ジェームズ・スタンリー (第7代ダービー伯爵)

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第7代ダービー伯爵ジェームズ・スタンリー(アンソニー・ヴァン・ダイク画)

第7代ダービー伯爵ジェームズ・スタンリー(James Stanley, 7th Earl of Derby, KG, KB, 1607年1月31日 - 1651年10月15日)は、イングランドの貴族・軍人。清教徒革命イングランド内戦)では一貫して王党派に属して西部を中心に議会派と戦ったが、敗れて処刑された。父はダービー伯爵ウィリアム・スタンリー、母はオックスフォード伯爵エドワード・ド・ヴィアーの娘エリザベス。父方の祖母マーガレット・クリフォードはイングランド王ヘンリー7世の曾孫で、マーガレットを通して王家と繋がっていた。

生涯[編集]

ヨーロッパ大陸へグランドツアーに出かけた後、1625年リヴァプールから下院議員に選出、翌1626年にはチャールズ1世からバス勲章を受勲、父と共同のチェシャーランカシャー統監に任命され、1627年マン島の領主に任命された。翌1628年にストレンジ男爵に叙せられ上院へ移り、北ウェールズ総督にも任じられイングランド北西部に強い影響力を及ぼした。

しかし、チャールズ1世からは王家と遠縁に当たるため警戒されていて、廷臣達からは王位簒奪を疑われ宮廷から孤立していた。また、父が隠居したため事実上単独でチェシャー・ランカシャーを纏め上げる立場であったが、チャールズ1世の政策で重税と徴兵を断行したため地元住民からの怒りも買った。宮廷からは遠ざかり政争に加わらず、レイサム・ノーズリーの荘園で暮らしていたが、1642年にイングランド内戦が勃発するとチャールズ1世への忠誠心から王党派へ参加、同年に死んだ父のダービー伯位を継承して北西部の軍勢を動員、ランカシャーを中心に議会派と都市争奪戦を繰り広げた。

王党派と合流すべくマンチェスターを包囲したが失敗、翌1643年からはチャールズ1世の命令で北西部に留まりランカシャーの中心都市ウォリントンウィガンプレストンランカスターを巡って議会派と一進一退、一時プレストンを根拠地としたが、ウォーリーの戦いで議会派に敗北するとプレストンを奪われ、他の都市も議会派に落とされ戦況不利となり6月にマン島へ逃れた。マン島では議会派の代官を罷免して自ら島の行政に携わり、軍備を整えイングランド復帰を目論み8ヶ月待機した。その間レイサムに残った妻シャーロットは議会派の包囲に耐え抜いた[1]

1644年2月に本土へ戻りカンバーランド公ルパートに救援を要請、ルパートの援軍と合流してレイサムの包囲を解除させ、ボルトン・リヴァプールを奪取してチェシャー・ランカシャーを平定した。だが、ヨークへ北上したルパートがマーストン・ムーアの戦いで大敗すると議会派がランカシャーになだれ込んだため、窮地に立たされ再びマン島へ逃亡した。議会派からは何度も和睦の話を持ちかけられたが、いずれも拒否して王党派に留まり、マン島で読書と執筆に明け暮れた。

やがて1649年にチャールズ1世が処刑されイングランド共和国が成立すると、チャールズ王太子(後のチャールズ2世)の支持を表明して1650年にガーター勲章を受勲、1651年8月にスコットランドへ渡ったチャールズと合流、ランカシャーで兵を集めようとしたが、協力を得られなかった上議会派の遠征軍と衝突して敗北(ウィガン・レーンの戦い)、スコットランドのチャールズの下へ逃れたが、9月のウスターの戦いでも議会派に大敗して降伏、10月にボルトンで処刑された。44歳だった。

マン島に逃れていたシャーロットは処刑の情報を受け取ると議会派に降伏、マン島から退去した。息子のチャールズ・スタンリーen)は共和国承認と引き換えにノーズリーへ戻り、1660年王政復古で立場を回復したが、内戦で他人に購入・没収された土地は取り戻せず、スタンリー家は王家の忠誠にも拘らず報われることはなかった[2]

子女[編集]

1626年、トゥアル公クロード・ドゥ・ラ・トレモイユの娘シャーロットオラニエ公ウィレム1世シャルロット・ド・ブルボン=ヴァンドームの孫娘)と結婚、9人の子を儲けた。

  1. チャールズ(1628年 - 1672年)
  2. シャーロット(夭折)
  3. 子(夭折)
  4. 子(夭折)
  5. ヘンリエッタ(1630年 - 1685年) - ストラフォード伯ウィリアム・ウェントワースと結婚
  6. メアリー(1633年 - 1702年) - アサル侯ジョン・マレーと結婚
  7. エドワード(1639年 - 1664年)
  8. ウィリアム(1640年 - 1670年)
  9. キャサリン(? - ?) - ドーチェスター侯ヘンリー・ピエールポントと結婚

脚注[編集]

  1. ^ バグリー、P155 - P173、海保、P130 - P131。
  2. ^ バグリー、P173 - P199。

参考文献[編集]

公職
先代:
ダービー伯
チェシャー/ランカシャー統監
共同:ダービー伯

1626年 - 1642年
次代:
空位
チェシャー/ランカシャー海軍中将
1638年
イングランドの爵位
先代:
ウィリアム・スタンリー
ダービー伯爵
1642年 - 1651年
次代:
チャールズ・スタンリー
先代:
新設
ストレンジ男爵
1628年 - 1651年