ジネット・ヌヴー

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ジネット・ヌヴーGinette Neveu, 1919年8月11日 パリ - 1949年10月27日 大西洋アゾレス諸島)はフランスヴァイオリニスト

デビューまで[編集]

母がヴァイオリン教師、父もアマチュアながらヴァイオリンを嗜む音楽一家に生まれた。ひとつ年上の兄ジャンはピアニスト。母の手ほどきにより幼少時より才能を発揮し、7歳でブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をパリサル・ガヴォーfr:Salle Gaveau)で奏いた[1]。1930年、11歳でパリ音楽院に入りナディア・ブーランジェに学んだ。

1931年、11歳のヌヴーはウィーンでのコンクールに参加し、高名なヴァイオリニストのカール・フレッシュen:Carl Flesch)教授にその才能を見出された。フレッシュはヌヴーの両親に手紙を送ってヌヴーを直ちにベルリンに留学させるように勧めたが、家庭が裕福でなかったことから留学が実現するまで2年を要した。13歳になったヌヴーはようやくベルリンにやって来て改めて演奏を披露することになるが、それを聴いたフレッシュはこう感想を述べている。

あなたは天から贈り物を授かって生まれてきた人だ。私はそれに手を触れてあれこれしたくはない。私に出来るのは、いくらかの純粋に技術上の助言くらいだ

ジネット・ヌヴー2(Shellman)

ヌヴーはフレッシュの指導を4年にわたって受け、1935年に15歳でワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場し[2]、180名の競争相手を破って優勝した。このコンテストでは、後にヴァイオリニストとして大成することになる当時26歳のダヴィッド・オイストラフが2位で入賞したが、結果発表の翌日に故国で待つ妻に手紙でこう言及している。

2位になれたことに僕は満足している。ヌヴー嬢は『悪魔のように』素晴らしいと誰もが認めるだろう。昨日、彼女がヴィエニャフスキの協奏曲1番を正に信じられない力強さと激しさをこめて奏いた時、僕はそう思った。しかも彼女はまだ15歳かそこらなのだから、1位が彼女に行かなかったら、それは不公平というものだ

ジネット・ヌヴー2(Shellman)

デビュー後の活躍、30歳での事故死[編集]

一躍スターとなったヌヴーは、ヴァイオリニストとしてのキャリアの最初に、ハンブルクブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した[3]。その後、第二次世界大戦が勃発する1939年9月までの間に、ヌヴーはドイツソ連アメリカカナダで演奏した。

ヌヴーは、独エレクトローラ(英EMIのドイツ法人)に対して、1938年4月~5月と1939年4月に、計7曲をベルリンで録音した。全て、SP盤1面に入るピアノ伴奏の小品であった。録音時のピアノ伴奏はen:Bruno Seidler-WinklerとGustaf Beck であった[4]

ヌヴーは第二次世界大戦の間は演奏活動を中断していたが、フランスに平和が戻ると演奏活動を再開した。ピアノ伴奏は、兄ジャンが務めた。ヌヴーは1945年から1946年にかけ、フランスとイギリスの間を何度も行き来して演奏会や録音を行った。1945年11月から、英EMIとの本格的な録音をスタートし、シベリウスブラームスのヴァイオリン協奏曲をはじめ、CD換算で3枚分のスタジオ録音を翌1946年の8月までに行った。

1946年から1947年にかけて南北アメリカを演奏旅行し、次いで欧州各地で演奏した。1948年にはオーストラリア・アメリカで演奏旅行を行った。1949年にはエディンバラ国際フェスティバル(8月~9月)に出演し、イギリスの各地で演奏した。

1949年10月20日のパリでのリサイタルが、ヌヴーの最後の演奏会となった。

1週間後の10月27日、兄ジャンと共にエールフランスロッキードL-749コンステレーションに搭乗し、三度目のアメリカ演奏旅行に向けて旅立った。このエールフランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人プロボクサーマルセル・セルダンも同乗していた。しかし、同機はアゾレス諸島の主島であるサンミゲル島の山中に墜落し、乗員と48人の乗客は全員死亡した(1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故)。ヌヴーの遺体は、発見された時に愛器ストラディヴァリウスを両腕に抱え込むようにしていたと伝えられる。

没後の出来事・評価[編集]

ヌヴーの遺体はパリに運ばれ、ペール・ラシェーズ墓地ショパンの墓のすぐ近くに葬られた。フランス政府からレジオンドヌール勲章が授与された(「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」)。

ジネット・ヌヴーは、30歳での事故死により短いキャリアを終えたが、今なお世界的な大ヴァイオリニストのひとりとして語り継がれている。遺された音源は、モノラル録音ながらも生前の演奏風景を鮮明に伝えており、濃密でたくましい情感、雄渾多感な表現、非の打ち所のない音色のつやが特徴的である。ヌヴーはフランス人ながらもとりわけブラームスを得意としており、死の前年の1948年5月、28歳の時にハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団と共演した協奏曲のライヴ録音は、深い精神力を感じさせる解釈と鬼気迫る表現の激しさによって、他の追随を許さない。

脚注[編集]

  1. ^ 「ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をパリのサル・ガヴォーで奏いた」とのみ伝わり、共演者については伝わらない。ピアノ伴奏での演奏と思われる。
  2. ^ ヌヴー家はコンクールへの出場費用を工面できず、師のフレッシュが費用を全額負担した(「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」)。
  3. ^ ハンブルクでヌヴーと共演したオーケストラの指揮者については、「The First Recordings of Ginette Neveu (Testament)」には「オイゲン・ヨッフム」とあり、「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」には「ハンス・シュミット=イッセルシュテット」とある。ヨッフムは、カール・ベームの後任として、1934年からハンブルク国立歌劇場en:Hamburg State Opera)ならびにPhilharmonisches Staatsorchester Hamburgの音楽監督であり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を定期的に指揮しており、日本で上梓された 『名曲決定盤』 (あらえびす著、 中央公論社、1939年)でも「ドイツの新進指揮者」と紹介されている。シュミット=イッセルシュテットは、1935年からハンブルク国立歌劇場の第一指揮者であった。
  4. ^ 戦後のEMIへの録音では、協奏曲以外は、全て兄のジャンがピアノ伴奏した。

出典[編集]

本記事は、

  • 「ジネット・ヌヴー2(Shellman SH-1003)」のライナーノート(東芝EMI TOCE7392~94『ジネット・ヌヴーの芸術』より転載とクレジット)
  • 「The First Recordings of Ginette Neveu / The Complete Recordings of Josef Hassid(英Testament SBT 1010)」のライナーノート(英文)

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