シュテッティン条約

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シュテッティン条約とは、1653年5月にポンメルンシュテッティンスウェーデン王国ブランデンブルク選帝侯との間で結ばれた国境線を定めた協定条約である。この条約によってポンメルンの両国の国境線が確定した。国境線自体は、1648年ヴェストファーレン条約とその後の交渉で1651年までにほぼ確定していたが、ポンメルンを巡る両国の問題は、その後もしこりとなっていた(ポンメルン問題)。

条約内容[編集]

  • 両国の本条約の批准。
  • 両国のポンメルンにおける国境線をオーデル川右岸に決定する。
  • フォアポンメルンに対するブランデンブルク選帝侯の要求権を放棄する。
  • ポンメルン沿岸税は、両国が共同管理する。

この条約は、正式にはヴェストファーレン条約(オスナブリュック条約)の再確認であった。スウェーデン軍がポンメルンに駐留し続けた事も交渉の長期化に繋がったと言えたが、この協定においてフォアポンメルン地域のブランデンブルク選帝侯の継承要求は放棄させられた。一方でヒンターポンメルン地域は、ブランデンブルク選帝侯が正式に獲得するが、選帝侯家であるホーエンツォレルン家の男系が断絶した場合には、ヒンターポンメルン地域のスウェーデンの継承期待権を得る事が確認された。これはポンメルン全体の最終的継承権がスウェーデンに渡る事を意味していた。これを受けてスウェーデン軍は、ヒンターポンメルンから撤退した。この条約は、神聖ローマ皇帝からはすぐには承認されなかったが、1664年に対トルコ戦争(オスマン帝国)を受けて事実上承認される事となった。

一方、ブランデンブルク選帝侯は、ポメラニア公国の正当な継承権が認められなかった事から、ポンメルンに対する野心を募らせて行く事となった。その後ブランデンブルク選帝侯は、スウェーデンの協定違反を利用して、スウェーデン・ブランデンブルク戦争大北方戦争において勢力を拡大し、結果的にポンメルンの大部分を獲得する事に成功した。最終的に条約の効力は、ヴェストファーレン体制における勢力均衡として、フォアポンメルンの北半分のみがスウェーデン領として残されたが、ナポレオン戦争と体制の崩壊の結果、全てのポンメルンはブランデンブルク=プロイセンプロイセン王国)に割譲される事となった。

参考文献[編集]

  • 伊藤宏二『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国 -ドイツ帝国諸侯としてのスウェーデン』(九州大学出版会2005年