シール・クーフ

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シール・クーフアラビア語: ‏أسد الدين شيركوه بن شاذيʾasad ad-dīn šīrkūh bin šāḏī, クルド語: Şîrkûh または Shêrko, 生年不明 - 1169年3月23日)は、エジプトシリアで活躍したセルジューク朝およびザンギー朝武将クルド人アイユーブ朝創始者であるサラーフッディーン(サラディン)の叔父(サラディンの父・ナジムッディーン・アイユーブの弟)。アサドゥッディーン(‏أسد الدين ʾasad ad-dīn)という彼のラカブ(尊称)はアラビア語で「宗教の獅子」という意味であり、シール・クーフ(Şîrkûh)というイスム(個人名)はクルド語で「山の獅子」という意味である。

かなり気性の激しい人物だったといわれる。1138年、ちょうどサラディンが生まれた頃に官吏を殺害したため、一族が避難するという憂き目にあっている。その後はシリアで大勢力を誇っていたザンギーに仕えた。1146年にザンギーが暗殺されると政争に巻き込まれて紆余曲折を経て、ザンギーの後を継いだ彼の息子であるヌールッディーンに仕えた。シール・クーフはヌールッディーンのもとで十字軍との戦いなどで頭角を現し、兄のアイユーブを重臣に推挙してダマスクスの知事に任命されている。

この頃、エジプトを支配していたファーティマ朝では権力闘争が起こっていた。宰相のシャーワルとその政敵・ディルガームの争いである。シャーワルはディルガームにより失脚させられ、巻き返しを図るシャーワルはザンギー朝に援軍を求めた。ヌールッディーンは片腕にまでなっていたシール・クーフをエジプトに派遣し、これを機会にファーティマ朝を支配下に置こうと画策する。シールクーフは甥のサラディンと共にエジプトに進撃し(エジプト戦役)、1164年にディルガームを殺してシャーワルを復職させた。その後はシール・クーフが事実上の権力者としてファーティマ朝に君臨するが、その実力を恐れたシャーワルは十字軍と密約を結んで援軍を求めた。これに激怒したシール・クーフは1169年にサラディンと共に十字軍を破り、シャーワルを処刑した。

ところがその直後の3月23日、シール・クーフは腹痛が原因で急死した。彼はかなりの美食家かつ大食いだったといわれており、それが死因になったといわれる。シール・クーフの死の3日後、その軍は甥のサラディンが継ぎ、シール・クーフがファーティマ朝で築き上げた基礎はそのままアイユーブ朝創設につながることになる。

参考文献[編集]