ジネット・ヌヴー

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ジネット・ヌヴーGinette Neveu, 1919年8月11日 パリ - 1949年10月27日 大西洋アゾレス諸島)はフランスヴァイオリニスト

[編集] 生涯

音楽家の一族に生まれ、大叔父に作曲家のシャルル=マリー・ヴィドールがおり、弟ジャン=ポールはピアニスト。母親の手ほどきにより幼少期より楽才を発揮、7歳でコンセール・コロンヌ管弦楽団と共演してブルッフの協奏曲でパリ・デビューを果たす。パリ音楽院に学んだ後、ジョルジェ・エネスクナディア・ブーランジェのもとでも研鑚を積み、さらにベルリンに留学してカール・フレッシュに師事。しかしフレッシュは、「ヌヴーはすでに完成された芸術家であり、自分は助言以外にすることはなかった」と述懐している。

15歳でヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場、180名もの競争相手を破って優勝し、未来の巨匠ダヴィッド・オイストラフを2位に下して、世界的な名声を獲得した。それから間もなく演奏旅行の契約を結び、2年以上の間にドイツポーランドソ連アメリカカナダを訪れた。

ヌヴーの国際的なキャリアは、第二次世界大戦により中断するが、ついに1945年にロンドン・デビューをかなえることができた。弟ジャン=ポールを伴奏者にしたがえて、戦後のヨーロッパを精力的に駆け抜け、プラハの春音楽祭にも出演。さらに南米豪州でも楽旅を実現、アメリカ再公演も行なった。

1949年10月20日のリサイタルが、最後の演奏会となった。1週間後の10月27日、弟ジャン=ポールとともにエール・フランス機に搭乗し、アメリカ演奏旅行に向けて旅立った。このエール・フランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人ボクサーマルセル・セルダンも同乗していた。だがこれは死への旅路にほかならなかった。機体がポルトガル沖合いで事故を起こし、サン=ミゲル島の空港に2度着地を試みるも失敗、山中に墜落してしまう。48人の乗客のうち、生存者は一人もいないという悲惨な事故だった。ヌヴーのなきがらは、発見された時にストラディヴァリウスを両腕に抱え込むようにしていたと言い伝えられている。

[編集] 没後の出来事・評価

1952年3月1日、パリにジネット・ヌヴー協会が設立され、パリ音楽院内にて記念碑の除幕式がとり行われた。出席者にはシャルル・ミュンシュジャック・ティボーがいた。かつてティボーは、ヌヴーの訃報に「自分も最期はかくありたいもの」と述べたことがあり、その通り飛行機事故により亡くなった。ヌヴー協会は幾多の変転を重ねた後、1960年代に解散されている。

ジネット・ヌヴーは、夭折により短いキャリアを終えたにもかかわらず、今なお世界的な大ヴァイオリニストのひとりとして語り継がれている。遺された音源は、モノラル録音ながらも生前の演奏風景を鮮明に伝えており、濃密でたくましい情感、雄渾多感な表現、非の打ち所のない音色のつやが特徴的である。ヌヴーはフランス人ながらもとりわけブラームスを得意としており、死の前年にハンス・シュミット=イッセルシュテットと共演した協奏曲のライヴ録音は、深い精神力を感じさせる解釈と鬼気迫る表現の激しさによって、他の追随を許さない。