シルヴィ・ヴァルタン

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シルヴィ・ヴァルタン
Sylvie Vartan
SylvieVartan1.jpg
基本情報
出生名

シルヴィ・ヴァルタン

(Силви Вартанян, Sylvie Vartan)
出生 1944年8月15日(67歳)
ブルガリアの旗 ブルガリア イスクレツ
出身地 フランスの旗 フランス
ジャンル フレンチ・ポップス
職業 歌手
担当楽器 ボーカル
公式サイト http://www.sylvie-vartan.com/

シルヴィ・ヴァルタンSylvie Vartan, 1944年8月15日 - )は、ブルガリアで誕生し8歳からフランス・パリ育ちのフレンチ・ポップスの歌手。

目次

[編集] 略歴

フランス音楽界に17歳で本格的デビューをし当初はアメリカン・ロックのフランス語カバーを歌いハスキー・ヴォイスと容姿やファッションで一躍若者のアイドルとなる。1970年以降はアメリカでダンスにも励みダイナミックなステージ活動をするエンターテイナー。本国フランスでは2000年以降も相変わらずコンスタントに新譜制作をしコンサート活動を繰り広げている。1960年代デビューのスター歌手の中で稀有な存在である。

  • 1944年8月15日 ブルガリアで誕生(父Georges Robert Vartan、母Ilona)
  • 1952年12月 8歳でフランス・パリへ家族で移住
  • 1961年 17歳の誕生日前の初夏にRCA音楽プロデューサーの兄エディに懇願され代役で初レコーディング、RCAと契約
  • 1963年1月「Tous mes copains(おセンチな17才)」大ヒット、初渡米し「Sylvie à Nashville」録音
  • 1964年 「La plus belle pour aller danser(アイドルを探せ)」大ヒット、オランピア劇場でビートルズと共演
  • 1965年 20歳でジョニー・アリディと結婚、5月世界コンサート・ツアーの一環で初来日し全国ツアー
  • 1968年4月 自動車事故に遭う、「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」「La Maritza(想い出のマリザッア)」大ヒット
  • 1969年 イタリアTV主演番組「Doppia Coppia」を持つ
  • 1970年2月 2度目の自動車事故に遭う、9月にコンサート・オランピア劇場公演、「悲しみの兵士 / Les hommes qui n'ont plus rien à perdre」日本で大ヒット
  • 1972年 アルバム「Sympathie(日本盤:哀しみのシンフォニー)」発売
  • 1975年 パレ・デ・コングレ初公演、「La drôle de fin / Last tango」大ヒット
  • 1976年 アルバム「Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ?」発売
  • 1979年 アルバム「I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)」全曲英語盤発売、「Nicolas(初恋のニコラ)」大ヒット
  • 1981年 パレ・デ・スポール初公演、「L'amour c'est comme une cigarette(愛はジダンの香り)」大ヒット
  • 1982年 ラス・ヴェガス公演
  • 1983年 パレ・デ・コングレ11週間ノンストップ・ロングラン公演、サルドーとのデュオ曲大ヒット
  • 1984年6月 アメリカ人プロデューサー、トニー・スコッティとロサンゼルスにて再婚
  • 1985年 アルバム「Made in USA」(日本盤:ダブル・エクスポジャー)全曲英語盤発売
  • 1989年 アルバム「Confidanses(日本盤:バルタン気質)」発売
  • 1990年10月ブルガリア・ソフィア初公演、フランスTVが収録しフランスでクリスマスに放映
  • 1991年 ブルガリア赤十字社の下、救済基金「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」設立
  • 1992年 アルバム「Vent d'ouest」発売
  • 1994年11月 主演映画「L'Ange Noir(黒衣の天使)」(邦題「甘い媚薬」)公開
  • 1995年 カジノ・ド・パリ劇場初公演(アコースティック・コンサート)
  • 1998年 フランスTV「Irrésistiblement Sylvie」高視聴率獲得、CD発売される
  • 2004年 アルバム「SYLVIE」発売、83年以来のパレ・デ・コングレ公演、自叙伝『Entre l'ombre et la lumière(影と光の間で)』が30万部のベストセラー、パリ・ガリエラ美術館が衣裳展「Sylvie Vartan, revue de mode」を3ヶ月間開催
  • 2010年11月 シャトレ劇場初公演(アコースティック・コンサート)、アルバム「Soleil Bleu(ブルーの太陽)」発売
  • 2011年 3月パリ・マリニー劇場にて演劇初出演「わたしがあのとき着ていた服」、秋にシャトレ劇場公演、11月サル・プレイエルにてステージ・キャリア50周年記念特別公演、フランス芸術文化最高勲章を授与される
  • 2012年 ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団を伴い世界コンサート・ツアー

[編集] 来歴

[編集] 8歳でフランス・パリへ移住

1944年8月15日 ブルガリアソフィア近郊のイスクレツ (Iskrets)[1]で誕生。1952年に家族でフランス・パリへ移住。ソフィアのフランス大使館プレス担当だったフランス国籍のブルガリア人の父親と、ハンガリー人の母親を持つ。母親は、ハンガリーブダペストで今も残る壮大な教会堂を手掛けた著名な建築家の娘で、父親が第一次世界大戦直後にブルガリア当局から首都ソフィア復興のために請願されて一家でソフィアに移住した。ソフィアでフランス系電気会社を指揮していたシルヴィの祖父と父親は共にフランス生れで、父親はソフィアのフランス語学校で教育を受けている。2人共フランス語に堪能でその文化に傾倒していたことからシルヴィはその影響下で幼少時代を過ごした。父親は多才で、ピアノを弾き作曲をし絵も描いたが、さらにプロの彫刻家でもあったことから、政府の要請[2]スターリンゲオルギ・ディミトロフ(第二次世界大戦後成立したブルガリア人民共和国の初代首相)一緒のブロンズ像を制作している。共産体制へ変ったブルガリアからフランスへ亡命するヴィザ申請に2-3年を掛けた後、1952年12月にヴィザがおりぬ祖父母を残し不穏な状況の中、両親と兄と家族4人でフランス・パリに亡命した。因みに、Sylvie Vartanの名について、アルメニア人の名字である「バルタニヤン」であるとして、現在でもアルメニア系だと認識がされている状況である。しかし本人は自伝でもインタヴューでもSylvie Vartanは本名(出生名)であると明言。また、2011年1月中旬マザリーヌ・パンジュフランソワ・ミッテランの娘)のインタヴューLeCafe(電子版)の中で終盤に渡された1枚の経歴書を眺めながらこの点を正している。

[編集] 1961年 / 初レコーディングとオランピア劇場

シルヴィは音楽一家に育ち、演劇学校進学とコメディ・フランセーズを夢見るようになった。7歳年上の実兄エディ・ヴァルタン(Eddie Vartan、2001年死去)はジャズ・トランペッターであり、ジャズ・バンドを持つ音楽家で、かつRCAの音楽プロデューサーでもあった。1961年春、エディが担当したデュエット・レコード制作で、録音途中に突然降板したイギリス人女優の代役に立ったのがシルヴィの歌手デビューとなった。曲目は前任者の高音の声質を真似てハミングしたコミカルな歌「Panne d'essence(ガス欠)」(Floyd RobinsonのOut of gas)であった。土壇場での交代劇だったために6月発売されたレコード・ジャケットには男性歌手フランキー・ジョルダン (Frankie Jordan) のみ写っている。ジョルダンも当時は歯科学生でロックに夢中なあまり趣味で歌いピアノを弾いていた。シルヴィはこの17歳の夏休みに、あるショーウィンドーで見つけた白が混じったターコイズ・ブルーの大きなプラスティク玉のコリエ(首飾り)[3]が欲しくてシャンゼリゼ通りの大型レコード店サンフォニアでアルバイトをする。「ガス欠」の好調な売行きを目の当りにし、自分の写真が載っていない本作を薦めたところ喜んで他のレコードと一緒に買って帰ったアメリカ人客がいたという。

偶然参加したシルヴィには滑稽極まりない作品に見えたこの歌は意外なヒットとなり同年12月にジルベール・ベコーのパリ・オランピア劇場公演第一部に相手役のジョルダンと招待されて初めて観客の前で歌う。この一寸の出演は伝説のオランピア劇場支配人ブルーノ・コカトリックス (Bruno Coquatrix) の目に止まり、数週間後のバンス・テイラー (Vince Taylor) 公演の第一部出演を依頼される。この公演にシルヴィは初めてステージ衣装を作って臨み「Quand le film est triste(Sad movie makes me cry、悲しきスクリーン)」等を歌う。1962年5月ベコーの国内ツアーに参加するが、娘の芸能界入りに特に猛反対だったシルヴィの母は巡演に出るには兄エディの付添いを条件とした。「悲しきスクリーン」 を録音した時の事を先の「ガス欠」のソングライターでもあるジョルジュ・アルベ (Georges Arber) は「シルヴィには既に彼女特有の歌い方があった。その時に私は彼女は成功すると分かった。とにかく彼女はその可能性を持っていた」[4]

音楽的嗜好は実兄エディの影響でジャズ・ロックンロール・R&Bなどアメリカ音楽に魅了されていき、エルヴィス・プレスリービル・ヘイリーリトル・リチャードレイ・チャールズブレンダ・リーを好んで聴く。舞台俳優を夢見ていた文学少女のリセエンヌはこうして奇妙にも歌手の道を辿る。1970年代に入るとフランスはシルヴィ・ヴァルタンをそのショウアップされたエネルギッシュなステージぶりから「show-woman américaine(アメリカ的Show-woman)」と形容するようになる。スタジオ活動よりライヴ・ステージ志向が強いのはこの当初の舞台俳優への志が源となっている。デビュー当時は常に作曲家でもある兄エディ率いるエディ・ヴァルタン・オーケストラが付き妹シルヴィを支えた。

[編集] 1960年代 / 初来日と世界ツアー World Tour

1963年「Tous mes copains(おセンチな17才)」が最初の大ヒットとなる。同年6月、伝説の音楽雑誌『サリュ・レ・コパン (Salut les copains)』の1周年記念で開催したパリ・ナシオン広場コンサートに15万人の若者が集まりシルヴィ達「若者のアイドル」に熱狂する。「サリュ・レ・コパン」は1959年にジャズ・写真・芸術の熱狂的ファンでアメリカの最新音楽に精通するダ二エル・フィリパキ(Daniel Filipacchi、アシェット・フィリパキ・メディア社長)とフランク・テノ(Frank Tenot、ジャズ評論家)がラジオEurope1で始めた伝説の人気ロック音楽番組「サリュ・レ・コパン」の成功によりその延長で出版まで及んだもの。シルヴィの兄でジャズ・トランペッターのエディ・ヴァルタンとこの二人を結びつけたのもジャズである。フィリパキは16歳年下のシルヴィをデビュー時に小さな妹のように可愛がった。シルヴィはこの1963年から1965年は頻繁にアメリカ・ニューヨークを訪れる。1963年9月、19歳を迎えて間もなくナッシュヴィルでの初録音(Sylvie A Nashville/日本盤:夢のアイドル)の際に先ずニューヨークへ行く。サリュ・レ・コパン誌は写真入りでこの模様を報道。翌1964年5月の訪問ではTime誌のインタヴューや他の雑誌撮影そしてCBSの人気番組ジョニー・カーソン「トゥナイト・ショウ」の歌の録画等の他にRCA側のディナー出席等で過密スケジュールであった。同年11月にまた3週間滞在し英語盤アルバム「Gift wrapped from Paris」(日本盤:パリからの贈り物)を録音。翌1965年3月中旬はNBCのポール・アンカの番組に出演し、また「トゥナイト・ショウ」に2度目の出演する。その直後にはカナダへ、モントリオール・オタワ・トロント公演へ旅立つ。

1964年、「La plus belle pour aller danser(アイドルを探せ)」等の大ヒットにより4回目のパリ・オランピア劇場公演が1964年1月16日から2月5日迄行われる。これはビートルズとアメリカのトリニ・ロペズ (Trini Lopez) との共演で、当時のビートルズはまだ無名のため観客を動員したのはトリニ・ロペズとシルヴィであった。同年フランス映画「Cherchez l'idole(アイドルを探せ)」に出演、主題歌となった「La plus belle pour aller danser」(邦題は映画タイトルと同じ「アイドルを探せ」、フランス語原題は「踊りに行くのに一番の美人」という意味)を歌い、ハスキー・ヴォイスと容貌でスターとなる。ジョルジュ・ガルヴァレンズ (Georges Garvarentz) とシャルル・アズナヴールの作品で、19歳を迎えたシルヴィが、アメリカ・ナッシュビルRCA本拠地でエルヴィス・プレスリーのミュージシャンやコーラスと直接同時録音したLP「Sylvie A Nashville(夢のアイドル)」収録曲。

この3作目となるアルバム「Sylvie A Nashville(夢のアイドル)」は、英語曲3作を含み、スウェーデン・トルコ・ペルー等も含めて世界的に広くリリースされる。フランスでは長期間に亘り大ヒットし商業的にも大成功となる。シングル・カットされた 「Si je chante」(恋のショック) そして日本でもトップとなった「La plus belle pour aller danser」(アイドルを探せ)は其々売上第一位にランクされる。本アルバムはシルヴィ本人にとり、その後のキャリアの上で重要な一作だという[5]。この19歳の初渡米でニューヨークでTV出演も行い、滞在中に見た「一つの文化であると同時に厳しいビジネスでもある尊重されたアーティストの存在」に衝撃を受けた。当時フランスは、アメリカン・ロックのカバー曲を歌うシルヴィ達ティーン世代の振興音楽を「Yéyé(イエ・イエ)」と揶揄し一まとめに括って中味も才能もない歌手のように捉え、アメリカとはメンタル的に雲泥の差があった時代。若く好奇心旺盛なシルヴィは仕事に対する考え方とやり方において高水準を求める気難しさや厳格さやインスピレーションなど多くを学んだ。

黄金の60年代の若者達の「Yéyé(アメリカン・ロック)」への過激な熱狂について、1980年末12月28日にTF1のインタヴュー番組「Nouveau rendez-vous」に独占出演したシルヴィ・ヴァルタンは、彼女のキャリアを映像で辿る中、友人でもあるフランソワーズ・アルディが途中ゲスト出演し2人は肯定的に答えている。シルヴィ「私達は冷静で本心から歌っていた」、フランソワーズ「その通り。アメリカやイギリスの影響を受けたりコピーしたりで真のオリジナリティーを欠いたかもしれないが、屈託ない私達はとにかくその音楽に夢中で17歳の年齢なりに直向きだった」

1965年4月12日、人気絶頂期の20歳で、21歳の若きフランス国民的ロッカーであるジョニー・アリディと結婚。翌1966年8月14日に一人息子で現在はシンガー・ソングライターのダヴィド・アリディ (David Hallyday) が誕生する。同年に全曲英語アルバム「Gift wrapped from Paris」アメリカ発売。挙式後の5月に世界ツアーの一環で初来日し羽田空港には大勢のファンが殺到した。シルヴィは回想録の中で、フランスから遠い極東の国での成功・空港で制服姿の学生達が小さな旗を振って大歓迎する光景を見て驚いたと記している。当時の日本はまだ観光で訪れる人があまりいなかった時代でまた遠かったこともあり、アンカレッジ経由の飛行機の中は殆どシルヴィ・ヴァルタン一行の貸切状態だった。羽田空港に到着直後には歓迎の横断幕「Bienvenue!! SYLVIE VARTAN」をバックにVictorレコード会社開催の記者会見に兄エディを伴って出席。エディ・ヴァルタン・オーケストラと共に約3週間の日本全国ツアーを行う。1995年発売「RCAスタジオ録音全集1961-1986」のブックレットに来日時の写真が1枚載っている、女子高生に取囲まれた人力車の上で彼女等が満面の笑みで一斉に差しだす紙に嬉しそうにサインしている。20歳のシルヴィは公演の合間にショッピングを楽しみ、青山辺りで買った麻の仕立ての良い女の子のワンピースを大変に気に入っていたようで約40年間も大事にキープしていた。というのも、フランスや日本の雑誌インタヴューの中で2004年頃に一人娘のダリナ(当時7歳)に初めて着せたと話している。この1965年世界ツアーのためエディはイギリスで気鋭のミュージシャン2人をスカウト。ドラマーのトミー・ブラウン (Tommy Brown) とギタリストのミッキー・ジョーンズで、彼等は1964年から1970年代半ば迄シルヴィに斬新な曲を多く作り主要ブレーンとなる。1960年代から1970年代シルヴィと共に世界ツアーをする。1968年「Face au soleil(太陽に向かって)」、1971年「Suzan」「Annabel」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」、1974年「Rock'n'roll man」等。シルヴィは同様のポップ路線を続けなかった理由について、「彼等イギリス人のような才能あるソングライターに以来出会った事がないからです」と話している[6]。ジョーンズは後にグループ「フォリナー」を結成した。

1968年4月に自動車事故に遭い左腕を骨折するが7月に「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」、「Baby Capone(ベイビー・カポネ)」が大ヒットし12月にアルバム「La Maritza(想い出のマリッザア)」(日本盤は「パリの妖精」)から「想い出のマリッザア」など新曲7曲を含めたプログラムで1週間のオランピア公演凱旋。年内及び翌1969年は2度の世界ツアーに出て、夏の60日長期ツアーではオランダを含め欧州から南米や北アフリカを巡る。「Ballade pour une fugue(愛のフーガ)」のビデオ・クリップをテレビ放映、11月にシングル「Abracadabra(アブラカダブラ)」発売。シルヴィの重要なブレーンの一人で「Irrésistiblement」や「La Maritza」など数々の大ヒット曲を提供したジャン・ルナール (Jean Renard) は「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」製作時シルヴィについてこう語る「Baby CaponeはYé-Yéの香りを残す論理的な続き、しかし進展が必要であったしシルヴィ自身もそれを感じていた。私はメロディーを変化・発展させるためもっと高音で歌えるかとシルヴィに訊くと彼女は頷きました。いわゆる裏声の楽節にその可能性があった。そこで私達は一緒に取り組み彼女は驚くべき達成をしたのです。」「1968年オランピア劇場公演で彼女は正真正銘のスターになった。シルヴィとは、優しく親切な振る舞い・礼儀正しさ・ダンス・動きの優美な女性らしい身体、そして、熟達していない時もあるのは確かだが彼女にはある明白な本物があった。スラブ人である真実や何か深いものがある。空々しいものではない、法螺で物事は動かない。それは、彼女を特異な存在にしている彼女独特のあのハスキー・ヴォイス。彼女は多彩な面を持つダイアモンドでした、彼女はそれを1968年オランピア劇場公演で表明したのです。」[7]

1968-1969年はイタリアでも「Irresistiblemente」や「Come un ragazzo(男の子のように)」が大ヒットし人気絶頂、テレビRAIで3ヶ月間の主演音楽番組「Doppia Coppia」を持った。70年1月にはイタリア語盤「Abracadabra」と「La Maritza」発売。「Buonasera buonacera」「Blam balam blam」「Nostalgia」等イタリア語のオリジナル作品も多数製作。

[編集] 1970年代 / オランピア劇場 L'OLYMPIA 70 〜 豪華絢爛スペクタクル

レパートリーはバラードからロックまで広くダイナミックなライブ・ステージが本領と言われる。契機となったのは、1970年ニューヨークでの「ポップ・ロックそしてとてもソウルなジャズ・ベースでもって ≪最新で≫ 革新的な動きについて並はずれたテクニックを持っていた」アバンギャルドな黒人ダンサー、ジョジョ・スミス (Jojo Smith) のダンス・スタジオ通い。この体験は2月の2度目の自動車事故の1週間後に残る傷痕の治療のため訪れた音楽の街で深く傷心のシルヴィの心身に新たな力を注ぐものとなる。6ヶ月程滞在。クラシック・バレエとは違ったスミスの新しい逞しい踊りに触発され、同年1970年9月予定されていたオランピア劇場公演を構想する。当時のフランスでは画期的となったモダン・ダンスを取り入れた本パリ公演、振付・演出はジョジョ・スミス。ゴスペル・R&B・ソウル・ポップが渾然一体となった若いヴォーカル・グループ、ボイズ・オブ・イースト・ハーレム (the Voices of East Harlem) の面々を連れスミス本人も出演した「SYLVIE A L'OLYMPIA 70」(同年10月発売)はキャリアのターニングポイントとなる。このブルーのライヴ・アルバムのジャケット写真にはシルヴィのバックで歌い踊るボイズ・オブ・イースト・ハーレムの姿がある。本公演のためフィリップ・ラブロ (Philippe Labro) と兄エディ・ヴァルタンは「La nuit(夜)」を製作。ギターと「Love or let me lonely」のバレエで幕開け、スミス一座とボイズオブ・イースト・ハーレムが登場する「Let the Sunshine In」「Love, Peace & Freedom」でフィナーレとなる。会場にはブリジット・バルドー、N・ドロン、バルバラフランソワーズ・アルディルイ・アラゴンらが姿を見せた。シルヴィは、ボイズ・オブ・イースト・ハーレムについてはニューヨークでスミスに連れられてハーレムアポロ・シアターで感動的なジャッキー・ウィルソンの公演を見た日と同様、街の通りで演じる彼等を初めて見た日を鮮明に覚えているという。

この2月の2度目の自動車事故からの復帰公演となりキャリアのターニングポイントと言われる記念碑的オランピア劇場公演は、同年12月に後年ファンの間で伝説となるポートレート・ドキュメンタリー番組「Sylvissima」(シルヴィシマ/スィルヴィスィマ)でTV放映される。当時のフランスで≪画期的≫と言われたモダンダンスを取り入れたロックな本スペクタクルに向けたニューヨークとパリでのリハーサル風景と公演模様の2部構成で「Bad moon rising」から「Let the sunshine in」等9曲の他にYSL衣裳合わせや出会い等。また公演後の楽屋でフィナーレのジーンズ姿のまま壁を背に座りこみブーツを脱ぎ棄ててステージの幕引きに対する不満を吐き出して塞ぎ込み両手で顔を覆って泣く姿など本公演に掛ける26歳を迎えたばかりの若きエンターテイナー・シルヴィ・ヴァルタンの横顔。フィルムは40年の歳月を経てステージ・キャリア50周年の2011年に奇跡的に見つかり復元されて同年11月のサル・プレイエル記念公演を前に初めてTV再放送されている。1970年オランピア劇場公演の後、監督フランソワ・レシャンバックの1972年ドキュメンタリー・フィルム「Mon amie Sylvie(モナミ・シルヴィ)」は1971年から1972年オランピア劇場公演迄カリフォルニアから南米を旅するアーティストの公私の姿を収録。YSLのラメのジャンプスーツで「Shaft」を踊った1972年の同劇場公演後は大ホールに場所を移し、1975年から1983年はパレ・デ・コングレ (Palais des Congrès) やパレ・デ・スポール (Palais des Sports) にて、ショウアップされた長期に亘るスペクタクルを興行。

1973年6月『サリュレコパン』誌のシルヴィの言葉「私はミュージック・ホールに恋している。私は一歌手だと思っていない、大ヒット曲が沢山ある歌手ではないしそれを望んでもいない。ヒット・パレードの思いのままになるような事には怯えるだろう。私はステージで一連の多彩な要素を見せたい。私の公演にやって来る観客は歌だけを期待してはいない、多面的なスペクタクルを心待ちにしている。」

1970年7月、ニューヨーク録音の「Aime-moi(愛の経験)」そして「Les Hommes(悲しみの兵士)」、「Abracadabra」など収録のアルバム「Aime-moi」発表。1971年12月に兄エディ・ヴァルタン、バンドのトミー・ブラウンやミッキー・ジョーンズ等の作品をロンドンの名スタジオOlympic Sound Studiosで録音したシルヴィ・ヴァルタンの代表作に挙げられている「Sympathie」(日本盤「哀しみのシンフォニー」)発表。「Suzan(スーザン)」「Annabel(アナベル)」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」「Riche(愛に生きる私)」「California(カリフォルニア)」「Parle-moi de ta vie(あなたのことを教えて)」「Comme un arbre arraché(はり倒された木のように)」など全11曲。日本では、12月末日にイタリアで録音され現地発売された「Caro Mozart(哀しみのシンフォニー)」(イタリア語)を追加収録し翌1972年発売。本作はモーツァルト交響曲第40番ト短調K550第一楽章アレグロをモチーフにPaolo Dossena, Francesco Valgrandeがポップ調にアレンジ製作したもの。1972年9月、亡き父親(1970年7月逝去)へのオマージュ「Mon père(モン・ペール)」を発表し秋のオランピア劇場公演で歌う。この72年公演はロサンゼルスにアパルトマンを借り一人息子ダヴィドや母親を呼び寄せてショウ準備に励む。振付・舞台演出のハワード・ジェフレー (Howard Jeffrey) とリハーサルを行う。ショウの主作品であるシルヴィお気に入りのアイザック・ヘイズの「SHAFT」に乗せて男性ダンサー達と踊る。新曲「Mon père」、「Medley (Rock n'Roll music – Never been to Spain – Proud Mary)」、クラシック・シャンソン「Ne me quitte pas(行かないで)」などプログラムは様々なスタイルだが、それはシルヴィの意図する構成だった。好きなものはどれも歌いたい。シルヴィの興味は特定の音楽カテゴリーより音楽全体。本オランピア公演プログラムも「其々が当時の自分自身の状態と好みに合ったものだ」と云う。1973年「Non je ne suis plus la même(愛のかたち)」大ヒット。

1975年秋、フランス国内サマー・ツアーの後に1ヶ月間のパレ・デ・コングレ・ド・パリ初公演に臨む。振付・舞台演出ウォルター・ペインター (Walter Painter)。大勢のダンサーを従えたこの公演は翌1976年2月と12月に追加がされた。オープニングとフィナーレは「Toute ma vie」(Osmond BrothersのLove meのカバー)。1976年に「L'amour c'est comme les bateaux(愛の小舟)」、「Qu'est–ce qui fait pleurer les blondes ?(そよ風のブロンド)」が大ヒット。1977年秋にまた同劇場に戻る。写真家ヘルムート・ニュートンによる公演ポスターとライヴ・アルバムのジャケット。パリの街頭の各所に約2m四方の公演ポスターが連なって貼られる。振付・演出クロード・トンプソン (Claude Thompson)。白の衣装で歌い踊る、エディ・ヴァルタン (Eddie Vartan) 作曲「Dancing star(ダンスィング・スター)」がフィナーレの1ヶ月に亘る本公演は翌1978年3月20日から4月2日まで2週間の追加となる。観客の中にはモナコ王室のプリンス・プリンセスの姿も。またパリに居合せたミック・ジャガーも来場し楽屋を訪問した。1978年「Disco queen」、1979年12月には「Nicolas(初恋のニコラ)」が大ヒットし年末の『Paris Match』誌の表紙を飾る。

[編集] 1980年代 / 豪華絢爛スペクタクル ロング・ラン 〜 私生活優先

翌1980年は特異な新曲「La chanson au brouillon」 で無邪気な子供達への眼差しを歌っている。私生活では一人息子ダヴィドが13歳である。年末から1981年3月ロサンゼルスに留まり2年前にサインしていた初冬からのパレ・デ・スポール・ド・パリ (Palais des Sports de Paris) 公演の準備に入る。3月下旬に来日し第10回東京音楽祭に審査員として出席。夏に「l'amour c'est comme une cigarette(愛はジダンの香り)」(Morning trainのフランス語カバー)がメガ・ヒットし、11月に長期間のパレ・デ・スポール初公演に臨む。振付・舞台演出Claude Thompson。ボブ・マッキー作シースルーの衣装で自ら演じたSYLVIEの文字がポスターとなった6週間スペクタクル、「Nicolas(初恋のニコラ)」のアンコール・シーン。会場にはタキシード姿のジョニーと息子ダヴィド、またカトリーヌ・ドヌーブジャック・ドゥミジョージ・チャキリスアンドレ・テシネロマン・ポランスキーナタリー・バイなど映画界からも多数訪れた。翌1982年1月初旬最終日を迎えるや直ぐに6週間のスイス・ベルギーを含む冬期ツアーに出発、8月に1ヶ月の国内サマー・ツアー、そして12月ラスヴェガスのMGMグランドホテルへと続く。1983年パレ・デ・コングレに戻りショウを開催。振付・舞台演出Claude Thompson。本公演は9月10日から11月20日まで11週間ノン・ストップというロング・ランで25万人を動員。休む間もなく11月28日から3週間の国内ツアーへ。翌1984年6月初旬に再婚後もロサンゼルスやアトランティック・シティで劇場公演をし夏にはフランス国内サマー・ツアー。

シルヴィは83年パレ・デ・コングレ・ロングラン公演の6-9週間後には同ホールはもう充分だという気持になる。86年アルバム「Virage」を最後にRCAから移籍するが同公演もRCA時代最後のパレ・デ・コングレ公演となる。2年毎のパリ公演のため前々から計画し全て騒々しいリズムで送る生活にうんざり気味になり始めていたシルヴィは、家族生活に優先を置き直しこれまでと違う静かな暮らしを望むようになる。この記録的パリ・ロングランと翌84年のサマー・ツアーを後にフランスでのステージ活動は7年間、1990年迄休止する。84年6月に再婚し又、一人息子ダヴィドが18歳になる大事な時期でもあった。主にアメリカ西海岸で生活するシルヴィをフランスの人々は「シルヴィ・ヴァルタンはアメリカに移住した」と思い込んだ。

1979年にアメリカ進出を狙ったアメリカ的ワイルドな出で立ちのジャケットが際立つ全曲英語アルバム「I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)」、1985年に「Made in USA」を発売。2作共、公式サイトのファン投票では其々の年代で「Sympathie」や「Confidances」と共に一番人気の、代表的アルバム。

1970年から1984年は大掛かりなスペクタクルで正にステージ活動、フランス全土と世界長期ツアーの黄金期であった。また音楽だけではなく、ボブ・マッキーからイヴ・サンローランクリスチャン・ディオールシャネル(ラガーフェルド)等、アメリカ・フランスのクチュリエによるオートクチュール衣裳など。2004年10月から翌2005年2月迄、ガリエラ美術館 (Musée Galliera) にて、「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」が開催された。« revue de mode »の « revue »は、雑誌とスペクタクル公演 « magazine et spectacle » の2つの意味を持ち、展覧会は両方を調和するものという[8]

1989年10月、数年のステージ・ブランクを経て、「Confidanses(バルタン気質)」発売、9曲中5曲をバーブリヴィエンが書いた。ドラマティックで強烈な「C'est fatal(セ・ファタル)」、リズミカルな「Ça va de soi(それは当然)」、ロマンティックな「Il pleut sur London(ロンドンに雨が降る)」「Comme un homme(待っていた人)」。又「Bordeaux - San Francisco(ボルドー〜サンフランシスコ)」など久しぶりの力作アルバムで本格的活動再開を思わせた。そのモノクロ・ジャケットに見る通り外見や装いも70年代半ばから83年迄のスペクタクル時代のゴージャスさや85年アルバム「Made in USA」発売時のアメリカ的ワイルドさからもすっかり抜け出し、全体的にカジュアルでシンプルな一面が顕著になる。長いストレート・ヘアーにナチュラル・メーク、ドレスにフラットな靴やジーンズにテニスシューズを履き、スポーティー・エレガンスが際立つ装いが見られた。

[編集] 1990年代 / ソフィア初公演・ステージ活動再開

1984年6月に再婚しその後ステージ活動を休止するが、1989年東欧の社会主義体制が崩壊した翌年1990年ブルガリア・ソフィア初公演を契機に活動を再開し数年毎にパリ公演・国内外ツアーを行う。

1990年にエティエンヌ・ダオーのアレンジで再録した「Quand tu es là(ゲーム・オブ・ラブ)」がヒット。10月6日にソフィア初公演、1989年10月の新譜「Confidanses(バルタン気質)」から「C'est fatal(セ・ファタル)」「Il pleut sur London(ロンドンに雨が降る)」などの新曲に加え「Mon Père(モン・ペール / 私の父)」、ジョン・レノンの「イマジン」、ブルガリア・フォルクロールも含めたプログラムで観客4000人の前で歌う。またフランス文化を愛した祖父が幼少のシルヴィへよく歌ったシャルル・トレネの「Le soleil a rendez-vous avec la lune(太陽と月)」をエピソードと共に披露[9]。同年12月フランスTVで放映され、またCDライヴ「Enregistrement public à Sofia」発売。翌1991年1月22日から、湾岸戦争が勃発しパリ市街も不穏な中、パレ・デ・スポール公演を3週間公演し久しぶりにファンの前に戻る。アメリカのジェリー・エヴァンス (Jerry Evans) の振り付けやリズミカルな曲目が光るポップ・ロック公演。オープニングの「Par amour, pour pitié(愛と同情と)」、「Dancing in the streets」、子供達が成長し嘗ての自分達のように飛び立って行くその心境を歌う未編集の新作 「Les enfans s'en vont(子供達は去って行く)」などを披露。前年1989年には一人息子ダヴィドが22歳で結婚し独立している。同年、兄エディとブルガリア赤十字社の下にブルガリア人道救済基金「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」を設立。翌1992年6月に2週間の日本ツアー、「Confidanses(バルタン気質)」収録の新曲に加えア・カペラでブルガリア・フォルクロール「Moya Goro」を歌った。

同年1992年12月には夏にロサンゼルス録音の新譜「Vent d'Ouest(英訳:Wind from West)」発表。Michel Compte撮影のダンサー風シルエットのシルヴィのセピア色写真が新しくブックレットも含めてストーリーを持った作品。1993年夏、ア・カペラのカバー曲「Tes tendres années(テンダー・イヤ―ズ)」のヒットにより、長年一緒に仕事をしたベテランのミュージシャンやコーラスとの同時録音アコースティック・アルバム「Sessions acoustiques」を一気に製作。本作を持って1995年1月にカジノ・ド・パリ (Casino de Paris) 初公演、収録曲に加えヌガロの「Le Cinéma」、フェレ「La vie d'artiste(アーティストの生涯)」、ブレル「La chanson des vieux amants(懐かしき恋人の唄)」などのクラシック・シャンソンや「Divertissement sur Cyrano(シラノのスケッチ)」、本公演限りのダイナミックな新曲「Je ne peux pas te quitter (comme ça)(こんな風に別れられない)」など新しいアコースティック・コンサート。翌1996年、ファン達には長年のトレード・マークの一つだったロングヘアーからショートヘアーの軽快なスタイルに変え、アメリカとフランス両大陸に住むシルヴィのライフ・スタイルを映した「Back to LA」「Je n'aime encore que toi(あなただけを)」収録のヒット・アルバム「Toutes les femmes ont un secret(全ての女性は秘密を持っている)」を持ってオランピア劇場公演。翌1997年7月に特別な新作CD「Sylvie Vartan chante pour les enfants(シルヴィ・ヴァルタン子供達に歌う)」を発売、フランスの伝統的な童謡やフォルクロールにシルヴィとエディが其々作曲した新作2曲を収録した絵本の様な装丁のアルバム。翌年シルヴィはブルガリアから女の子を養女に迎えることになるが子供に対する愛情に溢れる。1999年に娘ダリナへのオマージュ「Darina」や息子ダヴィドのロックな「Ma vérité」、兄エディの「Les robes」を含む「Sensible」を発表して再びオランピア劇場に戻る。この1999年公演「Tour de siècle」は第1部を殆ど1950年代の古き良きパリに捧げたクラシック・シャンソン・メドレーという特殊な構成をとった。後の2011年7月ニューヨーク初公演の際のインタヴューの中でシルヴィはこの様に語っている:「フランスの歌のレパートリーに傾いたり、母が聞いていた歌へ(1999年の)パリ・オランピア劇場公演でオマージュを捧げたいと思ったのは、やっと2000年になる寸前の事です。16歳の頃はジャズやロックに夢中でした。両親は典型的なフランスの歌(クラシック・シャンソン)を聞いていました、シャルル・アズナヴールやレオ・フェレやジベール・べコーです。私は遅くなってからこの素晴らしい歌の財産を発見しました。」(2011年6月14日付アメリカのフランス語紙Le Journal Français des Etats-Unis)

[編集] 2000年代 / スペクタクル 〜 リサイタル

2001年6月に重要なブレーンで最愛の兄エディ・ヴァルタンが亡くなりメディアから遠ざかるが、2004年春に近年にはない風貌の赤の新譜「SYLVIE」を発表[10]。全13曲の最後にもう一曲「Invisible(目にみえない)」が隠されていて、フィナーレのフレデリック・ボトン書き下ろし「Rupture(別れ)」後に一寸の空白を経て突如現れる。「La neige en été(夏に雪)」、「Je ne plaisante pas(冗談じゃない)」、「Give me a reason(理由を教えて)」、「Ouvre-moi le ciel(空を広げてみせて)」、「Rupture(別れ)」など主にイタリアのミュージシャン達(ショウにも出演)による作品を携えて秋に全盛期のパレ・デ・コングレにて9月28日から10月10日まで2週間スペクタクルで若きダンサーを引き連れて歌い踊り、本来のエレガンス・ダイナミズムを取り戻す。4月発売の初めての自叙伝『Entre l'ombre et la lumière』(影と光の間で)がエッセー部門1位にランクされベストセラーとなる。『ELLE』10月25日号の表紙に登場し、同時期にパリ市モード博物館にて3ヶ月間の衣裳展「Sylvie Vartan, revue de mode」がスタートする。

その後、約3年の沈黙を経て2007年春に新譜「Nouvelle Vague(ヌーヴェルヴァーグ)」で1960年代の欧米のスタンダード曲を録音。「Il est 5 heures, Paris s'éveille(午前5時、パリは目覚める)」からボブ・ディランの「風に吹かれて」(フランス語ヴァージョン)、ビートルズの「Drive my car」そして「スヴニール・スヴニール(Souvenir, souvenir)」、「Stand by me」(イタリア語 / 日本盤ボーナス)まで、シルヴィがパリに移住した日の少女時代を象徴するような歌からアメリカン・ロックに夢中のリセ時代・思春期に聞いた歌などが収録されている。シルヴィは2004年刊行の自伝本で「私は悲しみや幸せで死んでしまわないために歌う」と書いている通り、当時シルヴィは数年来母の病状が重くて寝たきりの状態で大変に苦しい時期にいた。オリジナル作品だと製作に時間を要するため他アーティストの曲を歌って一呼吸し生気を取り戻したシルヴィ本人の「救いのアルバム」。しかし7月初旬の発売日直前、6月下旬に最愛の母が逝く。本作を携え開催した翌2008年3月のパレ・デ・コングレ公演は、トニー・スコッティが初めて舞台演出をし、従来のダンサー達の出演はない。この年はアーティスティックな面で急転換の年となる。シルヴィは、観客により近く歌詞がより伝わるようなステージを好むようになる。

2009年9月、1963年ナッシュヴィル録音同様にミュージシャンと直接同時録音のアコースティック新譜「Toutes peines confondues(悲しみは全て混じって)」発売[11]と同時に、オランピア劇場でシルヴィ・ヴァルタンには新しいリサイタル形式のアコースティック・コンサートを開催。シルヴィ作曲を含む新作同様、母を亡くして間もないシルヴィが歌うシャンソン歌手バルバラの「Mon enfance(私の幼い頃)」が大変な話題となる。ジョニー・アリディが第2部に連日ゲスト出演。続く国内外ツアーでイスタンブルからソフィアまで巡演。バルバラの「Mon enfance(私の幼い頃)」について、「バルバラの生き方が好きだ。ショウ・ビジネスと距離を置いていた、そして自分の職業に対して大きな愛情を持っていた。『私の幼い頃』は私の同一体験だ。歌わずにいられない。私はその言葉に入り込むだけだ、目を閉じるとそこに自分自身を見る。私のテンポと感情のリズムで歌う」[12]  又、他誌のインタヴューの中で「レパートリーの中であなたを要約する歌はあるか?」の問いにこの歌を挙げて:「 最近まで注意を払ったことがなかった。この歌の意図・事柄やその言葉に心を打たれた、それは私自身のものだった。バルバラが “mures écrasée /押し潰された木イチゴの匂い ” を思い浮かべる時にそれは明らか。子供の頃、私達の家の庭に大きな木イチゴの木があった、大きな布を敷いて木イチゴをその上に落とした・・・」(パリ・マッチ2010年12月第3週号)

[編集] 2010年代 / 演劇、国内外リサイタル・ツアー

2010年3月1日オランピア劇場ライヴCD / DVD「SYLVIE LIVE」発売。続いて同劇場にて3日間の追加公演。アンコールではア・カペラ「Sounds of Silence」を披露する。12月初旬の本人待望のパリ・シャトレ劇場 (Théâtre du Chatelet) 初公演が決定する。初夏から新譜製作に入る。11月下旬に「SYLVIE LIVE」延長ツアーは再開するが、早くも11月29日に全12曲の新譜アルバム『Soleil Bleu(ソレイユ・ブルー / 青い太陽)』をリリース。シンガー・ソングライターケレン・アンとドリアン (Doriand) のプロデュース。ケレン・アンは作曲の他ミュージシャンやコーラスとしても参加。ジャケットの写真はモンディーノ (Jean-Baptiste Mondino) による。これに先立って9月21日国営France3は1時間40分のシルヴィ特集番組を放映、番組終盤に当初は朗読予定だったシャルル・ボードレール詩集『悪の華』の「L'albatros(アルバトロス、アホウドリ)」に曲を付けて歌い、『Soleil Bleu』のファースト・シングルCDの中に収録される。また、2年ぶりに来日し11月15日に在日フランス商工会議所の年次イヴェント・ガラGALA2010に招待されてアルバム・タイトルでもある新曲「Soleil Bleu(青い太陽)」(若きシンガー・ソングライターJulien Doreジュリアン・ドレとのデュオ)を初披露。2011年長期コンサート・ツアーへ向けて動き出す。

12月5日午後4時に幕を開けたシャトレ劇場は最新作初披露の場となった。プログラムは、アルバム『Soleil Bleu(青い太陽)』全12曲中11曲が「Mon enfance(私の幼い頃)」と共に核となり、「Sounds of Silence」を含むアンコール4曲を入れて全32曲。アンコール最終もオランピア劇場公演の「Chanteuse à 20ans(女歌手は20歳)」に代わって「Toute ma vie(私の生涯全て)」で、「...beaucoup de folie, beaucoup d'amour, c'est ça ma vie, ma vie à moi(沢山の狂気、沢山の愛、そうこれが私の生涯、私の私の生涯)」と歌いきる。第2部はオランピア公演よりリズミカルで動的な構成で、観客のスタンディングオベーション・拍手と足踏みの嵐に会場にいたアルバム参加者のシンガー・ソングライター、ジュリアン・ドレ (Julien Doré) やアルテュ―ル・アッシュもステージに上がる。

2011年はレコード・デビュー50周年を迎える。インタヴューされる毎に、従来、自分のキャリアを祝う事に無関心であると話す。2009年9月オランピア劇場公演以来アコースティック・リサイタル・ツアーを行い、2010年11月の凱旋により9月30日から10月2日迄再びパリ・シャトレ劇場公演を行う。「コンサート・ツアー2011」は先ず2月10日スペイン・バルセロナのカタルーニャ音楽堂公演から始まり、7月にモントリオールとニューヨークで、11月はイタリアで公演をする。本コンサート前、3月は一カ月間パリ8区のマリニー劇場 (Théâtre Marigny) で演劇出演がある。アメリカでロングラン上演された話題の作品で1月から6月まで上演される「L'amour, La mort, Les fringues (Love, Loss and What I Wore)」- 脚色・演出ダニエール・トンプソン、オリジナル脚本ノラ・エフロンとデリア・エフロン、原作アイリーン・ベッカーマン、翻訳本『あのときわたしが着ていた服』。女性5人が舞台に登場する朗読劇で5人の俳優は毎月交代で演じ総勢30人が出演する。

7月26、27日のニューヨーク初公演はブロードウェイのロウズ・リージェンシー・ホテル・ファインスタインズ(ボール・ルーム)で開催。11月にはステージ・キャリア50周年を迎えて、11月23日にファン待望の50周年記念コンサートをパリのクラシック音楽の殿堂、サル・プレイエル(Salle Pleyel)でソフィア・フィルハーモニー管弦楽団(Sofia Philharmonic Orchestra/指揮Deyan Pavlovパブロフ・デヤン)を伴って開催。2時間半を超える本特別公演にはフランスとブルガリア両国の文化大臣も姿を見せ2000人の観客を前に30数曲を歌った。プログラムは大ヒット曲「アイドルを探せ」(フランス語原題:La plus belle pour aller danser/踊りに行く一番の美人)でスタートし、デビュー直後の十代のヒット曲メドレーや「Mon père」(モン・ペール/私の父)「Je croyais」を含むスタンダード・ヒット曲やブルガリア音楽「Oblatche le bialo」「Moya Goro」、そして本コンサートのために制作された新曲2曲「On entre en scène」(ステージに上がる)と「Je viens vers vous」(あなた達のもとへ)等、第二部は白いタキシード姿で登場し「La Maritza」(想い出のマリヅァ)そしてフィナーレではジャック・ブレルの「Quand on n'a que l'amour」(愛しかない時)を歌いあげ、最後に「Ma vie c'est moi l'ai choisie」(フランス語・ヴァージョン「My way」)を朗読した。公演後、フルガリア文化大臣は同国勲章Saint Cyrille et Methode et Le Siecle d'orを授与、又レコード会社SonyRCAは此れまでレコード4億枚を売上げた実績に対して特別トロフィーを贈った。翌日付Le Mondeル・モンド紙は「Toujours la plus belle pour aller chanter」(相変わらず、歌いに行く一番の美人)の見出しで記事を掲載し「オーケストラは"シンフォ二ズム"はせず、当世風や流行に傾倒しない一つの行儀のいいバラエティーのアレンジに徹した。」「約40曲程を歌ったステージは記念公演という罠に掛からなかった。プレイエルで、シルヴィ・ヴァルタンはシンプルで心のこもった舞台魂だったといえる。」と結んだ。12月14日、フランス文化大臣フレデリック・ミッテランから同国芸術文化勲章-等級コマンドゥー(commandeur de l'ordre des arts et des letters)が授与され、その模様は高視聴率を誇る民放TF1のTVニュース13時が放映。「大臣は4億枚のレコード売上を達成したスター・アーティストが持つ≪そのユーモアとプロフェッショナリズム≫を語りまたサル・プレイエル公演での≪その気品、ポエジーや陽気≫に言及した。」「この≪本物のアメリカ的ロックンローラー≫は≪B.バルドーやC.ドヌーヴよりも多く≫メディアに写真撮影されたとの事。」(同日付Le Point紙) 12月16日にサル・プレイエル公演ライヴCD2枚組そして2012年2月にDVDが発売される。

2011年はまた、1991年に今は亡き実兄エディ・ヴァルタンと共に設立した故国ブルガリアへの慈善事業をする非政府団体 「Association Sylvie Vartan pour la Bulgarie」 が20周年を迎える。特に新生児医療に尽くして来て多くの要請があると言う。

2012年の夏からソフィア・フィルハーモニー管弦楽団と共にロンドン、プラハ、モスクワ等を巡る世界コンサート・ツアーの予定がある。

[編集] 日本での成功

日本の音楽シーンにおいては、特に1965年から1970年代に多くのヒット作を出した。代表曲に、「アイドルを探せ (La plus Belle pour Aller Danser du Film "Cherchez L'Idole")」、「悲しみの兵士 (Les hommes qui n'ont plus rien à perdre)」、「あなたのとりこ (Irrésistiblement)」、「哀しみのシンフォニー (Caro Mozart)」(イタリア語、モーツァルト交響曲第40番ト短調K550第一楽章アレグロがモチーフ)、「想い出のマリザァ (La Maritza)」、「愛の経験 (Aime-moi)」、「アブラカダブラ (Abracadabra)」、「愛のかたち (Non je ne suis plus la même)」、「ディスコ・クイーン (Disco queen)」等がある。「アイドルを探せ」は日本では中尾ミエhitomiなどがカバー。

1965年5月、20歳の時に世界ツアーの一環で初来日した際、日本語でRenownのテレビCMソング「レナウンワンサカ娘」を歌い、その容姿とフレンチ・アクセントで知られた。また、フランスで1968年7月発売されたヒット曲「あなたのとりこ (Irrésistiblement)」は1980年代後半からCanonカメラEOSのテレビCM等に頻繁に使用され始めた。1988年には新たに再録したCDシングルが発売されたが1968年にキャリアの新展開を狙って制作されたシルヴィの高音と裏声が印象的なオリジナル録音は2000年代も、映画『ウォーターボーイズ』の挿入歌やSuntory緑水、ANA新羽田ターミナル、KIRINリキュールのCMに使用され、2002年5月に一カ月間オリコンの上位にランクされるリバイバル・メガ・ヒットを果たす。

1970年代は頻繁に来日し北海道から沖縄まで長期の日本全国公演ツアーを行った。1971年の約一カ月のツアー中には日本語で数曲レコード録音、日本語オリジナル曲「恋人時代 (Koibito Jidai)」など見事な発音で歌い、CDジャケットには「親日家」と評されている。「想い出のマリッザァ」「私のすべて」の日本語ヴァージョンも録音している。1985年にコカ・コーラ・ライト (Coca-Cola Light) のCMに出演、同年発売の全曲英語アルバム「MADE IN USA (Double Exposure)」収録曲「ライトな関係 (Running scared)」が流れた。1992年6月には前年1月のパリ・パレ・デ・スポール公演を持って来日し2週間の日本全国ツアー、新譜「バルタン気質 (Confidanses)」から「セ・ファタル」「ロンドンに雨が降る」、また流暢な日本語で長々と挨拶し「この歌を勇気と希望を失わずに戦い続けているブルガリアの人々のために歌いたいと思います」と締めくくり、ア・カペラでブルガリア・フォルクロール「Moya Goro」を披露した。この歌はパリ公演の前年1990年10月(東欧の共産体制が崩壊した翌年)のソフィア初公演で初めて歌っている。

2000年に入って2005年と2008年にパリ・パレ・デ・コングレ公演を持って東京公演、新譜「SYLVIE(日本盤:SYLVIE 、永遠にあなたのとりこ~愛しのシルヴィ)」「Nouvelle Vague(ヌーヴェル・ヴァーグ)」を披露し渋谷Bunkamuraオーチャード・ホールは連日満員。新譜の他に2005年はステージで歌った事がない1965年20歳の初来日で録音し放映されたレナウンのCM 「レナウン・ワンサカ娘」 をシャネル(ラガーフェルド)の白いワンピース・ドレス姿で歌った。2008年には日本で1970年、1973年に大ヒットしたスタンダード曲、「悲しみの兵士」(Les Hommes qui n'ont plus rien à perdre) 、「哀しみのシンフォニー」(Caro Mozart)を約30年ぶりに披露した。また日本到着日や翌朝にTV出演するなど精力的に活動。其々コンサート・プログラムが発行され、2005年の在仏ジャーナリスト・木立玲子の寄稿はシルヴィ自叙伝(2004年刊行)にも触れている。2008年はフランス版プログラムの翻訳が一部載っていて47年のキャリア1961-2004年まで其々の年を振り返るシルヴィのコメントが記されている。2009年9月オランピア公演の東京再演は1995年カジノ・ド・パリ公演同様に実現しなかったが、2010年11月に2年ぶりに来日、在日フランス商工会議所の年次イヴェント・ガラ (GALA2010) に招待されてANAインターコンチネンタル・ホテルにて特別コンサートをする。フランス発売目前の最新ポップ・アルバム「Soleil Bleu(青い太陽)」から同名の新曲「Soleil Bleu」を作者の若きシンガー・ソングライターのジュリアン・ドレ (Julien Dore) とデュエット初披露した。これに対しジュリアン・ドレはシルヴィの日本語オリジナル曲「恋人時代」を歌ってオマージュを捧げた。2011年4月30日、パリ8区のクラシックコンサート・ホールのサル・ガヴォ (Salle Gaveau) で開催された東日本大地震被災者支援チャリティー・コンサート「Tous en scène pour Japon」に出演。日本人演奏家も多く出演する中、65年日本でも大ヒットした「La plus belle pour aller danser(アイドルを探せ)」、「La Maritza(想い出のマリッザァ)」そして最新アルバム「Soleil Bleu(ブルーの太陽)」から「Sous ordonnance des étoiles(星の処方箋)」の全3曲を歌った。

[編集] 来日公演・日本全国ツアー

  • 1965年5月8日から20日(初来日)
  • 1971年5月8日から26日
  • 1972年5月9日から29日
  • 1973年10月1日から15日
  • 1974年10月1日から23日
  • 1977年2月7日から28日
  • 1978年5月25日から6月17日
  • 1983年3月
  • 1984年4月23日から30日 (4月30日ホテル・メリディアン東京でティナー・ショー)
  • 1992年6月19日から7月2日
  • 1999年6月1日から6日(東京・六本木スイート・ベイジル - 毎夜2回公演)
  • 2005年3月28日から30日(3回公演、東京・渋谷Bunkamuraオーチャード・ホール)
  • 2008年3月26日から27日(3回公演、東京・渋谷Bunkamuraオーチャード・ホール)
  • 2010年11月15日(ANAインターコンチネンタル・ホテル、在日フランス商工会議所GALA2010にて特別コンサート)

[編集] 日本TV出演

公演やイヴェントのため2010年迄に20回近く来日している。初来日の1965年から1980年代前半迄は来日中に人気音楽番組にゲスト出演し歌った。

  • 1980年代後半にテレビ朝日の番組「料理バンザイ」がロサンゼルス宅を訪れて手製の「ムサカ」料理を紹介し素顔のシルヴィを放映。番組担当者を日本語で迎え入れた。
  • 1991年1月11日テレビ東京「音楽マイ・ラブ 〜 世界のトーク&ミュージック」(Music My Love) はパリ16区にあるシルヴィの自宅でのインタビューを放映。「あなたのとりこ」が流れシャンゼリゼ大通りそしてシルヴィの白い邸宅と映像で始まる。「Double Exposure (Made in USA)」から「If you walk away」と1989年アルバム「Confidanses(バルタン気質)」から「ロンドンに雨が降る」のビデオ・クリップが流れる。このインタヴューは前年1990年9月末に収録されたらしく、番組の中でシルヴィは「来週ブルガリア・ソフィアで初公演をします」と興奮気味に話している(因みにソフィア公演は10月6日開催)。また時代を超えて第一線でいるのは日々の努力かと聞かれ「この職業はサイクルが早いから努力していたら大変です。努力ではなくて、情熱です。」「アーティストは好きだからやっているのです」また、「アメリカのアーティストのプロ精神は尊敬しています」「各国のセンスィビリティを少しずつ吸収しているのかもしれません。そういう風にしてより完璧なアーティストになれるのだと思います。」
  • 2005年3月に「ザ・ワイド」のインタヴューに応じ、番組中に例の「バルタン星人」人形をプレセントされ笑顔ながら戸惑う。
  • 2008年3月6日、BS-iの音楽番組「Song To Soul」ー「永遠の一曲」で名曲「アイドルを探せ」(1963年19歳のアメリカ録音アルバム『Sylvie A Nashville(夢のアイドル)』収録曲)にまつわるエピソードを関係者等が語る。2008年3月末の来日公演を前に、2月パレ・デ・コングレ公演の真っただ中にパリで行われたシルヴィ・ヴァルタン本人とのインタビューと公演でこの一曲を歌う場面も放映。
  • 2008年3月26日には来日した翌朝8時30分にTBSみのもんたの朝ズバッ!」に生出演。普段はマリンのジャケットにテニス・シューズがお気に入りのシルヴィ、バスケット・シューズのプレゼントに思わず笑顔を見せた。「私は家庭好きで、乱雑・対立する色・過激なモード・先の尖った靴・へそ出しが嫌い。それどころか、私はバスケット&白い靴下!」2010年12月12日フランス・ラジオ
  • 2011年7月26日、ニューヨークのフジテレビ「トゥデイズEye」で7月26・27日のニューヨーク初公演のため現地入りしたシルヴィのインタヴューを放映。ホテルの部屋で行われ、4月パリで行われた東日本大震災被災者支援チャリティー・コンサート出演の際に購入したという胸に小さな日の丸そして白で希望と刺繍されたネービーブルーのポロにコンバースの真っ白なバスケット・シューズ姿で、普段の寛いだ表情で出演。

[編集] パリ公演 Concerts in Paris

  • 1960年代
    • 1964年1月16日から2月5日:オランピア劇場 - トリニ・ロペズ、ビートルズとの共演
    • 1967年3月15日から4月16日:オランピア劇場
    • 1968年12月3日から12月9日:オランピア劇場
  • 1970年代
    • 1970年9月17日から10月8日:オランピア劇場
    • 1972年9月14日から10月1日:オランピア劇場
    • 1975年10月4日から11月4日:パレ・デ・コングレ
    • 1976年2月20日から2月29日、12月12日(昼夜):パレ・デ・コングレ(追加公演)
    • 1977年10月7日から11月9日:パレ・デ・コングレ
    • 1978年3月20日から4月2日:パレ・デ・コングレ(追加公演)
  • 1980年代
    • 1981年11月23日から1982年1月3日:パレ・デ・スポール
    • 1983年9月10日から11月20日:パレ・デ・コングレ
  • 1990年代
    • 1991年1月22日から2月10日:パレ・デ・スポール
    • 1995年1月31日から2月19日:カジノ・ド・パリ劇場
    • 1996年10月15日から11月3日:オランピア劇場
    • 1999年10月26日から11月14日:オランピア劇場
  • 2000年代
    • 2004年9月28日から10月10日:パレ・デ・コングレ
    • 2008年2月5日から2月9日、4月12日:パレ・デ・コングレ
    • 2009年9月18日から9月20日:オランピア劇場(最終日:昼夜)
  • 2010年代
    • 2010年3月4日から3月6日:オランピア劇場(追加公演)
    • 2010年12月5日:シャトレ劇場
    • 2011年9月30日から10月2日:シャトレ劇場
    • 2011年11月23日:サル・プレイエルにてステージ・キャリア50周年記念特別コンサート「Sylvie Vartan & l'Orchestre Symphonique de Bulgarie - Celebration de ses 50ans sur scene」(シルヴィ・ヴァルタンとソフィア・フィルハーモニー管弦楽団)

[編集] フランスTV・シルヴィ・ヴァルタン特集番組 / 1990 - 現在

プライム・タイム放映の1時間から2時間半の企画番組。 1998年の「Irrésistiblement SYLVIE」 は高視聴率を獲得してCD化され日本でも発売された。

  • 1990.11: Sylvie en Bulgarie(F2報道番組Envoye Special / ブルガリア初帰国リポート)
  • 1994.11: Sylvie Sa Vie(Canal+ / ポートレート・インタヴュー番組)
  • 1998.10: Irréistiblement SYLVIE(F2 / 音楽番組)
  • 2000.3: Qu'est-ce qui fait rêver Sylvie ?(TF1 / 音楽番組)
  • 2005.4: Au rythme du cœur(F2 / 音楽番組)
  • 2005.9: Entre l'ombre et la lumière(F3(「影と光の間で)」2004年ベストセラー自叙伝と同タイトルのポートレート・インタヴュー番組)
  • 2010.9: Tout le monde l'appelle SYLVIE(皆は彼女をシルヴィと呼ぶ)(F3 / ミュージカル・フィルム)

[編集] 主演映画

  • 「L'Ange Noir(黒衣の天使)」1994年フランス公開(邦題「甘い媚薬」)
    同年11月、『ELLE』11月7日号、『Cahiers du Cinéma』11月号の表紙を飾る。

[編集] 私生活

[編集] 語学

フランス語の他、英語、イタリア語、スペイン語、ブルガリア語と5カ国語に堪能。日本語を勉強していた時期もあるという

[編集] 好きな事柄

[編集] 芸能一家のVartan家

エディ・ヴァルタン (Eddie Vartan)
7歳年上の実兄。音楽や美術に長ける父親譲りで、幼少にピアノを習い始め子供時代に既に学校でその音楽の才能を認められる。ソフィア・コンセルヴァトワール(音楽院)で学び、15歳でパリ移住後は楽器ホルンを入手、パリ国立高等音楽・舞踊学校で音楽の勉強を続けると同時にジャズ演奏に傾倒しトランペットに移行する。法学部に進むがジャズ好きが嵩じジャズ・トランペッターとなりバンドを持ち当初パリ・ブルーノート等で演奏をした音楽家。有名ラジオ番組担当ダニエル・フィリパッキ (Daniel Filippachi) などジャズ専門家達と親交があり、RCA音楽プロデューサーそして作曲家となる。シルヴィを歌の世界へ導き、また生涯重要なブレーンであった。1960年代は自身の楽団、エディ・ヴァルタン・オーケストラ (Eddie Vartan Orchestre) を率いてシルヴィのスタジオ録音や国内外公演を指揮し作曲家としても多くの曲を書いた。映画音楽も製作。1990年にブルガリアでの少年時代を書いた自伝小説「Il a neigé sur le mont Vitocha(ヴィトシャ山に雪降る)」[14]Editions Fixot刊。2001年6月19日パリにて64歳で逝去。シルヴィへの主要作品:「Les vacances se suivent」1962年、「Je voudrais être garçon」1965年、「Sur un fil」1967年、「La nuit」1970年 / オランピア劇場、「California」1971年、「Toi mon aventure」1974年、「Dancing star」1977年、「Jour après Jour」1975年、「Orient-express」1981年、「Aimer」1982年、「Lucie」1983年、「P'tit bateau」1997年、「Les robes」1998年
トニー・スコッティ (Tony Scotti)
現在の夫。シルヴィが歌手ジョニー・アリディと離婚した翌年1981年3月、招待された第10回東京音楽祭の席で出会ったイタリア系アメリカ人で映画・音楽プロデューサー。互いに運命的な一目惚れで恋に落ち3年後の1984年6月2日にロサンゼルスで再婚。シルヴィが云うには、トニーは思春期の一人息子ダヴィドに不可欠な父親として大きな存在であった。トニーもまた2回目の結婚となり彼は子供は無かったため「ダヴィドを育てる事はとても大きな喜びであった」と語っている。また彼の音楽界デビュー前後にも尽力した。シルヴィはパリに住居を持つが、以来家族の住むロサンゼルスを拠点に活動する。2人の間にはダリナ (Darina) という一人娘がいる。1998年に生後6カ月で養女に迎えたブルガリアの子供である。
ジョニー・アリディ(Johnny Hallyday)
最初の夫でフランスの国民的人気ロック・シンガー。1965年に21歳で20歳のシルヴィと結婚。翌1966年に一人息子のダヴィド (David) が誕生するがその直後には早や離婚を望むシルヴィに対しジョニーは自殺未遂を起こすなど若きスター・カップルの結婚生活は常に波乱万丈であった。15年後の1980年11月4日シルヴィの意思で離婚。「若過ぎた2人は全てをマスコミに曝される中、それでも17年を共にした。ジョニー・アリディは何時も家族同様。」とシルヴィは公言している。
ダヴィド・アリディ (David Hallyday)
ジョニー・アリディとの一人息子でアメリカ育ち。1966年8月14日ブローニュ=ビヤンクール生まれ。幼少からドラムに夢中でドラマーを夢見ていたが、1985年にシンガー・ソングライターとしてデビュー。フィルム・プロデューサーでもある。デビューした1985年4月に来日し日本発売シングル「Tonight you're mine」を披露。童顔だが骨太のハスキー・ヴォイスのロッカー。ドラムに魅せられたのは嘗てシルヴィ・ヴァルタンのブレーンでドラマーだったトミー・ブラウン (Tommy Brown) の影響だと話す。1987年ファースト・アルバム「True Cool」でDisque d'Or受賞、1989年シングル「High」がフランスで大ヒットし第1位を獲得。90年代に「ブラインド・フィッシュ」というグループも結成し数年間アメリカ巡演をする。1999年には彼の祖父(シルヴィの父)へのオマージュ、「Tu ne m'as pas laissé le temps」が約100万枚の大ヒットとなった。他アーティストにも曲を提供していて、同年、全曲を手掛けた父親ジョニー・アリディのアルバム曲は第1位にランクされてベスト・アルバム賞に輝いている。2010年3月発表でこれもDisque d'Or受賞のアルバム「Un nouveau monde」に新ヴァージョンでこの2曲収録。1989年に22歳で結婚し2人の娘(1995年誕生Ilona、1997年Emma)を持つが、2004年に再婚し同年一人息子Cameronが生れて私生活は3人の父親である。子供を愛するシルヴィはこの子供達と頻繁に一緒に過ごし時に大家族でヴァカンス移動する。ダヴィドは自分の子供時代の母シルヴィについて聞かれて: 「小さい頃、母は必要以上に自分をマスコミからかばった。冷静で平等で凄く公正な考え方をする人で弁護士にぴったりだ。母は厳しかったが優しかった。でも自分にだけではなく周りの誰に対しても本当に優しかった。」(2004年フランス雑誌) シルヴィにはパーソナルな歌も多い。ダヴィドへ捧げる歌:Ballade pour un sourire / 微笑みのバラード(1966録音) -「シルヴィ・バルタン恋を歌う / Il y a deux filles en moi」収録、「Le roi David(ダヴィデ王)」1969年録音、1971年日本盤「恋人時代」収録。
マイケル・ヴァルタン (Michael Vartan)
シルヴィの実兄エディ・ヴァルタンの長男、1968年ブローニュ=ビヤンクール生まれ。アメリカで活躍する俳優で、シルヴィの一人息子ダヴィド・アリディ (David Hallyday) と同様に1970年代初頭からアメリカ育ちである。

[編集] 書籍(フランスで出版)

  1. 1981年10月『Si Je Chante...(私が歌うのは…)』Filipacchi-Edition N°1
    自叙伝写真集、1980年11月にジョニー・アリディと離婚した翌年1981年3月ロス・アンゼルスにて脱稿。10万部のベストセラーとなる。間もなく、1981年3月末、シルヴィは日本で再婚相手となるトニー・スコッティに出会う。
  2. 1985年『Beauty Book』Editions N°1
    フィットネス本、運動・食事・化粧・身だしなみ・シャンプーの仕方まで、シルヴィの暮らしを公開しながら美の秘密を解く。写真入り実用書。1987年文庫本で再版される。
  3. 1996年『Sylvie Vartan』Editions Vade Retro
    自伝写真集、正方形の大型豪華本、表紙はピエール & ジル作
  4. 2004年『Sylvie Vartan entre l'ombre et la lumière(影と光の間で)』:XO Editions
    自叙伝、2004年エッセー部門第1位にランクされたベストセラーで30万部の売上。2005年2月文庫本発売。本作はシルヴィが敬愛する品位ある果敢な家族、祖父母と両親と兄へのオマージュである、そして2人の子供や孫達へ遺すものであり、また約40年間を共に歩んで来た世界中のファンと分かち合う「回想録」。1944年8月15日、聖母被昇天の祝日、両親の疎開先の隣町イスクレッツのクリニックでの誕生秘話からソフィアの文化的な祖父の家での幼少時代、パリへの亡命、20歳の結婚と歌手生活、1990年ソフィア初公演、1998年ブルガリアから養女を迎える迄の長い日々そして2001年兄エディを失った悲しみ迄を綴る。 「頑なに人生を信じる一人の女性である今の自分を形成したのは、幼少時の最初の数年を過ごしたソフィアの祖父の家での生活である。そこで私は自分が好きなもの・尊ぶもの全てを学んだ。」  また、偶然のレコード・デビュー直後、歌手になる事に失望を抱く両親をよそに、バンス・テイラーのパリ・オランピア劇場公演の第一部出演を依頼されて初めて白い舞台衣装を(自分のお金で)作って歌うが、「その大変に重要な出来事の前夜に」シルヴィは呟く「私は一人のリセエンヌでしかない、そして亡命、根絶、喪失によって深く心に刻印されたバルカン半島出身の一家族の中では最もフランス人に近い。最もフランス人に近い、そう、私はリヨン駅に着いた時にたった8才だったのだから。たぶんその事が他の皆と同じように屈託のない軽率な少女だという幻想を観客に与えるのかもしれない。現実は、私は心の内に両親の重大さを持っていて、非常に道徳的で厳格な教育のその賜物なのだ。私の両親は、己の勇気と他人の尊重から成るその道徳によって、フランスでゼロから私達の生活を築けたのだ。17才で、私はまだ母の教えや勧めが染み込んでいて、それらを問い直すつもりは全くない。」  後記に「幼少時に生じたアーティストへの願望とそれに対する或る膨大なエネルギーは一体何処から来るのか長く自問したが、それは不思議な非現実・際限の無い夢幻境への憧れだった。そう、私の意図は仮装して演じること、生涯」
  5. 2004年『SYLVIE VARTAN, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード)』:Paris Musées 2004 (Les musées de la ville de Paris)
    衣裳展カタログ、Musée Galliera 2004年10月16日から2005年2月27日ガリエラ美術館(パリ市モード博物館)開催。ヨーロッパ的な深紅の装丁がされた豪華本。シルヴィ本人や関係者のインタヴューや写真掲載。Marc Bohan (Dior) の証言を引用する。シルヴィと初めて出会った1967年頃(一人息子ダヴィドが誕生した頃)の思い出の一つから始まる。「シルヴィがディオールの店にやって来た、ディオールでもそれは子供服のBaby Diorの方で息子へ白いマントを買うためだった、少しシャイな感じで私に意見を求めた」ディオールとのコラボレーションが始まった頃である。展覧会は1960年代から1990年代までの約80点のオートクチュール衣装に2004年9月パレ・デ・コングレ公演の衣装デッサンも含め、「ステージ衣装」「プレタポルテ・シルヴィ・ヴァルタン」「おしゃれ着」「60年代 - 90年代」「カバー・ガールのシルヴィ」の構成で、1965年のウエディング・ドレスなどパーソナル衣装、雑誌の表紙、写真、ポスター、レコード・ジャケットまで展示する。激しいステージ活動から現存せず展示に至らないものもある。
  6. 2004年『Nos tendres années avec...SYLVIE VARTAN(シルヴィ・ヴァルタンと我らの青春)』:Editions des Etannets
    ファン編集エピソード写真集、世代の異なる15名の熱狂的追っかけファンが道中での偶然の出会いなども含めて其々綴った小さなエピソード・体験談。歓喜と落胆の涙ぐましいファンの心・感動と笑いの交流・女性シルヴィが見える。厚さ1.2cm/B5版。表紙は1968年YSLの有名な宝石が鏤められた白のミニ・ドレスで歌うシルヴィ。本作の全売上金はAssociation Sylvie Vartan pour la Bulgarie(後述)へ寄付される。
  7. 2007年『Sylvie Vartan dans la lumière(光の中のシルヴィ・ヴァルタン)』XO Editions (25x20x3.5cm)
    ステージ活動集大成写真集、1960年代から2007年迄のステージ活動の全データを写真と共に綴った重いカラフルな豪華本。トップ・ページに「DANS LA LUMIERE, A ma mère」(「光の中で」 - 母へ)と記している。シルヴィは同年6月に母を亡くしている。
  8. 2008年『Sylvie Vartan Jour après Jour』:Editions Didier Carpentier
    キャリア日誌とも呼べる自伝写真集、出生時間から2008年迄の全キャリアの事細かな記録をエピソードと綴ったブルー・グレイの写真集。最終頁は1991年パレ・デ・スポール公演アンコールの写真で、カジュアルな白のスーツにテニス・シューズのシルヴィ。雑誌インタヴューでのシルヴィの言葉が引用されている。「私は恵まれていて本当に沢山の愛を得た。人々とこれほど触れ合うメチエ(職業)はそうない。それは腹の底から交流する身体的なものだ。その消えることのない熱で私は一杯だ。」「私は悲しみや幸せで死んでしまわないために歌う。塞ぎ込まないためにステージヘ・観客の熱意へと向かう。それはスラヴ精神なのかもしれない。私は中途半端な人間ではない。ステージに上がる度に深淵の縁に立っているような感覚がある。」
  9. 2011年10月『Irrésistiblement Sylvie Vartan』:Editions Ipanema
    写真集、著者は1996年の豪華写真集同様Camilio Daccache。こちらもシルヴィ・ヴァルタンが自身のコレクションから初めて公開する写真等の資料も掲載する。2011年11月にステージ・キャリア50周年を迎えるシルヴィ・ヴァルタン、相変わらずコンスタントに新譜制作をし国内外でステージ活動を続ける姿を私生活・舞台裏・ステージから捉える。

[編集] エピソード

[編集] バルタン星人

ウルトラマンに登場する最大の敵で人気キャラクターでもあるバルタン星人[15]の名称の由来は、1965年初来日で当時の人気歌手シルヴィ・ヴァルタンの姓に由来する、と言う説があるが、これは当時円谷プロで企画室長を務めていた金城哲夫の勘違いから発生した間違いであるとのこと。

[編集] シルヴィ・ヴァルタンの「ワンサカ娘」(1965年制作TVCM)

1965年5月、シルヴィ・ヴァルタンが20歳の時の初来日の機会に制作された婦人服製造卸・レナウンのTVCMで、CMソングとしてヒットした。「ドライブウエイ、プールサイド、テニスコート、ロープウエイ」などの英語の歌詞で、「イエイエ」が連呼されたこの歌は1961年に作曲家の小林亜星が作った。シルヴィの他に複数の日本人歌手が歌い、「1965年から1966年がシルヴィ・ヴァルタンだった」。「6年間も歌い継がれ、この頃が絶頂だった」。(「朝日新聞2005年8月27日(土)」)

[編集] モード・シルヴィ・ヴァルタン

1965年から1970年まで「Création Sylvie Vartan」と称してコレクションを発表。『ELLE』誌の表紙を飾り毎回紹介される。ヴィクトル・ユーゴ通り (Avenue Victor-Hugo) にパリ第1号ブティックを開き、フランスに他3店舗とベルギーにも出店。自身のコレクションに加え、シルヴィは特に1960年1970年代、長い手足・華奢なシルエットが注目され、『ELLE』や『Vogue』誌上において、YSLなどクチュリエ製作のジャンプ・スーツからミニやドレスまで、様々なファッションに身を包み、ヘルムート・ニュートンなどの撮影に応じた。また1996年オランピア劇場公演ライヴCDジャケットの撮影はピーター・リンドバーグによる。2004年秋から、ガリエラ美術館にて「シルヴィ・ヴァルタンとモード」展が数カ月開催される。そうした経歴から、現在もインタビューの度にモードについて質問を受けるが、「もちろん関心はあるが、私はファッションの奴隷ではない。いつも自分の好きなものを身につける」と答えている。

[編集] ダンス・スタジオ / Sylvie Vartan Dance Studio

1980年代にフランスでダンス・スクールを開いていた。1984年4月、東京銀座に百貨店プランタンが進出した際に、最上階に同名のダンス・スタジオをオープン。フランスのスタジオ閉鎖と共に東京校も閉鎖。シルヴィ・ヴァルタンは1970年からアメリカにも暮らし始めるが、以来2004年迄のショウ振り付け師は全てアメリカ人を起用した。1970年代は振り付け師と共にラスベガスなどで殆どのショウを見たという。

[編集] 映画

1950年5歳の時、フランス移住前、ブルガリアで父親の友人である映画監督の映画に出演。出演時間は短いものの、この経験は幼心に大変に大きく、シルヴィは俳優を夢見るようになる。しかし前述の通り、偶然の歌手デビューを果たし若者のアイドルとなり、1970年以降大スターとなる。自身の夢が叶ったという最新の主演映画、1994年ジャン=クロード・ブリソー (Jean-Claude Brisseau) 監督「L'Ange Noir(黒衣の天使)」(邦題「甘い媚薬」)は賛否両論の物議を醸した。1995年1月カジノ・ド・パリ公演後の1995年6月、横浜フランス映画祭のフランス代表団長を務めて来日。本作制作中にブリソー監督がフランスのTVや雑誌インタヴューで明かしたのは、「シェルブールの雨傘」1964年、「気狂いピエロ」1965年、「城の生活」(La Vie de Château) 1966年の台本は当初シルヴィに届いていたが、歌手として大成功していたシルヴィの周辺のガードが堅く結局本人には届かずじまいだったという。ゴダールが当時シルヴィ・ヴァルタンに興味を示していた事は明らかで、「恋人のいる時間」1964年で彼女のデビュー曲「Quand le film est triste(悲しきスクリーン)」が流れ、「男性・女性」1966年では彼女のポスターが貼られているのが見える。シルヴィ自身は映画への興味は尽きない半面、良い作品に出合わず映画出演は少ない。「映画は好きだが何でも演じはしない」と話す。

[編集] トニー・スコッティ

シルヴィが自分の分身といい両手を広げて信頼する夫。1981年3月に第10回東京音楽祭の席で出会い3年後の1984年6月にロサンゼルスで再婚。2人は東京音楽祭の審査員として常連で、トニーは前年1980年から1986年まで審査員を務め、シルヴィは1981年と1983年から1986年まで審査員やプレゼンターとして招待されている。トニーはアメリカ東海岸ニュー・ジャージー州出身。大学卒業後、西海岸ロサンゼルスに移り俳優・歌手としてスタートするが、間もなく兄弟3人で会社設立、音楽・映画プロデューサーとして成功している。シルヴィはTVや雑誌インタヴューでトニー・スコッティについて訊かれる毎に笑顔でこう表現する「トニーのような男性に出会うのは難しい、彼は突然私の目の前に現れ大きな扉から入ってきた『un oiseau rare(珍鳥)』、私はもう戸に鍵を閉めてしまいました!」

[編集] ジャン・リュック・アズレ

1965年、医学生だったジャン・リュック・アズレ (Jean-Luc Azoulay) はシルヴィの熱狂的ファンとなりファン・クラブを作って初代代表となる。1968年にシルヴィの秘書兼マネジャーのカルロスがシルヴィと一緒に歌い始めてタレントになると大学を中途退学してその役目を引き継ぐ。シルヴィのアメリカ暮らしが益々頻繁になる1976年迄シルヴィに従って日本を含め世界中を巡演した。後にプロダクションを設立、現在はフランス最大オーディオ・ヴィジュアル企業の一つで多数の関連会社を持つ。2004年に初めてシルヴィ・ヴァルタンのショウをプロデュースし2005年の日本公演にも同行、以来シルヴィのプロデュ-スを続けている。アズレは、シルヴィの下でショウ・ビジネスについて学んだと話している。

[編集] 自動車事故

  • 1968年4月11日(23歳)、デビュー時からの一番の親友が同乗していたシルヴィ運転の車に、学生が運転する車が暴走して突如激突。助手席の女性は亡くなり、シルヴィは左腕を骨折しあごにも怪我を負う。この女性は学生時代ジャーナリストとしてシルヴィにインタビューした際に意気投合。モードに興味を持つ若くて無邪気な2人の映像や写真は多く、シルヴィのコレクションのため一緒にデッサンしたり同じ洋服を着たり姉妹のようだった。「シルヴィは自責の念ですっかり心を閉ざした」[16]
  • 1970年2月20日(25歳)の2度目の事故は、当時の夫ジョニー・アリディが凍った夜道を運転中、横道にそれて大破、助手席にシルヴィと後方にミュージシャンが同乗していた。シルヴィはフロント・ガラスで顔面を負傷し一週間後ニューヨークの形成外科の名医から顔に残る傷痕の手当てを受けた。自身のスペイン・ツアー出発前の時間を割いて国内巡演中のジョニーに会いに行った際の不運。『Jours de France』1970年3月19日号の表紙は事故前のポートレート写真である。ストレートの長く豊かな髪、短い前髪、ダーク・ブラウンか黒のニット、首元にシルクのスカーフを巻きBCBGの若い女性の記念写真風だ。傷痕は完璧には消えなかった。

2009年10月フランス雑誌のインタヴューと後のFrance2のテレビ番組インタビューの中でシルヴィは、2度の交通事故(身心の大試練)を乗り越えられたのは「一人息子のダヴィドが居たから」、また「若さという力」と答えている。

[編集] 「私は流浪の人」(Je suis nomade.)

「私はいつも同じように生きている。それは私のカールマ(運命)の一部。何処かに長く滞在した事がない。旅をせずにいるのは不安。不動は死と同義。私にはこの物凄いリズムが必要、でも又その一方で大きな平和や、やりたい事をする機会を求めている。ロサンゼルスに居る時は確かに平穏だがパリやフランスが直ぐ恋しくなる! 実際に、フランスは私の国、ブルガリアは郷愁(両親)の国、そしてアメリカは夢の国(愛する人の国)・・・」(仏紙L'union 2010年12月12付)    「私は同じ場所に住みついたり同じ事に留まった事がない・・・・、公演プログラムは毎回少し違う、もちろん観客の期待に応えてスタンダード曲は歌うが何時も前のどれかを諦めて新たに別の曲を歌っている。私にとり一番大切な事は新しい感情を見つける事。ルーティーンにならない事。私は小さい頃からアーティストとはルーティーンから抜け出して別の新しい人生を生きる事だと思っていた。」(2011年9月15日フランス・ラジオEurope1に生出演/9月末からのパリ・シャトレ劇場公演を控えたインタビュー)

[編集] ブルガリア救済基金

8歳で離れた故国ブルガリア・ソフィアを、1990年10月東欧の共産体制が崩壊した翌年に亡命後初めて訪れ、コンサートを開催。この模様はフランス国営テレビ局France2が同行し収録、報道番組「Envoyé Spécial」で放映。本コンサートは同年クリスマス夜に放映された。1991年CD「Live Enregistrement Public à SOFIA」も発売された。シルヴィ・ヴァルタンは、約40年ぶりの帰国で見た故国の貧しさに心を動かされて、翌1991年に実兄エディと共に、ブルガリア赤十字社の元に人道救済非政府団体 「Association Sylvie Vartan pour la Bulgarie」(シルヴィ・ヴァルタン・プール・ブルガリィ)を設立。若い頃から大変な子供好きで有名だったシルヴィは、恵まれない子供達や老人救済を中心に、病院や孤児院に新生児医療機器などの物資・設備を提供する。ロジスティックスはブルガリア赤十字社が担当。規模が小さい団体だがシルヴィは個人的にも多大に尽力して地道な活動を続ける。クリスマスには子供達に贈物を届ける。事務局長は「シルヴィは孤児院を訪れる度にその子供達皆を自分の養子にしたいと思っている」と微笑む。又2010年からパリ・トロカデロ広場(Jardin du Trocadero)のクリスマス市に参加してシャレーでアソシエーションが毎年アーティストに依頼し制作する特製カード等を販売。毎年パリのブルガリア大使館にて定例会を開催し自ら出席する。ブルガリア現地を定期的に訪れて現状を確認するなど、ブルガリアでは社会的活動でも知られている。2004年にブルガリア最高勲章を受勲。2011年は設立20周年を迎える。特に新生児医療に力を入れて活動し多くの要請に応じている。

[編集] ディスコグラフィー(フランス / 日本)

[編集] DVD / 公演ライヴ

  1. 2000: SYLVIE VARTAN Tour de Siècle(1999年オランピア劇場公演)
  2. 2004: SYLVIE VARTAN Palais des Congres 2004(2004年パレ・デ・コングレ公演))- 日本盤「コンサート・イン・パリ」
  3. 2008: SYLVIE VARTAN Casino de Paris 95(1995年カジノ・ド・パリ公演 / 当時はビデオ発売)
  4. 2008: SYLVIE VARTAN Palais des Congres 2008(2008年パレ・デ・コングレ公演)
  5. 2010: SYLVIE Live(2009年9月オランピア劇場公演)
  6. 2011.11.12: SYLVIE VARTAN, Les années RCA 1961-1983(2枚組 - ニュース等のドキュメント含む)
  7. 2012.2.27: SYLVIE VARTAN Live a La Salle Pleyel: The 50th Anniversary Concert (2011年11月23日パリ・クラシック・コンサートの殿堂サル・プレイエル公演 - ステージ・キャリア50周年記念特別コンサート)

[編集] 全集 / CD BOX SET

  1. 1995.10: Les années RCA - Intégrale studio 1961-1986 (RCA時代スタジオ録音盤CD21枚組 / 500曲 - 未編集曲含む。Vols. 1 - 10, フランス語、イタリア語、スペイン語、英語、ドイツ語、日本語。キャリアとシルヴィへのインタヴュー掲載のブックレット付)
  2. 2004: L'Intégral Live RCA - Coffret 7CD 1970-1983(RCA時代ライヴ全集CD7枚組パリ公演:1970 Olympia / 1972 Olympia / 1975 Palais des Congrès / 1977 Palais des Congrès / 1981 Plais des Sports / 1982 Las Vegas / 1983 Palais des Congrès / 95ページ・ブックレット-シルヴィへのインタヴュー )
  3. 2010.11.8: Les années RCA Vol. 1 - 5CD 1963-1966(RCA時代の初期オリジナル復刻版CD5枚組 / bonus付き約120曲: 1963 SYLVIE / 1963 Twiste et Chante / 1964 Sylvie à Nashville / 1965 A Gift wrapped from Paris / 1966 Il y a deux filles en moi)
  4. 2011.9.26: 4CD Originaux (オリジナルCD 4枚組: Confidances(1989)(日本盤:バルタン気質), Session acoustiques (1994)(バルタン・セッションアコースティック), Toutes les femmes ont un secret (1996)(全ての女性は秘密を持っている), Sensible (1998)
  5. 2012.4: Les années RCA - Coffret 5CD rééditions (RCA時代70年代オリジナル・アルバムとスペイン語アルバム復刻版CD5枚組: Ta Sorcière Bien aimée / Sympathie(日本盤:哀しみのシンフォニー) / Je Chante Pour Swanee (スワニーのために)/ Sylvie A l'Olympia 1970 (1970年オランピア劇場公演Live) / Canta En Espagnol)

[編集] シングル

  1. 1962: 悲しきスクリーン (Quand le film est triste)
  2. 1962: おセンチな17才 (Est-ce que tu le sais ?, Le locomotion, Tous mes copains)
  3. 1963: 悲しき雨音 (En écoutant la pluie)
  4. 1963: いつでもあなたを (I'm watching you)
  5. 1964: おセンチな17才 (Tous mes copains)(大ヒット曲)
  6. 1964: 恋の涙 (Ne t'en vas pas)
  7. 1964: アイドルを探せ (La plus belle pour aller danser)(大ヒット曲)
  8. 1965: 私を愛して (Car tu t'en vas)
  9. 1965: ジョニーはどこに (Il n'a rien retrouvé)
  10. 1965: ラ・ヴィ・サン・トワ (La vie sans toi)
  11. 1965: 恋のとりこ (I made my choice)
  12. 1966: 恋の瞳 (Je le vois)
  13. 1966: 恋のプロフィール (Il y a deux filles en moi)
  14. 1967: 微笑みのバラード (Ballade pour sourire)
  15. 1967: 2分35秒のしあわせ (2 minutes 35 de bonheur)(大ヒット曲)
  16. 1967: Un peu de tendresse
  17. 1968: 男の子のように (Comme un garçon)(大ヒット曲 / フランス・イタリア)
  18. 1968: ベイビー・カポネ (Baby Capone)
  19. 1968: Irrésistiblement(大ヒット曲 / フランス・イタリア)
  20. 1968: Par amour par pitié(愛と同情と)
  21. 1968: 想い出のマリザァ (La Maritza)
  22. 1969: ダヴィデ王 (Le Roi David)
  23. 1970: 愛のフーガ (Ballade pour une fugue)
  24. 1970.7.5: 悲しみの兵士 (Les hommes qui n'ont plus rien à perdre)(大ヒット曲)
  25. 1970.11.5: あなたのとりこ (Irrésistiblement)(大ヒット曲)
  26. 1970: J'ai deux mains,j'ai deux pieds,une bouche et un nez(わたしのすべて)
  27. 1970: Aime-moi(愛の経験)(大ヒット曲)
  28. 1970: アブラカダブラ (Abracadabra)
  29. 1972.3.25: 哀しみのシンフォニー (Caro Mozart)
  30. 1971: 狼 (Loup)
  31. 1971: Je t'appele
  32. 1972: Mon père(モン・ペール)
  33. 1972: 愛に生きる私 (Riche)
  34. 1972: Parle-moi de ta vie(あなたのことを教えて)
  35. 1972: ディリンダム (Dillindam)
  36. 1972: Toi le garçon(いとしき若者)
  37. 1973: L'Amour au diapason(恋人を探せ)
  38. 1973: C'était la belle vie(悲しきジプシー)
  39. 1973: Non je ne suis plus la même(愛のかたち)(大ヒット曲)
  40. 1973: La vie c'est du cinéma(愛のシネマ)
  41. 1973: J'ai un problème(危険な関係)(ジョニー・アリディとのデュオ)(大ヒット曲)
  42. 1974: Bye bye Leroy Brown
  43. 1975: La drôle de fin(大ヒット曲)
  44. 1975: 哀しみのアバンチュール
  45. 1976: Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ?(そよ風のブロンド)(大ヒット曲)
  46. 1976: L'amour c'est comme les bateaux(愛の小舟)(大ヒット曲)
  47. 1977: Petit Rainbow
  48. 1978: Fantaisie
  49. 1978: ディスコ・クイーン (Disco queen)
  50. 1978: Je chante encore l'amour
  51. 1979: I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)
  52. 1979: 初恋のニコラ (NICOLAS)(大ヒット曲)
  53. 1980: ようこそソリチュード (Bienvenue solitude)
  54. 1982: Encore
  55. 1983: Danse ta vie
  56. 1983: UCLA
  57. 1983: 悪女(中島みゆき悪女」のフランス語カバー)
  58. 1985: ライトな関係(Coca-cola lightのTVCM使用曲 / 全曲英語アルバムDouble Exposure収録曲)
  59. 1987: Femme sous influence
  60. 1989: C'est fatal(セ・ファタル)
  61. 1990: Quand tu es là(セルフカバー再録)
  62. 1992: Qui tu es
  63. 1993: Tes tendres années(テンダー・イヤー)
  64. 1995: Quelqu'un qui m'ressemble
  65. 1996: Je n'aime encore que toi(あなただけを)
  66. 2004: Ce n'est pas rien(大変なこと)
  67. 2009: 私はブルースを歌う (Je chante le blues)
  68. 2010: Je me détacherai(私は断ち切るつもり)

[編集] 全曲英語アルバム

  1. 1965: パリからの贈り物 (Gift wrapped from Paris)
  2. 1979: I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)
  3. 1985: Made in USA (Double Exposure)

[編集] アルバム

  1. 1963: シルヴィ・プルミエ (SYLVIE)
  2. 1963: Twiste et chante(ドゥジェーム - 2nd)
  3. 1964: Sylvie à Nashville(夢のアイドル)
  4. 1965: パリからの贈り物 (A Gift Wrapped from Paris)
  5. 1966: 恋のプロフィール (Il y a deus filles en moi)
  6. 1966: パリより愛をこめて (2 minutes 35 de bonheur)
  7. 1968: Comme un garçon(シャンソン・イエイエの女王)
  8. 1968: パリの妖精 (La Maritza)
  9. 1970: Aime-moi(愛の経験)
  10. 1970: Sylvie à l'OLYMPIA(オランピア劇場公演live 1970、日本盤「シルヴィ・イン・パーソン」)
  11. 1971: Sylvie à TOKYO(日本ツアー・東京公演1971)
  12. 1971: 恋人時代 (Koibito Jidai)(日本企画盤)
  13. 1971.5.5: グランプリ・アルバム (BEST)
  14. 1972: Sympathie
  15. 1972.4.25: 哀しみのシンフォニー (CARO MOZART)(フランス盤Sympathie)
  16. 1972: Sylvie à l'OLYMPIA(オランピア劇場公演live 1972)
  17. 1973: Sylvie Vartan in TOKYO(日本ツアー・東京公演1973)
  18. 1973: 危険な関係 (J'ai un problème)
  19. 1973: 愛のかたち (Non je ne suis plus la même)
  20. 1974: サバの女王 (La raine de Saba)(日本企画盤)
  21. 1974: 恋人を探せ (L'amour au diapason)
  22. 1974: Je chante pour Swanee (France TV show 1974)
  23. 1974: 哀しみのアバンチュール (Les chemins de ma vie)
  24. 1975: Tout au fond des tiroirs (France TV show 1975)
  25. 1975: Palais des Congrès(パレ・デ・コングレ公演live 1975)
  26. 1976: そよ風のブロンド (Qu est-ce qui fait pleurer les blondes?)
  27. 1976: 愛のひとりごと (Ta sorcière bien aimée)
  28. 1977: 哀しみの祈り (Petit Rainbow)
  29. 1977: Dancing Star (France TV show 1977)
  30. 1977: Palais des Congrès(パレ・デ・コングレ公演live 1977)
  31. 1978: Fantaisie
  32. 1978: シルヴィ・ヴァルタンNew Best (Disco Queen)
  33. 1979: アメリカン・ナイト (I don't want the night to end) 全曲英語盤
  34. 1979: 愛のエッセー (Déraisonnable)
  35. 1980: モナムール (Bienvenue Solitude)
  36. 1981: 愛はジダンの香り (Ça va mal)
  37. 1982: Palais des Sports(パレ・デ・スポール公演live 1982)
  38. 1982: Des choses et d'autres
  39. 1983: Live in Las Vegas(ラス・ヴェガス公演live 1983)
  40. 1983: Danse ta vie
  41. 1983: Palais des Congrès(パレ・デ・コングレ公演live 1983)
  42. 1984: Des heures de désir
  43. 1985: Made in USA(全曲英語盤)(日本盤「Double Exposure / ダブル・エクスポジャー」)
  44. 1986: Virage(RCA最後のアルバム)
  45. 1989: Confidanses
  46. 1990: バルタン気質 (Confidanses)
  47. 1990: Enregistrement Public à Sofia (ブルガリア・ソフィア初公演live / 1990年10月)
  48. 1992: Vent d'ouest (Wind from west)
  49. 1993: La Storia (1989-1993 Best of)
  50. 1994: Session Acoustiques
  51. 1995: バルタン・セッション・アコースティック (Session Acoustiques)
  52. 1995: Sylvie Vartan (Quelqu'un qui m'ressemble)
  53. 1995: Sylvie Vartan Au Casino de Paris(カジノ・ド・パリ公演live 1995)
  54. 1996: 全ての女性は秘密も持っている (Toutes les femmes ont un secret)
  55. 1997: Sylvie Vartan chante pour les enfants(Sylvie Vartanフランス童謡を歌う)
  56. 1998: Irrésistiblement SYLVIE (France TV show live)(日本盤:Sylvie with friends)
  57. 1998.11.21: ベスト (SYLVIE VARTAN BEST)
  58. 1998: Sensible
  59. 1999: Tour de Siècle(オランピア劇場公演Live 1999)
  60. 2002: Irrésistiblement Sylvie Vartan Best Collection(日本企画盤)
  61. 2004: Les Années RCA (BEST of 1961-1983)
  62. 2004: SYLVIE (2004新譜)
  63. 2004: Palais des Congrès 2004(パレ・デ・コングレ公演live 2004)
  64. 2005: SYLVIE 永遠にあなたのとりこ〜愛しのシルヴィ(SYLVIE2004日本盤、2005年3月来日記念盤)
  65. 2006.10.25: 60年代LP6作品の紙ジャケット復刻盤CD(単品発売 / RCA日本):Sylvie A Nashivile(夢のアイドル), Il y a deux filles en moi(恋を歌う), 2’35 de Bonheur(パリより愛をこめて),Comme un Garçon(シャンソン・イエイエの女王), La Maritza(パリの妖精)
  66. 2007: ヌーヴェル・ヴァーグ (Nouvelle Vague)
  67. 2008: Sylvie sings standard songs RCA years(日本企画盤BEST)
  68. 2008: ヌーヴェル・ヴァーグ(日本盤「Nouvelle Vague」 - 2008年3月来日記念盤)
  69. 2009.9: 全て入り混じった悲しみ (Toutes peines confondues)(RCA移籍第一作)
  70. 2010.3.1: SYLVIE Live (L'Olympia Paris live 2009 / オランピア劇場公演live)
  71. 2010.9.20: Best of 3CD Sylvie Vartan(3枚組BEST-RCAフランス発売)
  72. 2010.11.29: ブルーの太陽 (Soleil Bleu)
  73. 2011.1.12: 恋の手紙(日本盤「Toutes peines confondues」-フランス2009年9月発売)
  74. 2011.12.16: Sylvie Vartan Live à la Salle Pleyel - The 50th Anniversary Concert(シルヴィ・ヴァルタン、サル・プレイエル公演ライヴ–50周年記念コンサート)(2011年11月23日パリ公演/最新作2曲)

[編集] 受賞・受章

[編集] 脚注

  1. ^ ソフィアに住む両親の疎開先の隣町
  2. ^ 「要請」という形は、共産主義体制では実態として強制
  3. ^ 2004年ガリエラ美術館の「衣裳展」でレプリカ販売
  4. ^ 2005年『Dictonnaire de chanson de Sylvie Vartan』
  5. ^ 1995年発売された「RCA時代スタジオ録音全集」のインタヴュー
  6. ^ 1995年発売の「RCA時代スタジオ録音全集(1961 / 1986年)」のインタヴュー
  7. ^ 自伝写真集『Jour après jour』2007年インタヴュー
  8. ^ 展覧会カタログ
  9. ^ 1992年の日本ツアーでは日本語でこのエピソードを披露
  10. ^ 日本発売は翌2005年3月、来日記念盤
  11. ^ 「Toutes peines confondues」は日本では「恋の手紙」の別タイトルで2011年1月12日発売。「恋の手紙 (Une lettre d'amour)」は収録曲でシルヴィ自身が作曲。2010年録音の「あなたのとりこ」「アイドルを探せ」が日本のみ追加収録
  12. ^ 2010年11月「Charts in France(チャーツ・イン・フランス)」のインタヴュー
  13. ^ a b c d e f g h i j k l フランスのファン会報CLUB SYLVIE 86 / 87冬号掲載のシルヴィの手書き回答
  14. ^ Le Vitocha(ヴィトシャ山、Витоша)は首都ソフィアを象徴する山
  15. ^ 製品の札の表記は「BALTAN」である
  16. ^ ジャン・ルナール『Jour après Jour』2007年インタヴュー
  17. ^ 現在のヴィクトワール・ド・ラ・ミュジークおよびセザール賞に相当する

[編集] 参考文献

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[編集] 外部リンク

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