シドニー・ハーバート (初代ハーバート・オブ・リー男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リーの初代ハーバート男爵
シドニー・ハーバート
Sidney Herbert
1st Baron Herbert of Lea
1847年に描かれたシドニー・ハーバートの肖像画(サー・フランシス・グラント英語版画)
生年月日 1810年9月16日
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドサリーリッチモンド
没年月日 (1861-08-02) 1861年8月2日(50歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス・イングランド・ウィルトシャーウィルトン英語版
出身校 オックスフォード大学オリオル・カレッジ
所属政党 保守党ピール派自由党
称号 初代ハーバート・オブ・リー男爵英語版枢密顧問官(PC)
配偶者 エリザベス英語版

内閣 第一次パーマストン子爵内閣
在任期間 1855年2月8日 - 1855年2月23日

内閣 第二次パーマストン子爵内閣
在任期間 1859年6月18日 - 1861年7月22日[1]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 南ウィルトシャー選挙区英語版[2]
在任期間 1832年12月10日 - 1861年1月15日[2]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1861年 - 1861年[2]
テンプレートを表示

リーの初代ハーバート男爵シドニー・ハーバート英語: Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea, PC1810年9月16日 - 1861年8月2日)は、イギリスの政治家、貴族。

保守党ピール派自由党と党派を移しながら、閣僚職を歴任した。

経歴[編集]

1810年9月16日、第11代ペンブルック伯爵ジョージ・ハーバート英語版の四男としてイングランドサリーリッチモンドに生まれる[3][4]。母は父の後妻キャサリン・ヴォロントソフ英語版ロシア貴族の娘)。異母兄にロバート・ハーバート英語版(第12代ペンブルック伯爵)がいる[4]

ハーロー校を経てオックスフォード大学オリオル・カレッジへ進学した[3]

1832年から1861年まで南ウィルトシャー選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務める[2][3]

当初は保守党に所属し、第一次ピール内閣においてインド監督庁副長官英語版を務めた。第二次ピール内閣においては1841年から副海軍大臣英語版、1845年からは戦時大臣を務めた[3]穀物法廃止をめぐる閣内論争では穀物法廃止を目指すピール首相を支持した[5]

保守党が穀物自由貿易派と保護貿易派に分裂すると自由貿易派のピール派に属した。1852年12月に成立したピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣にはピール派からの閣僚の一人として戦時大臣として入閣した[6]クリミア戦争をめぐっては他のピール派閣僚とともに平和派に属したが、ホイッグ党閣僚たちに押し切られた結果、参戦することになった[7]

1855年1月にはクリミア戦争の泥沼化の中で調査委員会の設置の動議が決議され、アバディーン伯爵内閣は退陣。代わってホイッグ党首班の第一次パーマストン子爵内閣が発足した[8]。ハーバートは植民地大臣として同内閣に入閣したが[3]、パーマストン子爵が調査委員会の設置に応じる構えであったため、他のピール派閣僚のグラッドストンサー・ジェームズ・グラハム準男爵とともに二週間のうちに下野した[9]

1858年に第一次パーマストン子爵内閣が倒閣され、保守党党首ダービー伯爵が組閣の大命を受けると、ダービー伯爵から協力要請を受けたが、拒否した[10]。ピール派の長老政治家グラハムが病気で第一線を退くと、グラッドストンやニューカッスル公爵とともに同派の指導的存在となった[11]

1859年6月、ホイッグ党とピール派の合同で自由党が結成され、自由党政権の第二次パーマストン子爵内閣が発足し、ハーバートは陸軍大臣として入閣した[12][3]中国との戦争の指導にあたっていたが、1860年秋頃から糖尿病腎臓病ブライト病などを罹患して体調を崩した[3]

病気の療養のため、1861年1月1日にリーのハーバート男爵英語版に叙されて貴族院に移籍することで庶民院から離れた。この段階では陸軍大臣には在職したものの、結局同年7月22日に陸軍大臣も辞することになり、8月2日にイングランド・ウィルトシャーウィルトン英語版ウィルトン・ハウス英語版において死去した[3]

リーのハーバート男爵の爵位は彼の長男ジョージ英語版が継承した。また翌1862年にシドニーの兄ロバートが子供無く死去するとジョージがペンブルック伯爵位も継承している[3]

家族[編集]

1846年エリザベス・コート・レピントン英語版と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲けている[13]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 秦(2001) p.510
  2. ^ a b c d UK Parliament. “Hon. Sidney Herbert” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i Matthew, H. C. G.. “Herbert, Sidney, first Baron Herbert of Lea” (英語). Oxford Dictionary of National Biography. 2014年6月13日閲覧。
  4. ^ a b Lundy, Darryl. “George Augustus Herbert, 11th Earl of Pembroke” (英語). thepeerage.com. 2014年6月13日閲覧。
  5. ^ 君塚(1999) p.77
  6. ^ バトラー(1980) p.17
  7. ^ バトラー(1980) p.23
  8. ^ バトラー(1980) p.24-25
  9. ^ バトラー(1980) p.25-26
  10. ^ 君塚(1999) p.141
  11. ^ 君塚(1999) p.152
  12. ^ バトラー(1980) p.26-27
  13. ^ Lundy, Darryl. “Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea” (英語). thepeerage.com. 2014年6月13日閲覧。

参考文献[編集]

  • 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年(平成11年)。ISBN 978-4641049697 
  • デヴィッド・バトラー英語版 編、飯坂良明岡沢憲芙福岡政行川野秀之 訳『イギリス連合政治への潮流』東京大学出版会UP選書205〉、1980年(昭和55年)。ASIN B000J8AD6E 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 

外部リンク[編集]

公職
先代
ロバート・ゴードン
ジェームズ・アレクサンダー・ステュアート=マッケンジー英語版
インド監督庁副長官英語版
1834年 - 1835年
次代
ロバート・ゴードン
ロバート・ヴァーノン・スミス英語版
先代
ジョン・パーカー英語版
副海軍大臣英語版
1841年 - 1845年
次代
ヘンリー・ローリー・コーリー閣下英語版
先代
サー・トマス・フレマントル准男爵英語版
戦時大臣
1845年 - 1846年
次代
フォックス・モール閣下
先代
ウィリアム・ベレスフォード英語版
戦時大臣
1852年 - 1854年
次代
第5代ニューカッスル公爵
先代
サー・ジョージ・グレイ准男爵
植民地大臣
1855年
次代
ジョン・ラッセル卿
先代
ジョナサン・ピール英語版
陸軍大臣
1859年 - 1861年
次代
サー・ジョージ・コーンウォール・ルイス準男爵英語版
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
新設 南ウィルトシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1832年英語版 - 1861年
同一選挙区同時当選者
ジョン・ベネット英語版(-1852)
ウィリアム・ウィンダム(1852-1859)
ヘンリー・シン卿(-1859)
次代
フレデリック・ハーヴィ―=バサースト英語版
ヘンリー・シン卿
イギリスの爵位
爵位創設 初代リーのハーバート男爵英語版
1861年
次代
ジョージ・ハーバート英語版