ジェイムズ・ブレイディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ジェームズ・ブレイディ(2006年

ジェイムズ・スコット・“ジム”・ブレイディ: James Scott “Jim” Brady1940年8月29日 - )は、ロナルド・レーガン政権時のホワイトハウス報道官。1981年のレーガン大統領暗殺未遂事件で生死の淵を彷徨い、その後も身体障害に悩まされたが銃規制の推進を主張した。

経歴[編集]

イリノイ州セントラリアに生まれ、同市の聖メアリーカトリック小学校に通った。アメリカボーイスカウト協会でも最高ランクのイーグル・スカウトを授かった。1962年のイリノイ大学アーバナ=シャンペーン校卒業時に政治学の学士号を取得した。同州選出の上院議員、エヴァレット・ダークセンの事務所職員が彼の公務員キャリアの出発点であった。1962年夏には司法省反トラスト局で研修を受けた。その後は民間の要職を歴任した後、1970年に政治活動家、フィリス・シュラフライのイリノイ州南部地区での会合開催を担当する選挙部長に就任。73年から75年にかけて住宅都市開発長官特別補佐、75年から76年にかけて行政管理予算局長特別補佐、76年から77年にかけてドナルド・ラムズフェルド国防長官補佐[1]、ウィリアム・V・ロス・ジュニア上院議員のスタッフを歴任し、80年に当時の大統領選ジョン・コナリー陣営の報道官を務めた。

暗殺未遂事件での銃撃直後の混乱のようす。ブレイディのほかにも警察官のトーマス・デラハンティが負傷した
2006年8月2日に当時のジョージ・W・ブッシュ大統領の呼びかけで集まった歴代のホワイトハウス報道官の面々。ブレイディは右から二番目、妻のサラは一番右

1981年3月30日、ブレイディはレーガン大統領暗殺未遂事件ジョン・ヒンクリーの流れ弾に当たり、頭に深い傷を負った。襲撃直後の混乱のなか、主要メディアは軒並み「ブレイディ死去」という誤報を流した。ブレイディと交友関係にあったABCニュースのフランク・レイノルズキャスターはこの誤報に怒って生放送中にもかかわらずスタッフに対して怒鳴ったが、CMを入れたことで収拾がついた。

ブレイディは一命を取り留めたものの左半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされた。大統領報道官の職務も果たせなくなったが、大統領の任期満了まで更迭されることはなく、ラリー・スピークスやマーリン・フィッツウォーターが彼の「臨時」や「代行」としてその職務を遂行した。

事件後、ブレイディは議員らに銃規制を働きかけ、銃による暴力阻止のためブレイディ・キャンペーンという組織を主導した。1991年、この出来事を基にした映画「Without Warning: The James Brady Story」が作製され、ボー・ブリッジスがブレイディ役を演じた。1993年には妻のサラ・ブレイディとドレクセル大学から文学の博士号を取得した。ジェイムズは1982年にイリノイ州レバノンのマッケンドリー大学から法学の名誉博士号を取得していた。1994年には彼の名にちなんだブレイディ法という法律が施行されたが、皮肉にも彼が撃たれたワシントンD.C.では既に市民が拳銃を所持することを禁じていた。

1996年、ブレイディは当時のビル・クリントン大統領から全米最高の市民賞である大統領自由勲章を受賞した[2]

2000年にはホワイトハウスの記者会見室が彼の名にちなみジェイムズ・S・ブレイディ記者会見室に改称された。

脚注[編集]

  1. ^ Rachelle Patterson. "Nancy stories make Reagan irate," Boston Globe, January 7, 1981 (page not identified in archive).
  2. ^ About Jim and Sarah Brady at Bradycenter.com
公職
先代:
ジョディ・パウエル
ホワイトハウス報道官
1981年 - 1989年
(1981年3月30日から職務不遂行)
次代:
ラリー・スピークス