シーボルトの義経=ジンギスカン説
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シーボルトの義経=ジンギスカン説(シーボルトのよしつね=ジンギスカンせつ)は、江戸時代末期、ドイツの医師・博物学者フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)が著書『Nippon1832-1882』の中で述べた、源義経が大陸へ渡ってジンギスカンになったという義経=ジンギスカン説のことである。現在は状況証拠のみで、いわゆるトンデモ説になっている。
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[編集] 概要
[編集] “守”としての爵位
1823年に来日したオランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトは本格的な日本研究をおこなって『Nippon』を著し、源義経が平泉では死なず蝦夷へわたり、大陸へ渡って元の樹立者[1]になったのではないかと考察した[要出典]。さらに、『Nippon』では、神武天皇以来日本諸侯の爵位として「守」(かみ)といい、義経は「かみ」すなわちモンゴル民族の「カーン」になったのではないかと考察した[要出典]。
ただし、カーンについては『元朝秘史』に他部族の長を合罕と称するという記述があり、日本とのかかわりは指摘されていない[2]。(義経=ジンギスカン説より)。
また、義経は検非違使尉であったところから「九郎判官」と称されたのであり、四等官制でいえば「かみ」の爵位ではなく「じょう」の爵位を栄誉と考え、執着していたものと考えられる。さらに、四等官も「かみ」も神武天皇にさかのぼらないことは明白であって、改新の詔をそのはじまりとしていたのは江戸時代にあっても常識であった。したがって、これは「トンデモ説」以前の見解だといえる。
[編集] 読史余論
蒙古のジンギスカンが義経であったという説は明治中期から流行し、大正一三年(1924)の小谷部全一郎著の『成吉思汗ハ源義経也』(富山房)がヒットし、日清戦争・日露戦争を経験した人々に読まれた。この「トンデモ説」を流布させるのに役割を与えたのはシーボルトである。古くから義経入夷説はアイヌの間に広まっていた[要出典]が、俗説にとどまらなかった。ハインリッヒ・フォン・シーボルト(シーボルトの次男)の著書[3]によれば新井白石でさえ、その著書『読史余論』[4]で義経の死について『吾妻鏡』を信用すべきとしながら、いくつかの疑問点を指摘して入夷説の他、入韃靼説を付記し、『蝦夷志』でも主張している。これを長崎出島のオランダ商館長のティッチング(Isaac Titsningh:1745~1812)が翻訳し、マルテ・ブリューン(Conrad Malte-Brun:1775~1826)編の『地理および歴史に関する探検旅行記録集』(Annales des voyages,de la geographine et de I'historie.第24巻、1814年、パリ刊)には該当部分が転載されており、シーボルトはこれをフランス語版で読んだことによって、この説を知ったようである。
[編集] 義経伝承
『和年契』から藤原泰衡が義経暗殺に失敗し、義経が死んだ噂をたて、義経の死が事実であると『吾妻鏡』に記録させたと推測されていると記し、将軍の宮廷に持ってきた首がやがて義経の首では無いのではないのかと疑われるようになった。藤原泰衡は既に1188年「文治四年」に弟義経を打ち滅ぼすべしという源頼朝の命を受けたがこれに失敗し、次の年も同じく失敗した。日本の道義により切腹すべき立場にあったが、泰衡は義経が命を失ったという噂をたて、隠蔽工作を謀り、それが『吾妻鏡』に記されたのではないかとした。泰衡から送られてきた義経の首が本当に義経のものであるかどうかも疑われることとなった。「義経」と「弁慶」が実際に蝦夷に滞在したことを暗示させる証拠が『大日本史』[5]の内容と一致し、アイヌ民族の伝承にも自然なものとして残っており、アイヌにオキクルミと呼ばれ、崇拝に近い尊敬の念と、心からの感謝をもって記憶にとどめているとしている。さらに義経はアイヌに船の建造や農耕と弓術を教えたとし、彼に因む城郭の古い遺跡もみせてもらっている。大陸へ行ったとする説は江戸時代にも存在している。弁慶にはアイヌは敬服して「弁慶崎」の名をつけこれによって弁慶の名は不朽のものになった。いくつかの山を見せられ、義経がしばらく滞在したとの説明を受けたが、蝦夷には義経に捧げられた建物も残っており、アイヌの人々は古い鎧をつけ武器を身に着けてそこに巡礼し、狩猟鳥獣の肉や果物を供えていた。
[編集] 蒙古の記述
日本の著述家は義経大陸渡海説の証拠として、韃靼の海岸に漂着し、1703年(元禄16年)に帰国した日本人が、北京の朝廷で義経の肖像をみたが、それはジンギスカンの肖像だと指摘された[要出典]と主張したことである。
蒙古史の出来事は義経の逃亡年(1189年)に起こっている。中国の史書には「1189年にケルレン川に沿った草原で貴族出身のテムジン(ジンギスカン)が「アルラト氏族」によって「可汗『カガン』」(ハーン)として承認された。そこで、彼は九つのフサのついた白い旗を掲げて、40万人のベーデ族の支配者となった。」と記している。
義経の年齢もほぼ30歳前後で一致しており、「トンデモ説」によれば、源氏の一員として白旗を掲げたはずだとされる。「ハーン[Khaan]=カーン」という称号さえ、義経が貴族出身として持っていた日本語の「かみ[=守]」から導きだされるという荒唐無稽な理由づけがなされる。しかし、これは内陸アジア史に関する無知に由来しており、従来、この称号の最古の用例は402年に、北アジアの遊牧国家である柔然の君主社崙が、丘豆伐可汗を称して君主の称号に採用したものとされてきたのであり、近年は3世紀ないし2世紀までさかのぼる可能性も指摘されており、その虚妄性は明らかである。
1247年(宝治元年)から1253年(建長五年)までにまとめられた中国の旅行記[6]によれば中国の朝廷に定着していた風俗習慣は日本のそれを思い起こさせる[要出典]もので、蒙古帝國が創建されて初めて中国内でそうした風俗習慣が知られるようになった[要出典]。
たとえば城壁の外装は(和国で幕という)紋章が描いてある事、朝廷や祝宴では白色が用いられること、さらに天幕に「シラ」という名称をつけること。 さらには日本独特の長弓と矢も用いられるようになり、中国で一般に使われていた短い弓や矢とは明らかに違い、和人は「長い弓の盗賊」と呼ばれるようになった[要出典]。
[編集] 検証
[編集] 義経伝説
義経伝説に関しては既に室町期から『義経記』があり、奥州で泰衡に敗れた後、北国に逃亡したとの説が流布し[7]、同時期の『御曹司島渡』[8]は蝦夷に義経が千島に渡ったとする冒険譚と結びつき、義経入夷伝説になった。蝦夷ではアイヌの間では人文神として登場するオキクルミカムイの話が義経伝説と結びつき、義経がアイヌに農業や漁業などの方法を教えたオキクルミカムイと同化し、崇められる存在に変わってしまったというのが現在の大方の見方である[要出典]。アイヌ言語学の金田一京助がアイヌたちに義経伝説について聞きにまわって伝承があるかどうか調べたが、義経については確認できなかった。
『大日本史』の内容と、それを引き写しただけのシーボルトの内容はほぼ合致する。
また、義経が農業や漁業を教えたというのは無理があり、神のように尊敬されたという口承文芸も事実に反する。ただし、和人には北海道に巻物を隠した洞穴とか義経、弁慶の足跡などが存在する場所もあり、伝承は存在する。弁慶崎は現在の後志支庁管内寿都郡寿都町にある弁慶岬のことで、ここで義経一行の逗留中に余興として弁慶が相撲をとったと伝えるが、和人が義経伝説に因んで読み換えたにすぎない。元文四年(1739)成立の坂倉次郎『北海随筆』(『日本庶民生活史料集成』第四巻所収、三一書房、1969年)にはこの「弁慶岬」から義経が「北高麗」に渡ったとする伝承が記されている。
『吾妻鏡』には泰衡が衣川館に数百騎の軍勢で押し寄せ義経は持仏堂にて妻子を殺害し、自決をしたと記されている。また五月二二日条では、義経の首を届けるという泰衡からの飛脚が鎌倉に届いたため、頼朝は朝廷に報告するため書状を送った。六月一三日条には泰衡の使者が義経の首を持参し、腰越浦で和田義盛と梶原景時が確認した。同様の記事が『日本』(雄松堂書店版、第一巻、二八七コウ注10)にある[要出典]。
宝永七年(1710)に蝦夷を訪れた幕府巡検使・松宮観山が蝦夷通詞からの聞書きをもとにした『蝦夷談筆記』には義経が蝦夷の大将の娘になじみ、秘蔵の巻物を取たるということ」をアイヌがユカラに歌謡している旨が記されている。『御曹司島渡』の義経が千島大王の極秘の大日法の巻物を、天女の力を借りて写し終えると白紙になった、という話の筋に沿ったものである。日高支庁管内沙流郡平取町本町には義経を祭神とする義経神社がある。この神社の創建は寛政一一年(1799年)幕吏・近藤重蔵が蝦夷地探検で訪れた際にこの地に義経伝説があることを知って建立した。同管内新冠郡新冠町に判官舘城跡と呼ばれる砦があるがシーボルトが案内された[要出典]のもこれだと思われる。おそらく和人が作り出したものであろう。
[編集] 蒙古
出島での案内役で友人である吉雄忠次郎はこの義経=ジンギスカン説の信奉者[要出典]であり、義経が蝦夷から韃靼に渡って元祖となったと話し、先のような話になってしまった[要出典]。漂流者が北京でみた義経の肖像はジンギスカンのそれであったという話は『蝦夷志』によるものであるが、同書は「ヌルハチ(清の始祖)」であり、これをジンギスカンとシーボルトが勘違いをしたか、典拠の『航海年鑑』の誤訳と思われる[要出典]。義経が韃靼にわたり、その子孫が清和源氏の一字をとって清国を起こしたなどとされる俗説が幕末では一般的[要出典]であった。シーボルト『Nippon』によればこの「中国の史書」の引用部分はイサーク・ヤコブ・シュミット(1779~1847)編の『東蒙古史』ベテルブルグ1829年巻1、七一項によっている。サナン・セチュン(1604~?)モンゴル王侯貴族の彼が記した『蒙古源流』をシュミットがドイツ語訳したものである。1189年はテムジンがタイチュウトを破ってモンゴル諸部族の長となり、ハンを称してチンギス・ハンと名乗った年であり、1206年には44歳で北アジアを統一し、可汗(カンガン<khangan>)を称した。
アラルト氏族とはチンギス・ハンを支えた名族のひとつ。ベーデ族は蒙古社会の巫者であるベゲが統治していたとされるところから、このベゲの部族だと思われる。40万はかなりの数であり、蒙古民族全体をさすであろう。「九つのフサのついた白い旗」は実体はよく分からず、一本の旗に九つの吹流しがついたものと考えられており、かつては古代中国で権力を誇った王の象徴とみなされている[要出典]。
文治元年(1185)8月16日に義経は頼朝の推挙によって伊予守に任命されている。しかし、その後後白河法皇の頼朝・義経離間策にのせられ、兄の認可をまたず左衛門少尉・検非違使となった。頼朝は、その任官を決して認めず、義経を罪人として捕縛しようとする際にも一貫して「伊予守」と呼んでいる。
幕府と天幕、さらには白い天幕を意味する「シラ<sira>」と「白い<siroi>」の対比である。「シラ<sira>」はモンゴル語で「黄色い」を意味しており[9]、「ハン=カミ(守)」同様、言葉遊びに近い。
[編集] 脚注
- ^ 元の樹立者はフビライである。
- ^ この義経=ジンギスカン説は『Nippon』のなかで述べられており、これもあとで述べれているマルテブリューンの訳からである
- ^ 『和年契』の記述と『蝦夷島におけるアイヌの民俗学的研究』『北海道歴観卑見』
- ^ 『読史余論』(岩波文庫1936年)
- ^ 「世伝義経不死於衣河館、遁至蝦夷」「然則義経偽死而遁去乎、至今夷人祟奉義経、祀而神之、蓋或有其故也」『大日本史』徳川光圀編纂。
- ^ ピエール・ペルジュロン(Pierre Bergeron: ? ~1637)が記した『12,13,14,15世紀のアジア旅行記』のことで、ローマ教皇インノセント四世とフランス国王ルイ九世の使節として派遣されたフランシスコ会修道士、ジョバンニ・ディ・ピアノ・カルピニ(Giovanni de Piano Carpini:1182頃~1252),ドミニコ会修道士、ニコラス・アスラン(Nicolas Ascelin: 生没年未詳)フランシスコ会修道士、ギョーム・ルプルク(Guillaume Rubruquis:1220頃~1293頃)によるモンゴル旅行記に基づいて執筆されたもの。
- ^ 高橋富雄『義経伝説』中公新書、1996年
- ^ 日本古典文学大系『御伽草子』所収、岩波書店1958年
- ^ 「シラ<sira>」はモンゴル語で「黄色い」を意味するが、ラテン語の原典では”白い”で間違いない。「長い弓の盗賊」<rauder mit="mit" den="den" lauren="lauren" bogen="bogen">は意味不明である。
[編集] 参考文献
- 小シーボルト蝦夷見聞記 原田信男 ハラルド・スパンシチ ヨーゼフ・クライナー

