ジェルメ

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ジェルメJelme 生没年不詳)は、モンゴル帝国最古参の将軍で、四狗と呼ばれるチンギス・カンの功臣のひとり。ウリャンカイ部の出身で、四狗の一人スブタイは弟とされる。『集史』などでは جَلمه اوهَه Jalma Ūha、漢語史料では『元朝秘史』では、者蔑豁阿、『元史』では折里麦、済拉瑪などと表記される。

目次

生涯 [編集]

略歴 [編集]

父親のジュルチダイはイェスゲイに古くから仕えた人物で、『元朝秘史』には、ふいごを携えた老人と書かれる。テムジン(後のチンギス・カン)が生まれた時、ジュルチダイはテムジンに黒貂の産衣(ネルケイ)を献上し、そのとき産衣にくるまれていたジェルメをテムジンに仕えさせたいとイェスゲイに申し出た。

長じてボルテと結婚したテムジンがトオリルと義父子の関係を結んだ後、ジュルチダイに伴われてテムジンに仕える。弱小だったころのテムジンがメルキトの襲撃を受けた時にはブルカン嶽への逃亡を助け、チンギスがハンに即位すると、ボオルチュとともにケシクの統率を命じられた。 ナイマンとの戦いでは、ジェベ、スブタイ、クビライら他の四狗と共に先鋒を務めた。1206年のチンギスの第2次即位では第9位の功臣として顕彰され、罪を九度まで犯しても罰せられない特権と千戸を与えられた。ジェルメの率いる部衆は六千戸に増え、これをハラチン(喀喇沁)と号した。モンゴル統一後早くに亡くなり、短命だったために後世における武名はジェベ、スブタイに比べて低いものとなったと『新元史』の編者は言う。

三つの恩 [編集]

ジェルメの忠誠を示す逸話として、タイチウト部との戦いにおけるチンギスの看護が挙げられる。戦いの中でチンギスが毒矢を受けると、ジェルメは意識を失ったチンギスに常に付き添って毒血を口で吸出した。夜半にチンギスが目を覚まして「喉が渇いた」と言うと、単身タイチウトの中に忍び込んで酸乳を運び出した。チンギスは献身的な看護と命がけで敵陣に忍び込んだ勇気を称え、これにブルカン嶽での奮戦を合わせた三つの恩は決して忘れないと言った。また他の者も単身で敵中に入ったジェルメの豪胆さを称賛した。

『元史』『新元史』におけるスブタイとの関係 [編集]

代に編纂された『元史』にはジェルメの列伝は立てられていない。弟スブタイについては、史家の誤りで「速不台」「雪不台」二つの列伝が立てられている[1]。速不台伝には、スブタイの父の名は哈班であることと、同じく武勇に優れ騎射に長けた忽魯渾という兄がいたこと、雪不台伝には、スブタイが兄の虎魯渾と共に父・哈班の羊を盗んだ賊を討ったエピソードが記されている。忽魯渾(虎魯渾)がジェルメと同じくナイマンとの戦いで軍功があったことは、いずれの伝にも共通する記録である。『新元史』に収録されている速不台伝には『元史』内の2つの伝と同じく忽魯渾はスブタイの兄と記され、事績は2つの伝をまとめた形となっており、ジェルメとの関係については言及されていない[2]。また、『新元史』内のジェルメの伝においては、ジュルチダイ、チャウルカンとの血縁関係については触れられているが、ジェルメとスブタイの関係には述べられていない。

家族 [編集]

子のイェスン・テエはコルチ(箭筒士)に任ぜられ、チンギスに近侍した。チンギスが将軍に必要な資質の一つを説いたとき、イェスン・テエを引き合いに出したことがある。 「諸将の中でイェスン・テエの武勇に並ぶ者はいないが、イェスン・テエは配下の士卒の疲労を考慮しておらず、将軍には適していない。」と、個人的武勇は高いが、指揮官には不向きな人物と評価されている。後にモンケの治世に、諸王が起こした反乱に参加し誅殺された。

『清史稿』にあらわれる子の格哷博羅特はジェルメの有するハラチンを継承、清代にジョソト盟を構成したハラチン部はその後裔とされる。同じくジョソト盟を構成したトメト部の左翼もジェルメを祖とする[3]

  • 父 ジュルチダイ(札儿赤兀歹)
  • 弟 スブタイ
  • 弟 チャウルカン(察兀儿罕亦)
  • 子 イェスン・テエ(也孫帖額)
  • 子 格哷博羅特

参考文献 [編集]

  • 新元史』巻123 列伝第20
  • 清史稿』巻518 列伝第305
  • 岩村忍『元朝秘史―チンギス=ハン実録』(中公新書, 中央公論新社.1963年6月)
  • 村上正二『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(全3巻:平凡社東洋文庫)、1970-76年。
  • 小澤重男『元朝秘史』上下巻(岩波文庫, 岩波書店.1997年)
  • 岡本敬二「ハラチン」『アジア歴史事典』7巻(平凡社. 1959年)

脚注 [編集]

  1. ^ 『元史』巻121 列伝第8、『元史』巻122 列伝第9
  2. ^ 『新元史』巻122 列伝第19
  3. ^ 『清史稿』巻518 列伝第305

関連項目 [編集]