ジェイ・ピアポント・モファット (公使)

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ジェイ・ピアポント・モファット

ジェイ・ピアポント・モファット(Jay Pierrepont Moffat, 1896年1月7日 - 1943年1月25日)は、アメリカ合衆国外交官歴史家政治家。1917年から1943年まで国務省に勤務し、第二次世界大戦期に駐カナダ公使を務めた。ピアポンティフェクス・マクシムス (Pierrepontifex Maximus)」という呼び名でも知られる[1]

生涯[編集]

1896年1月7日、ジェイ・ピアポント・モファットはニューヨーク州ライにおいて誕生した。

モファットは外交官ジョン・ワーク・ガレットの私設秘書として働いた。1917年にガレットが駐オランダ公使に任ぜられると、モファットはガレットに同行し、書記官としてハーグに駐在した。1919年にガレットが駐オランダ公使を退くと、モファットはガレットのもとを離れた。モファットはその後、ポーランドワルシャワ公使館書記官(1919年-1921年)と日本東京公使館書記官を務めた。

モファットは1925年から1927年までカルヴィン・クーリッジ大統領の下で、ホワイトハウス儀礼官を務めた。モファットは1927年から1931年までスイスのベルン公使館で書記官を務めた後、1932年から1935年まで再びワシントンD.C.で勤務し、国務省西ヨーロッパ部の部長を務めた。モファットは1935年から1937年までオーストリアのシドニー公使館で総領事を務めた。モファットは1937年から1940年まで国務省ヨーロッパ担当部の部長を務めた。1940年6月、フランクリン・ルーズベルト大統領はモファットを駐カナダ公使として指名した。モファットは直ちに承認を受け、その後死去するまでの2年7ヶ月にわたって公使職を務めた。1941年、ルクセンブルク大公シャルロットがカナダに亡命したことから、モファットは駐ルクセンブルク公使も兼任した。

第二次世界大戦中葉の1943年1月25日、モファットはカナダのオタワにおいて死去した。ニューヨーク・タイムズ紙はモファットについて、「この戦争の時代、死が数多の扉を叩きからん時勢に、人生の最盛期にある有能な公人を喪失したことは、甚だ遺憾である」と言及した。モファットは外交官としての仕事に加えて、トルコの歴史に関する研究も行っていた。1956年、義父ジョセフ・グルーはモファットが遺した研究書類を、ハーバード大学図書館に寄贈した。

職歴[編集]

  • ハーグ公使館書記官(1917年-1919年)
  • ワルシャワ公使館書記官(1919年-1921年)
  • 東京公使館書記官(1921年-1923年)
  • ホワイトハウス儀典官(1925年-1927年)
  • ベルン公使館書記官(1927年-1931年)
  • 国務省西ヨーロッパ部長(1932年-1935年)
  • シドニー公使館総領事(1935年-1937年)
  • 国務省ヨーロッパ担当部長(1937年-1940年)
  • 駐カナダ公使(1940年-1943年)
  • 駐ルクセンブルク公使(1941年-1943年)

家族[編集]

ジェイ・ピアポント・モファットの父親はルーベン・バーナム・モファット (Reuben Burnham Moffat, 1861-1916) であり[2]ニューヨークで弁護士をしていた[3]。父方の祖先は、18世紀初頭にスコットランドからニュージャージー植民地に入植した[4]。母親はニューヨーク出身のエレン・ロウ・ピアポント (Ellen Low Pierrepont, 1872-1960) であった[5]

1927年7月27日、モファットはニューハンプシャー州ハンコックにおいて、上級外交官ジョセフ・グルーの娘リラ・カボット・グルー (Lilla Cabot Grew) と結婚した。息子(en:Jay Pierrepont Moffat Jr.)も外交官で、チャド大使などを務めた。

注釈[編集]



外交職
先代
ジェイムズ・ヘンリー・ロバーツ・クロムウェル
在カナダアメリカ合衆国特命全権公使
1940年6月13日 - 1943年1月24日
次代
レイ・アサートン
先代
ジョン・カダヒー
在ルクセンブルクアメリカ合衆国特命全権公使
1941年3月10日 - 1943年1月24日
次代
レイ・アサートン