ジャコ・パストリアス
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| ジャコ・パストリアス | |
|---|---|
ジャコ・パストリアス
(イタリア ナポリ、1987年) |
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| 基本情報 | |
| 出生名 | John Francis Anthony Pastorius III |
| 出生 | 1951年12月1日 |
| 学歴 | |
| 出身地 | |
| 死没 | 1987年9月21日、21時25分 |
| ジャンル | ジャズ、フュージョン |
| 職業 | プロデューサー、作曲家、編曲家、ベーシスト |
| 担当楽器 | エレクトリックベース |
| 活動期間 | 1960年代-1987年 |
| レーベル | Warner Bros. |
| 影響 | ジェイムス・ジェマーソン |
| 公式サイト | jacopastorius.com |
| 著名使用楽器 | |
| Fender JAZZ BASS | |
ジャコ・パストリアス (John Francis Anthony Pastorius III、1951年12月1日 - 1987年9月21日) はジャズ及びフュージョンのエレクトリックベース奏者。ペンシルベニア州 ノリスタウン生まれ。1970年代に頭角を現し、1975年にはパット・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年、ファーストアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』でのソロ・デビュー、同年からウェザー・リポートの3代目ベーシストとして活躍。
エレクトリックベースの奏法に革命をもたらしたと言われ、彼が死した今においてもその信奉者は世界中に数多い。有名なベーシストは数多く居るが、ジャコはそれまでリズム楽器としての認識が強かったエレクトリックベースを花形楽器まで昇華させたイノベイターとして、エレクトリック楽器の歴史に一石を投じている。
目次 |
[編集] バイオグラフィ
[編集] バック・グラウンド
幼少の頃から地元の聖歌隊に参加し、音楽的な素養を身に付ける。ジャコが7歳の頃、家族はフロリダ州 フォートローダーデールに移住した(後年、彼のアルバムでしばしばスティール・ドラムが用いられるのは、フロリダで過ごした影響が大きいとされる)。フロリダでは、地元のバンド「ラス・オラス・ブラス」でドラムを担当していたが、13歳の時フットボールの試合中に右手首を骨折してドラムを続けることが困難となったため、ベースを弾くようになった。
高校卒業後はフロリダの地元でバンド活動していた。ちょうどこの頃に手に入れたエレクトリックベースは、毎日の練習とギグ数の多さからフレットがすり減ってしまったので、フレットを抜いた上に船舶塗装用のエポキシで指板をコーティングしたフレットレスベースを自作し、米国アコースティック社製ベースアンプ Modl#360と組み合わせた自分好みの音を作り出していた。フレットレスに改造したのはフェンダー社製フェンダー・ジャズベースの1962年モデル。フレットが残されたままの1960年モデルも愛用していた。
[編集] ジャコの由来
ジャコは若い頃「Nelson "Jocko " Padron」という変名にて活動して「Jocko」というニックネームで呼ばれていた。これは1950年代のメジャー・リーグ名物アンパイアから取ったものだった。ある日、アパートの隣に住んでいたアレックス・ダーキィと毎日のようにジャズの練習をしていた時に、アレックスが譜面に間違えて「Jaco」と書いてしまったところジャコはこれを気に入り、それ以降自分を「ジャコ(Jaco)」と名乗るようになった(なお、日本では「ジャコ」と呼ばれているが、英語本来の発音は「ヤコ」に近い。)。
[編集] アルバム・デビュー
1975年、パット・メセニーの初リーダー・アルバム『ブライト・サイズ・ライフ』に参加。同年、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのドラマー、ボビー・コロンビーとジャコは出会い、驚異的なベーステクニックはコロンビーにデビューアルバム制作を決断させる。アルバム作りに併行して約2ヶ月間コロンビー率いる上記BS&Tに参加、そこでマイク・スターン(ギター)と2年ぶりに再会し以後、音楽活動、私生活の両面で親しくなる。かくして、1976年にコロンビーのプロデュースでアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』が発表された。
[編集] ウェザー・リポート時代
同1976年、フロリダに来ていたウェザー・リポートのリーダー、ジョー・ザヴィヌルにデモテープを渡すなどして直接自分を売り込んだ。2代目のベーシストのアルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であり、1976年にはアルバム『ブラック・マーケット』でザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲の録音に参加した。これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次のアルバム『ヘヴィ・ウェザー』以降ではコ・プロデューサー(プロデューサーへの補佐的立場)としてクレジットされるようになった。
ウェザー・リポート内においては単なるベーシストとしてではなく、曲の提供なども含め、色々な意味での音楽的貢献度は高まっていた。同アルバム収録、ジャコの華麗なベースソロが聴ける「ティーン・タウン」では父親譲りのドラミングも披露していて、後にライブ・アルバム『8:30』のスタジオ録音サイド収録「8:30」でもドラムはジャコが叩いていて、ライブでの同曲演奏時にはジャコのドラミングに生で遭遇することが出来た。アルバム『ミスター・ゴーン』ではジャコ色が若干弱まったシンセサイザー主体の抽象的サウンドになり、この頃からジョー・ザヴィヌルとの確執が噂されるようになった。
これ以降ウェザー・リポートのライブではジョー・ザヴィヌルのシンセサイザーなど電子楽器類とジャコのベースアンプの音量が非常に大きく鳴らされていて、互いが音量でも競い合っているような雰囲気だったため、会場でPAされたサウンドは、ほぼロック・コンサート並の大音量だった。
ウェザー・リポート以外にもトリオ・オブ・ドーム(ジョン・マクラフリン、トニー・ウィリアムス、ジャコでのトリオ・ユニット)でのレコーディングとハヴァナ・ジャムへの出演、ジョニ・ミッチェルのアルバム・プロデュースとコンサート・ツアーなど、一気に黄金時代を迎え華々しい活躍を見せ続けていた。
[編集] ソロ及びワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド時代
1981年、ワーナー・ブラザーズ・レコードとソロ契約し、セカンド・ソロ・アルバム『ワード・オブ・マウス』をリリースする。このアルバムはジャコのベース・プレイが前面に出る形ではなく、ホーン・セクション主体のアンサンブルだったためアメリカであまり評判とならなかったが日本では大絶賛された。翌1982年にはピーター・アースキンと共にウェザー・リポートを離れ、ジャコは自身のバンドに活躍の主軸を移した。同1982年4月には「ジャコ・パストリアス・バンド」として来日公演が予定されチケットも既に一般発売されていたが、直前で急遽中止となり幻に終わった。そして同1982年8月下旬〜9月上旬にかけて「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド」で、オーレックス・ジャズ・フェスティバルに参加する形で来日公演を行い、各地で大成功をおさめた。この来日公演での模様は後日NHKの放送枠でオンエアされ、ライブ・アルバム『Twins I & II』などにも収められている。日本側からは東京ユニオンのメンバー数人がホーンセクションとしてビッグ・バンドに参加していた。(このツアー用リハーサルには東京都渋谷区にあるNHKのスタジオが使われた。)翌1983年5月21日と22日には再び「ジャコ・パストリアス・バンド」として東京新宿厚生年金会館大ホールでの来日コンサートが行われ、ビッグ・バンドよりも小編成ながらジャコの健在ぶりをアピールした。
[編集] おもな来日コンサート・ツアー
ジャコはウェザー・リポートからギル・エヴァンス・オーケストラでの来日まで、かなり多くのコンサートで来日していて、ウェザー・リポートでは1978年6月21-7月2日までの7公演、1980年6月21日〜7月4日までの11公演、1981年5月31日〜6月12日までの9公演、ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンドでは1982年8月31日〜9月5日までの6公演、ジャコ・パストリアス・バンドでは1983年5月21日と22日の2公演、ギル・エヴァンス・オーケストラへの参加では東京よみうりランド、オープン・シアター EASTで行われた伝説のライブ・アンダー・ザ・スカイ出演も含む1984年7月28日と8月4日の2公演で、ファンの多くは来日コンサート・ツアーが途切れてしまった1985年以降1987年までは海外メディアからの情報もほとんど無くなってしまい、ジャコの状況は掴みにくくなっていった。
[編集] 楽器とパフォーマンス
[編集] エレクトリックベース
フェンダー社製の1960年と1962年型 ジャズベースを使用。1960年製の方は後年までフレット有りのままだったが、ジャコのトレードマークにもなっている1962年製の方は1970年代前半にフレットが抜かれフレットレスに改造された。フレットが抜かれた指板には船舶などの船底に使用される「マリーン・エポキシ」と呼ばれ乾燥後にはかなり硬化するエポキシ樹脂製のクリア塗料が塗られ、ローズウッドの指板をラウンド・ワウンド弦の擦れから保護していた。
ボリューム及びトーン・コントローラー関連だが、1962年製ジャズベースのオリジナル状態は、ボリュームとトーン・コントロール・ノブが各1個ずつの計2組の仕様だった。それは2階建て構造の可変抵抗で構築された2連式ボリュームとトーン・コントローラーそれぞれ2個のピックアップ各々のボリュームとトーンを調整する方式だったが、ジャコのジャズベースは1963年式以降と同様にフロントとリアの独立ボリューム、マスター・トーンが1個のスタイルへ担当テックによって変更されている。コントロール・ノブはジャズベース本来の黒いプラスティック製の物ではなく、プレシジョンベースなどに使われている金属メッキが施されたタイプの物を装着している。
1962年仕様のベースがトリビュート扱いでフェンダー社のカスタムショップ・トリビュートという特定のビルダーが作業する製造ラインから「ジャコ・パストリアス トリビュート・ジャズベース フレットレス」(以前には「ジャコ・パストリアス レリック・フレットレスベース」という名称も使われた)として製造発売され、ボディーの傷や塗装の剥がれかた、ネック裏の汚れ、指板のフレットラインとエポキシによるコーティングまでもフェンダー独自のレリックフィニッシュによって、ジャコ・パストリアスのギターテクニシャンの協力の元に忠実に再現されている。 カスタムショップ製ではないレギュラーシリーズ(シグネイチャーモデル)では「エリック・クラプトン ブラッキー・トリビュート」や「トリビュートシリーズ ジェフ・ベック エスクワイヤー」で見られるような、長年にわたって使い込まれた汚れや傷など詳細のレリックフィニッシュはされず、新品さながらのとても綺麗な仕上がりになっているが、指板のフィニッシュはポリウレタン塗装によるコーティングが施されている。また指板の材質もローズウッドでは無くパーフェローを採用している点で、カスタムショップ製トリビュートシリーズとの差異がある。 ちなみに、ジャコ本人には楽器に対してそれ程思い入れが無かったのか、生前ベースを紛失する事がよくあったという。"Bass Of Doom"と呼んでいた一本のジャズベースは、晩年に痴話喧嘩からジャコが激昂し、粉々に叩き壊してしまったというが、後にこのベースはスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギター"Hamiltone"を製作したクラフツマンによって丁寧に修復され、ボディの表面につぎはぎの痕を隠すためにフィギュアドメイプルの化粧版を貼られている。クラフツマンいわく、「ジグソーパズルのようで非常に手間が掛かった」との事である。
[編集] ベース・ストリングス
英国ロトサウンド社製(ROTOSOUND)のRS-66 SWING BASS(スゥイング・ベース)というラウンド・ワウンド弦を使用していた。この弦はザ・フーの故ジョン・エントウィッスルが初期開発に関わったことでも有名で、他にはイエスのクリス・スクワイア等もメインで使用していた。一般的にはロック・ミュージシャン御用達のベース弦。
[編集] ベース・アンプ
米国アコースティック社製[1]の、 オール・ディスクリート構成ソリッド・ステート回路のベース・アンプ Model #360+361の組み合わせと、Model #320+408の組み合わせを主に使用。ウェザー・リポートへの参加初期は Model #360+361のみだったが、その後は両方が並んだ状態でセット・アップされていた。
- Model #360+361(生産時期:1968年〜1971年)
Model #360(ヘッド)はプリ・アンプ部として機能し、Model #361(エンクロージャー)は45cmのスピーカーが中央に後ろ向きで1ユニット、フロント・ローデッド・ホーン形式のエンクロージャーに搭載、下部にはパワー・アンプ・ユニットを内蔵。プリ及びパワー・アンプ部は真空管回路を使用しないオール・ディスクリート構成ソリッド・ステート回路のハイ・パワー型となっていて、平均出力は220W、最大ピーク時は440Wまで対応できる仕様。Model #360のフロント・パネルには、左端からハイ・ゲインとロー・ゲインのインプット、ブライト・スイッチ、ボリューム、トレブル、ベース、バリアンプ・レンジとエフェクト、ファズのアタックとゲイン・コントロールなどのノブが有り、右端にはパワー・スイッチ、グランドのON/OFF スイッチが装備。Model #360のリア・パネルにはヒューズ・ボックス、4対のアウトプットとファズ ON/OFFなどのフット・スイッチ用コネクターなど。サイズは、Model #360が、縦15.3cm、横幅61cm、奥行き30cm・Model #361が、縦122cm、横61cm、奥行き46cm
- Model #320+408(生産時期:1978年〜1982年)
Model #320(ヘッド)はプリ&パワー・アンプ部分として機能し、オール・ディスクリート構成ソリッド・ステート回路のハイ・パワー型、パワー・アンプ部の出力は1978年〜1980年は160W RMS@4Ω、1981年〜1982年は225W RMS@4Ω、接続するエンクロージャーのインピーダンスが2Ωの場合(Model #408はインピーダンスが2Ω)には300W RMSが出せる仕様。Model #320のフロント・パネルには、インプットがA/B ch用各1つ、A/B ch毎の独立したコントローラーとして、10dB PAD スイッチ、ブライト・スイッチ、ボリューム、トレブル、ミッドレンジ、ベースのノブが各々2個用意され、センター・セクションにはパワー・ブーストとノーマルの切り替えスイッチ、グラフィック・イコライザーのA/B ch切り替えスイッチ、一番右セクションには70Hz、125Hz、350Hz、820Hz、2000Hzの5ステージで各々+/- 20dBのブースト&カットが出来るグラフィック・イコライザーのスライダーを搭載。Model #320のリア・パネルにはグランドのON/OFF スイッチ、ヒューズ・ボックス、2対のスピーカー用アウトプット、A/B ch切り替えとグラフィック・イコライザーのON/OFF フット・スイッチ用コネクター、A/B ch共有のエフェクター・インサート用プリ・アンプ・アウトとリターンが1対、A/B ch独立のエフェクター・インサート用プリ・アンプ・アウトとリターンが2対用意されている。Model #408(エンクロージャー)は各々バスレフ・ダクトを持つ上下の独立した2つのエンクロージャーに38cmのスピーカーが前向きに2ユニット、真ん中の中空スペースに対して上下にあるエンクロージャーの下部と上部から2ユニットが互い違いにマウントされた「チューンド・コンビネーション・リフレックス(Tuned Combination Reflex)」という独特のエンクロージャー形式で、真ん中の中空スペースには上下のエンクロージャーからのバスレフ・ダクトも互い違いに設置。サイズは、Model #320が縦16.5cm、横67.3cm、奥行き29cm、重量19kg・Model #408が縦127cm、横67cm、奥行き51cm、重量59kg
[編集] プレイ
ベースを弾くときの基本的に右手ポジションはブリッジ側ピックアップの上端に親指を乗せ、指を伸ばした状態のまま指の付け根を動かして弾く、早いパッセージにも対応できる奏法をとっていた。ソフトな音色が必要とされる時などはネック終端に親指を乗せたそのポジションで弾いたり、スラッピングでパーカッシブなリズムを出す際には、手のひらを指板に弦ごと叩きつける様な奏法も取っていた。ウェザー・リポートの「バードランド」(アルバム『ヘヴィ・ウェザー』収録)や「Three Views Of A Secret」(アルバム『ナイト・パッセージ』収録)のイントロやソロの一節などでの親指を利用したピッキング・ハーモニクス奏法が随所に使われ、この奏法の場合には必要なハーモニクス・ノート毎に弾く場所が変わるため、曲全体を通すと様々なポジションで弾くスタイルでもある。 また、演奏中ボリュームやトーンのノブを細かく調整している事がある。これによって一本のベースで多彩なトーンを得ようとしている、ジャコならではの音に対する細やかさが伺える。 意外なテクニックとしては、左手でポジションを押弦した状態から右手でハーモニクスを鳴らし、右手で低音弦の1~5フレットをタッピングで鳴らすというテクニックを披露している。
[編集] エフェクト効果
スタジオ録音においては全く同じフレーズを2度弾くダブル・トラッキングを行う事があり、フレットレスの微妙なピッチ・コーラス効果を巧みに使用していた。ウェザー・リポートの「A Remark You Made」(アルバム『ヘヴィ・ウェザー』収録)やジャコの「コンティニューム」(アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』収録)などで聴くことが出来る。この奏法をステージ上でこれを再現させるために、MXR社製デジタル・ディレイを使っての疑似ダブリング効果を用いていた。オーディオ・サンプリング機能の初歩的機能であるサウンド・メモリー機能も使い、サウンド・オン・サウンド方式でソロ・パフォーマンス時における彼独自のスラッピングしたフレーズなどをリピートさせて特定のリズムを作り、その上でソロを弾く場合には毎度々々おなじみの光景ながらも観客はそのパフォーマンスが楽しみでもあった。
[編集] パフォーマンス
ライブ中のソロ終盤には概ねディストーションを掛けた状態でのハーモニクス奏法で「トレーシーの肖像」(アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』収録)を弾き始め、ジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」などの有名なフレーズも引用したりした上でベースを床に置きハーモニクスを鳴らしロングトーンでフィードバックが掛かっている中、忽然とステージから消え、再び現れて楽器を休める…といったような光景だった。ウェザー・リポートでのコンサート時には興奮してのってくると曲の途中で雄叫びのようなシャウトが聴けたり、「ジャコのカニ歩き」としても有名な、素早い横歩きでステージ上を右往左往してファンで埋め尽くされた客席を盛り上げていた。
[編集] 精神疾患と死
[編集] ウェザー・リポート脱退直後
ウェザー・リポートから離れた頃からジャコの生活は荒れはじめた。ドラッグに溺れたり躁鬱病(二人目の妻イングリッドと離婚して以来悪化したという)に悩まされ、コンサート・ツアー中にも奇行が目立つようになり、ドラッグ更正施設への入退院を繰り返すようにもなった。当時の来日ステージ「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」で全身に泥を塗った格好で登場した事は有名である。1980年代中頃、ライブ活動は小規模ながらもニューヨークのジャズクラブなどでギグを続けており、マイク・スターンやハイラム・ブロック、ケンウッド・デナードとセッションを行っていた。ジャズ・トランペッターの日野皓正が彼を更生しようとしたものの、度々逃走を図り、結局上手くいかなかった(ジャコに師事していた息子の日野賢ニは後に「ジャコは音楽家としては素晴らしかったけれど、人間としては最低だった」と述懐している)。
[編集] 死に至った経緯
1987年9月11日、地元フォートローダーデールに来ていたサンタナのライブに飛び入りしようとしたところ、警備員が知らなかったのか当時の姿からジャコ本人とは信じられずにか追い出されてしまい、失意の内に訪れたナイトクラブ「ミッドナイト・ボトルクラブ」に泥酔している状態で入ろうとしたところ、空手技能を持つガードマンとの乱闘となり、投げ飛ばされた弾みで倒れた際に鋭角なモノに頭部を強打し、脳挫傷による意識不明の重体に陥った。病院の担当者の話では片方の目が潰れており、左腕の機能が全損状態だったという。運び込まれた病院では昏睡状態が続いていたが一向に意識の回復が望めず、家族同意のもと、父親のジャックの手により人工呼吸器が外され、1987年9月21日 21時25分、家族らが見守る中、永眠した。ジャコはイノベーターとして世界中からの期待を掛けられたまま、彼の生まれ故郷であるフロリダの地で35年9ヶ月あまりの生涯を閉じた。暴行容疑で逮捕されたガードマン、リュック・ヘイヴァンはその後の裁判で、第二級謀殺罪が適用された。
[編集] ジャコ回想
ジャコの1980年代における奇行は酒やドラッグによるものと言われて来たが、ジャコの家族の証言によると躁鬱病によるものである可能性が高く、早くからジャコの状態を理解していたらあのような悲劇は避けられたかもしれない。しかしながら酒とドラッグの摂取量が常人をはるかにしのぐ量であった為、それらが症状の悪化を劇的に進ませたということも否定できない。また、彼が酒などに走った一つの理由として、「トップスターでいることに対する過度のプレッシャーを感じていた」という証言も残っている。ジャコの前妻イングリッド・パストリアスによると、「1980年代に日本国内でジャコが見せた様々な奇行の数々が、日本の某ジャズ系音楽雑誌を通じてアメリカへは誇張された形で飛び火し、さらに偏見を持たれた」という事だった。そう言ったことから、今でもイングリッドは日本の某ジャズ系音楽雑誌を快く思っていないのも事実である。
[編集] エピソード
ジャコに対してはその音楽性以外にもルックスや使用楽器、そして波瀾万丈な人生において世界中に数多くのシンパを生んでいる。1978-1981年頃のウェザー・リポート来日コンサート・ツアーや、その他ジャコ主体のコンサートで直に体験することが出来なかった生のジャコの姿をあまり知らない世代にとって、ジャコの伝記本として1990年代初頭に出版されていた『ジャコ・パストリアスの肖像』は彼を知る上での参考書になっている。ただし、この著者ビル・ミルコウスキーとジャコは面識がないらしく、イングリッド本人も面識はないらしい。そういった事から文献の内容は、そのほとんどが周囲などへのインタビューで構成されている書物として受け取るのが、現時点ではジャコの肖像を知る上で適切だろう。
また、最初の妻であるトレーシーとの間に生まれた子供達のジョンとメアリーは、現在ジャコの残した音楽的資産管理をするための事務所を開いて活動している。1982年に発売されたアルバム名『Twins I & II』の元にもなっていて、同年誕生したジャコと2番目の妻イングリッドとの双子の息子、ジャコの血を引き継いだジュリアスとフェリックスは「way of the groove」というバンドを組んで地元フロリダ・フォートローダーデールのバーやクラブで頻繁にギグを行っているが、まだレコーディング・デビューはしていない。因みに、フェリックスはベースでジュリアスはドラムを担当していて、どちらもジャコが得意としていた楽器だけにDNAを受け継いだ今後の成長と活躍が期待される。また、甥であるデイヴィット・パストリアスは「Local 518」というバンドでデビューしている。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] ソロ・アルバム
- ジャコ・パストリアスの肖像 (1976)
- ワード・オブ・マウス (1981)
[編集] ウェザー・リポート在籍時
[編集] ライブ・アルバム
(ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド & ジャコ・パストリアス・バンド)
- Twins I - Aurex Jazz Festival '82 (1982)
- Twins II - Aurex Jazz Festival '82 (1982)
- インヴィテイション (1983)
- バースデイ・コンサート (1995)
- Twins I & II (1999)
- Twins I & II - Live In Japan 1982 (2007)
[編集] コンピレーション、その他
- ライブ・アンド・アンリリースド (2002年) "ウェザー・リポート"
- パンク・ジャズ (2003)
- フォーキャスト:トゥモロー (2006年) "ウェザー・リポート"
- トリオ・オブ・ドーム (2007) "トリオ・オブ・ドーム"
- ザ・エッセンシャル・ジャコ・パストリアス (2007)
[編集] 代表的参加アルバム
- パストリアス, メセニー, Ditmas, Bley -『ジャコ』(1974)
- パット・メセニー -『ブライト・サイズ・ライフ』(1976)
- アル・ディ・メオラ -『ランド・オブ・ザ・ミッドナイト・サン』(1976)
- イアン・ハンター -『オール・アメリカン・エイリアン・ボーイ』 (All-American Alien Boy) (1976)
- ジョニ・ミッチェル -『逃避行』(1976)
- アルベルト・マンゲルスドルフ -『トライローグ - ライブ!』(1976)
- ジョニ・ミッチェル -『ドンファンのじゃじゃ馬娘』(1977)
- トム・スコット -『インティメット・ストレンジャー』(1977)
- ハービー・ハンコック -『サンライト』(Sunlight) (1978)
- ジョニ・ミッチェル -『ミンガス』(1979)
- ミシェル・コロンビエ -『ミシェル・コロンビエ』(1979)
- ジョニ・ミッチェル -『シャドウズ・アンド・ライト』(1979)
- ハービー・ハンコック -『ミスター・ハンズ』 (Mr. Hands) (1979)
- ボブ・ミンツァー - 『Source』(1982)
[編集] ビデオグラフィ
- ライブ・アット・モントルー 1976 (DVD、2007年) "ウェザー・リポート"
- シャドウズ・アンド・ライト (DVD完全版、2002年) "ジョニ・ミッチェル"
- ライブ・イン・モントリオール (DVD、2000, 2006年) "ジャコ・パストリアス・バンド"
- モダーン・エレクトリック・ベース (DVD、2006年)
- フォーキャスト:トゥモロー (DVD、2006年) "ウェザー・リポート"
[編集] 外部リンク
- JACO PASTORIUS - the official web site of the world's greatest bass player(オフィシャル・ウェブサイト)
- INGRID'S JACO CYBERNEST(ジャコの元妻・イングリッドのサイト)
- WAYOFTHEGROOVE.COM(ジャコの息子達のバンドサイト)
- DAVID PASTORIUS / official site(ジャコの甥、デイビッドのサイト)
- JACO PASTORIUS DISCOGRAPHY(Tom Stroud監修)
- JACO PAGE
- JACO PASTORIUS UNISSUED LIVE RECORDINGS DISCOGRAPHY
- A TRIBUTE TO JACO PASTORIUS 1951-1987

