ジェームズ・アンダーソン

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ジェームズ・アンダーソン

ジェームズ・アンダーソンJames Anderson, 1895年9月17日 - 1973年12月22日)は、オーストラリアシドニー市エンフィールド出身の男子テニス選手。1920年代のオーストラリア・テニス界をリードした選手の1人で、全豪選手権男子シングルスで1922年1924年1925年の3度優勝した。彼はウィンブルドン選手権でも1922年に男子ダブルス優勝を達成し、オーストラリア人選手として史上3人目のウィンブルドン優勝者になっている。フルネームは James Outram Anderson (ジェームズ・アウトラム・アンダーソン)といい、普段は名前のイニシャルだけで「J・O・アンダーソン」と呼ばれた。

アンダーソンは「グレイハウンド」(Greyhound: 猟犬の一種、非常に足が速いことで知られる)というニックネームで呼ばれ、肩の高さから打つ強力なフォアハンド・ドライブ(ボールに順回転をかけたフォアハンド・ストローク)を最も得意にした。彼のバックハンド・ストロークは、フォアハンドと同じラケット面で打つ「逆さのバックハンド」(upside-down backhand)を駆使した。背が高く、やせた体格の持ち主であり、試合の時にはテニスコートに大きなカンガルーのぬいぐるみを持ってきたという。アンダーソンは選手経歴を通じて、オーストラリア国内外のイベントでジェラルド・パターソンと対戦する機会が多く、互いに強いライバル意識を持っていた。

来歴[編集]

アンダーソンは家族の8番目の子供として生まれ、学生時代の1914年ニューサウスウェールズ州のテニス・チャンピオンになった。第1次世界大戦の戦時中、彼は1915年から全米選手権に出場を始めた。戦時中でも、全米選手権だけは途切れることなく開かれていた。1918年11月の世界大戦終結により、他のテニス競技大会の開催が再開され、男子テニス国別対抗戦・デビスカップテニス4大大会全豪選手権ウィンブルドン選手権も再開される。1919年度の全豪選手権とデビスカップ決勝は、同じ開催地と時期に行われ、1920年1月後半にシドニーで開かれた。アンダーソンはデビスカップ決勝の第1試合と、全豪選手権のシングルス準決勝でアルガーノン・キングスコートイギリス)に連敗するが、オーストラリアはデビスカップ決勝でイギリスに「4勝1敗」の勝利を収めた。

1922年全豪選手権男子シングルス決勝で、ジェームズ・アンダーソンはジェラルド・パターソンに 6-0, 3-6, 3-6, 6-3, 6-2 のスコアで勝ち、初優勝を決めた。同年のウィンブルドン選手権男子ダブルスで、アンダーソンはランドルフ・ライセットとペアを組み、パターソンとパット・オハラウッドの組に 3-6, 7-9, 6-4, 6-3, 11-9 の逆転勝利を収めた。こうして、J・O・アンダーソンはノーマン・ブルックスとパターソンに続いて、オーストラリア人選手として3人目のウィンブルドン優勝者になった。同大会のシングルスでは、準決勝でパターソンに 1-6, 6-3, 9-7, 1-6, 3-6 で敗れ、決勝進出を逃している。第1次世界大戦中から参加してきた全米選手権では、1921年のベスト4が自己最高成績だった。

その後、アンダーソンは全豪選手権で1924年に男子シングルス・男子ダブルスの2冠を獲得し、1925年に男子シングルスで2年連続3度目の優勝を果たした。1925年は、ウィンブルドン選手権で3年ぶり2度目のベスト4進出もある。この頃からフランスの「四銃士」が台頭し始め、アンダーソンはフランス四銃士の1人であるルネ・ラコステに 4-6, 5-7, 1-6 で完敗した。1925年9月4日-7日にアメリカニューヨーク市内のフォレストヒルズにある「ウエストサイド・テニスクラブ」で開かれたデビスカップ「インターゾーン」決勝で、オーストラリアはフランスに「1勝3敗」で敗退し、デビスカップにおいてもオーストラリアとフランスの力関係が逆転した。アンダーソンもシングルス第2試合でジャン・ボロトラに敗れ、これが彼の最後のデビスカップ戦出場になる。1926年全豪選手権の準決勝でジョン・ホークスに敗れ、大会3連覇を逃した試合を最後に、アンダーソンは「プロテニス選手」に転向した。

ジェームズ・アンダーソンはデビスカップを通じて、日本チーム代表選手との対戦も多かった。日本がデビスカップに初出場を果たした1921年、オーストラリアは日本と準決勝で当たり、この時は日本が「4勝1敗」でオーストラリアに勝った。アンダーソンは日本代表との初対戦では、シングルス戦2試合で清水善造熊谷一弥の2人に敗れている。2年後の1923年デビスカップでは、オーストラリアは「アメリカン・ゾーン」決勝で日本に5戦全勝で勝ち、アンダーソンも清水と福田雅之助とのシングルス戦、清水と柏尾誠一郎組とのダブルス戦に完勝した。最後は1925年デビスカップ「アメリカン・ゾーン」決勝のシングルス第2試合で原田武一を退けた。グランドスラム大会の男子シングルスでは、アンダーソンと日本人選手の対戦はなかった。

全豪選手権でホークスに敗れた後、ジェームズ・アンダーソンは1926年12月から「プロテニス選手」に転向した。世界最初のプロテニス選手は、1926年夏にプロテニス選手契約書に署名したスザンヌ・ランランフランス)を含む6名であり、アンダーソンは彼らに続く早い時期にプロ選手になる。4年後の1930年、アンダーソンはアマチュア選手資格を取り戻そうと試みたが、失敗に終わった。(当時のテニス4大大会は出場資格がアマチュア選手に限られ、プロ選手になると参加資格を失った。)その後は故郷のシドニー市で過ごし、1960年代までテニスコーチとして活動した。全盛時代から半世紀後、ジェームズ・アウトラム・アンダーソンは1973年12月22日にシドニー市内のゴスフォードで78年の生涯を閉じた。

なお、ジェームズ・アンダーソンの生没年月日については文献によってばらつきも見られる。下記外部リンク・参考文献のうち、「オーストラリア人名事典」では生年月日「1894年」9月17日・没年月日1973年「12月23日」と記され(生年月日1年違いはこの資料だけ)、バド・コリンズの百科事典では(生年月日は正しいが)没年月日が「1960年7月19日」と書かれている。国際テニス連盟のプロフィール(外部リンク)とランス・ティンゲイのウィンブルドン歴史書(参考文献)が正しく合致していることから、彼の生涯は「1895年9月17日-1973年12月22日」であったと確認できる。

4大大会優勝[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3 本書には珍しく、没年月日に「1960年7月19日」の大きな誤記がある。
  • Bruce Matthews, “Game, Set and Glory: A History of the Australian Tennis Championships” (ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史) The Five Mile Press, Victoria, Australia (1985) ISBN 0-86788-078-3
  • Our Open - 100 years of Australia's Grand Slam” (我らのオープン-オーストラリア・グランドスラムの100年史) News Custom Publishing, Victoria, Australia (2004) ISBN 1-876176-60-1
  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
  • Lance Tingay, “100 Years of Wimbledon” (ウィンブルドンの100年史) Guinness Superlatives Ltd., London (1977) ISBN 0-900424-71-0