点に、幾ばくかの折衷性は否めない。「ヒスパニア三部作」や「ピアノソナタ第4番」の同音連打では、意外にも中期のオーケストラ音楽の管楽器の書法との関連性が見出せる。

ジャチント・シェルシがいったいどのように作風を進化させていたのかは、未発表および未録音の作品や楽譜の入手の困難さから、現在の研究でも判然としない部分が多い。シェルシのほとんどの音楽の版権は後年サラベール社が買い取ることになったものの、1940年代にデ・サンティスに預けた初期作品の楽譜の所在が確認された際、その中の作品のいくつかは公式財団HPにも登録されていなかった。

40年代はヴァルター・クラインに師事してイタリア初の十二音技法の作品を残したが、あまりに自己の語法とかけ離れた音列の操作のため精神的な病を得て療養生活を送った。その後「一つの音を聞き込む」作曲法へ鉱脈を見出してからは、アルド・クレメンティをはじめ多数のアシスタントを迎えて創作活動へ復帰した。全曲に渡って一つの音の倍音成分の変化や、近接する周波数によって発するうなりを聞き込む作品が圧倒的に多くなるのは、1950年代を迎えてからのことである。結構なハイペースでピアノ作品を書き倒した彼は、その後ピアノ独奏作品とは二曲の例外を除いて袂を分かつ。

後期[編集]

療養からカムバック後は、楽壇の主流と無縁で創作活動を行っていたもののイタリア国内では作品発表が行われており、ジェルジ・リゲティジョン・ケージなど一部の作曲家には早くから評価されていた。この時期には古典を主なレパートリーとしたイタリア弦楽四重奏団ですら初演に関っている。この世代の作曲家の何人かに当てはまることでもあるが、療養生活以前と以後で、初演者のタイプが伝統音楽を主に演奏する者から現代音楽を積極的に演奏する者へ変わっており、全生涯を通じてシェルシのそばにいた演奏家がいないことも特筆される。日本人では歌手の平山美智子のみである。

シェルシが1970年代にその創作のピークを迎えていた頃、彼のもとに二人のフランス人の若き作曲家が訪れる。ジェラール・グリゼートリスタン・ミュライユの二人である。共にパリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに作曲を学び、ローマ大賞を相次いで獲得してローマのメディチ荘にやってきた。ここでシェルシと出会った彼らは、シェルシの一音を聞き込むという作風に強い影響を受ける。そして彼らは倍音を分析して音色の推移にこだわる作曲理論を展開し、現在のフランスの現代音楽の主要な潮流であるスペクトル楽派と呼ばれる作風へと発展させた。つまりシェルシは、スペクトル音楽のプロトタイプを創造したことになる。メシアンのダルムシュタット「セリエル楽派」と同じパターンである。

この時代はフランシス=マリー・ウィッティフェルナンド・グリロポール・ズーコフスキーイヴァ・ミカショフフレデリック・ジェフスキーなどの演奏家にも恵まれ、「魔法の河」、「PFHAT」などの作品を、驚異的なペースで残していた。

エピソード[編集]

写真を一切残さず(ごく一部の若い頃および隠し撮りを除く)、丸の下に横棒を組み合わせた記号を自らのマークとして用いていた。

貴族の末裔であり財産に恵まれたため、作曲以外の仕事はほとんどせず趣味人的作曲活動をマイペースで行い、多数の即興録音のディクテーションの為のアシスタントを擁していた。イタリアチャールズ・アイヴスと言われるのもその所以である。そのためイタリア国外に彼の作品が知られるようになったのは1980年代に入ってからである。

最晩年にケルンISCMハンス・ツェンダーが指揮する国際現代音楽祭をきっかけにその後のダルムシュタット夏季現代音楽講習会で彼の音楽が紹介され、はじめてその音楽のオリジナリティが世界的に認知されたといえる。このような時流とパリ在住のドイツ音楽学者ハリー・ハルプライヒの尽力で大オーケストラの作品が次々と初演および蘇演が行われたが、もうその頃にはシェルシは創作意欲が衰えており「山羊座の歌」のようなライフワークもついに未完成となった。

この時期に書かれたフルートとピアノの為の「クリシュナとラーダ」では、遂に同音固執のうなりから離れ、フルートの典雅なメロディーにピアノが淡く伴奏するだけの侘び寂びの境地に達していたことを思うと、シェルシの創作人生は50年代に書かれた「一つの音の為の習作」を核とした巨大なカーヴを描いていたともいえよう。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]