シトロエン・DS
シトロエン・DS(Citroën DS )は、フランスの自動車メーカー・シトロエンが1955年に発表した前輪駆動大型乗用車である。 当時としては極めて先進的な意匠に油圧機構を統括制御する、ハイドロニューマチックを搭載した。1955年から1975年までの約20年間、中高級車の一車種として改良を繰り返しながら(派生形の「ID」なども含めた)合計で、約145万5,000台(うちフランス本国生産は約133万台)が製造された。本項ではDSのほか廉価版である「ID」についても記述する。
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概要 [編集]
車名シトロエン「DS」はフランス語で 「デ・エス」 と発音される。語源は「開発コードの省略形」とも「Désirée Spéciale(デズィへ ・スペシアル)」(特別な憧れ)、同じ発音の「女神」という意味のフランス語「déesse(デエス)」を意味しているという二説があるが真偽は不明である。
最大の特徴は油圧によるエア・サスペンション亜種機構を中心としたハイドロニューマチックである。ボディは全長4.81m、全幅1.8m、全高1.47mという、1950年代中期のヨーロッパ車としては異例の大型である。そのエンジンは初期形で1.9L、最終形でも2.3Lに過ぎないが、車重は1.2t~1.3tと軽量なため、動力性能に大きな不足はない。当時では画期的なメカニズムが搭載され、設計者が貫く航空機の設計思想が随所に見られ、車体重心は前に、空力重心は後部に、という弓矢のような重量配分も後述のサスペンション構成とともに直進安定性に寄与している。
1999年、自動車批評家たちの意見を集めて選考された「20世紀の名車ランキング」であるカーオブザセンチュリーで、シトロエンDS/IDは3位に選ばれた。
生産にあたって [編集]
シトロエンは1934年に開発された7CV「シトロエン・トラクシオン・アヴァン」で、初めて前輪駆動方式を採用した。自動車業界における量産モデルへの大々的な前輪駆動導入は世界的にも早く、以後シトロエンは乗用車はもとより商用車にも前輪駆動方式を導入する。
1930年代当時としては進歩的な設計の「トラクシオン・アヴァン」シリーズは、当初の4気筒1303cc形「7CV」に続き、1934年中に4気筒1911ccの「11CV」(当初7CV派生)、更に1938年には6気筒2,867ccの「15CV-six」が追加され、第二次世界大戦中の製造休止はあったものの、15CVは1955年、11CVは実に1957年まで生産されるロングセラーとなった。これを手がけた主任設計者は、ヴォワザン出身の元航空技術者アンドレ・ルフェーブルである。前輪駆動のほか、モノコック構造やトーションバーによる独立懸架機構などの先進機構を導入した。
ルフェーブル技師は1938年、当時のシトロエン社長ピエール・ブーランジェの命令によって「トラクシオン・アヴァン」の後継車となるアッパーミドルクラスの乗用車開発を開始、このコードネーム「VGD」は「Vehicle é Grande Diffusion」(大量普及自動車)の意で、トラクシオン・アヴァン同様に量産型乗用車として生産した。
VGDの開発 [編集]
ルフェーブルが打ち出した「VGD」は、おおむね次のようなものであった。
- 安全性の追求
- 居住性(乗員を路面の影響から隔てる)
- 路面状況を問わないロード・ホールディング確保
- 空力面の追求
まもなく第二次世界大戦が勃発したため開発はいったん中止された。本格的な開発作業は第二次世界大戦後に持ち越されることになる。
終戦後から本格的な開発が再開された。開発過程ではP・ブーランジェ社長が1950年に事故死するが後継社長のL・ピュイズは引き続きこの計画を支援し、ルフェーブルら技術陣は開発を続行した。ルフェーブルはさらに以下の設計方針を提示した。
- 軽量・低重心かつモダンで個性的な空力ボディ
- 前後輪重量配分を2:1
- トレッドは前輪を広く、後輪を狭くする(ルフェーブルが以前に在籍したヴォワザン社のグランプリカーにならった手法)
- サスペンションに革新的なシステムを導入
新たな開発内容はあまりに複雑で、シトロエンの戦後型主力車の開発は遅延、その間にフランス国内では、プジョー・203(1948年)、フォード(フォード・フランス)・ヴデット(1949年)、ルノー・フレガート(1950)、シムカ・アロンド(1951年)など、競合メーカーから1.2リッター~2.3リッター級の戦後型中上級車が続々登場する。それらフラッシュサイド・ボディ(車幅を有効に用いるため、車幅一杯にして車内容積を広げたデザイン)の新車群に対し独立フェンダーと外付けヘッドライトの旧態依然としたトラクシオン・アヴァンはやむなく生産され続けた。
戦後型の大型シトロエンであるVGDが「DS」として発表されたのは1955年でフランスの自動車メーカー中では戦後最後発の上級車であった。結果としてシトロエンはこの「DS」で、競合各社を突き放すことになった。
生産開始後 [編集]
1955年10月5日、フランス最大のモーター・ショーであるパリ・サロンで発表されたDSは、その強烈な個性と高度なメカニズムによって来場者の耳目を集めた。公開直後わずか15分の間に743件を受注、当日に1万2,000件あまりの予約。上級モデルの乏しかった当時のフランスの自動車市場において、DSは速やかに多くのユーザーを獲得した。
1957年のトラクシオン・アヴァン生産終了に伴い、その代替としてDSの仕様を簡素化した廉価型「ID19」が登場した。「ID」はフランス語読みで「イデー」、同発音の「Idée」(イデアの意)とかけたネーミングである。DSのエンジンをデチューンし、サスペンション以外を一般的な手動変速機、通常型ブレーキとしてパワーステアリング機構を省略したものだった。この結果DS/IDシリーズはシトロエンの中上級車種となる。1958年にはワゴンタイプの「ブレーク」なども発売された。
ライバルのプジョーは、戦後の上級車種展開が進まず1960年代前半まで1,600cc級が上限で、2l級投入は1968年の「504」まで遅れた。こうした事情もあってDS/IDシリーズは競合モデルのルノー・フレガート、シムカ・アリアーヌ8を斥けてフランスの上級車市場に地位を確立。ド・ゴール大統領以下政府首脳の公用車にも広く用いられた。
生産はフランス本国のほか、ベルギー工場、およびイギリスのスラウ工場でも行われた。スラウ製DSシリーズはイギリス向けで右ハンドル仕様なのが特徴である。
1960年には従来の6V電装から12V電装へと変遷。1962年9月にはマイナーチェンジが行われ、ノーズ部分の形状を若干変更し、換気機能を改良した。1964年には内外装を加飾した「DS19パラス」が発売される。
1967年、マイナーチェンジが行われた。固定式の砲弾型2灯(パラスは外付け式の補助灯2灯が追加)であった前照灯をそれらを包括してガラスカバー付きの4灯式コンビネーションライトとした。ガラス内面に刻まれた縦縞は単なる印刷意匠であり除湿や防爆等の機能はない。このデザインはシトロエン傘下のメーカー、パナール・ルヴァッソールが1963年に発売した850ccクーペ「パナール24c」に先行して用いられたモチーフであった。この「猫眼」型のライトのうち外側灯は、一旦強固な左右バーで直結された後サスペンションに通じたリンクで吊られ、車体ののピッチング挙動に連動し、常に水平(設定した光軸方向)を保ち、内側2灯(ハイビーム時のみ点灯を選択できるドライビングランプ)はステアリング角度に遅滞なく連動して左右に首を振って常に進行方向を照らすもので、電子回路や電動機構を用いない純機械式のディレクショナルライトである。リンクにより旋回方向内側灯の方が大きく振る構造である。 首振りライトはタトラT77aやタッカーでの先行例があるが、DSでの採用は特に有名になった。
1970年にはマセラティ製の強力なV形6気筒エンジンを搭載した高性能クーペ「SM」がシトロエンの最高級車として開発されたが、上級主力モデルは依然DSであった。
改良を重ね長期生産されたDSであったが、シャーシ、駆動系の設計全てが古く室内も狭く、部品点数や精度管理など生産効率に関する制約があまりにも多かったことから、1970年代に入ると市場競争力の面で不利になった。1974年よりモダンで穏健な設計の「CX」がDSの後継モデルとして発売開始、一時両車は並列製造販売されたが1975年にDSは生産を終了し、その翌年には救急車などの特装車も生産を終了した。
DSの日本における輸入はデビュー当初から当時の富裕層のために数社のディーラーによって行われたが、その特異なメカニズムのため、整備ができる熟練整備士はわずかでありハイドロ関係の修理は困難をきわめた。日本全国に数台しか存在しないDSにトラブルがおこる度にそれらのメカニックがチームを組み出張旅費や修理終了するまでの滞在費をディーラーが支払い、修理費用の他にそれらの費用もオーナーに請求されたという話もある。
1973年に経営危機に陥ったシトロエンは、以降生産モデルの設計の穏健化とグループ企業となったプジョーとの部品共通化を進め、もはやDSほど機械設計の理想に走ったような車を開発することはなくなった。しかし世界各国の熱心な愛好家たちの手によって、21世紀初頭の現在でも、DSは多数が可動状態で保存されており、DSデビュー50周年の2005年10月9日には、パリに世界各国から多数のDS/IDが集結。パリ市内の凱旋門に列を成すパレードが盛大に行われ、参加台数は約1,600台を数えた。
スタイリング [編集]
ボディデザインを手がけたのは、シトロエンの社内デザイナーで、トラクシオン・アヴァンや2CVのデザインも行ったイタリア人のフラミニオ・ベルトーニである。
ボディは箱形断面形状のサイドシルにより下膨れにせざるを得なかった。サイドウインドウは平面ガラスであるが、前後で角度を持たせてデザイン上の破綻を回避している。サッシュレスドア、モール抜きのガラス-鉄部境界の処理も当時としては抜きん出ていた。
先端は低く尖った形状で、半埋め込みのヘッドライトともども空気抵抗を抑制している。これを「牡蠣のような」と表現した小説もあった。スポーツカーでもこのデザインは1960年代以降でないと一般化せず、4ドアの大型乗用車でありながら、権威を伴った装飾としてのラジエーター・グリルがないその外観は、1950年代の人々にとっては不可解だった。
ルーフおよびトランクは後方へと低く垂下し、テールは細く絞られ、テールライトがコンパクトに収められていた。ウインドシールドがかなり垂直に近い立て方になっているの。ドアは窓枠のないサッシュレスタイプに仕上げ、ドアを閉じた際の気密性は車体側のゴムシールで確保していた。幅広のCピラーは横縞の入ったアルミニウム板で覆われている。
ボディ部分は応力を負担せず、最低限の強度骨格のみを構築して、その外側にパネルを装着する「スケルトン構造」としている。このあたりの手法は、当時まだはしご形フレームを用い、ボディを別構造としていたアメリカ車などに似ているが、軽量化と剛性確保は十分に配慮されている。ボディパネルは部位により硬軟使い分けられ、ボンネットフードはアルミ製である。
屋根部分は強度部材である必要がないため、低重心化を狙って、当時最新の素材であったFRP(繊維強化プラスチック)を用い、内張り布を張って仕上げた。屋根部分は初期には色が薄く、日光を一部透過するほどであった。後には徐々に不透過性に改められている。FRPのルーフ部分は取り外しても走行には支障がなく、デカポタブルへの改装も容易であった。
スケルトン構造を生かし、許容される隙間をやや大きく取ってゴムブッシュとメッキモールを適所に用いることで、あえてチリ合わせが厳密でなくても差し支えないデザインに仕上げられているのは、巧みな生産性対策である。トランクフードが開いた状態でも運転席からの後方視界にほとんど支障がないように設計され、リアフェンダーは整備時ボルト1本を外すだけで簡単に脱着できるようになっていた。
フロントバンパーは大きな曲線を描いており、その先端に装備されたオーバーライダーが前方の駐車車両など障害物に接触していなければ、ステアリングの据え切りを一杯に行うことで、駐車位置からそのままバンパーを前方にぶつけることなく脱出することができるようになっていたという。外見よりもはるかに小回りが利いたのである。リアのCピラー上部に装備されたリアウインカーランプは、設置場所こそ風変わりだが、高い位置に付いているため後続車からの視認性が高かった。このウインカー外部は1960年までIDでは赤プラスチックであり、DSではステンレス製であったが、以降はDS・ID共に同一のステンレス製となった。
一見すると全体が奇抜なDSのスタイルであるが、このようにその実、機能面では地に足の着いた十分な合理性を備えていた。ルフェーブルとベルトーニが、DSをあくまで「実用量産車」という視点から設計していたことの裏付けとも言えよう。
内装 [編集]
1955年当時、まだ内装用の材質としては一般的でなかったプラスチックやビニールを多用していたのも特徴である。しかも白系統など、従来では考えられなかった大胆な色遣いを行い、材質の弱点を目立たせない工夫が試されていた点でも、高度なインダストリアル・デザインであった。またダッシュボードには連続した曲面デザインを用い、1本スポーク支持のステアリングともどもモダンな印象を狙っていた。もっとも1969年以降の後期形は、黒系統・直線基調のビジネスライクなダッシュボードに移行してしまった。
ステアリング・ホイールの1本スポークの位置には「厳密な指定」がある。これは正面衝突時、ステアリングにぶつかったドライバーを車内中心方向に逃すためである。直進時において左ハンドル仕様車では、時計で言う「8時」の位置、右ハンドル仕様車では「4時」の位置になる。
シートはウレタンフォームを大量に用い、ベロア系生地の表皮を与えた贅沢な構造である。ソファーのように身体が沈み込むゆったりとしたシートと、ハイドロニューマチック・サスペンションとの組み合わせによって、しばしば「雲にでも乗っているような」「船のような」などと形容される独特の乗り心地が実現された。車内には非常なゆとりがあり、そのままでもリムジンとして通用するレベルである。のちにシート生地にはビニールレザーも用いられ、「パラス」など中期以降の上級モデルでは、革張りシートもオプションで装備された。革の色は黒色とタバコ葉色の2色である。
1973年より北米仕様と日本仕様には、ヘッドレストの装備が義務付けられたので、シトロエン・オリジナルのヘッドレストが少数生産されて現存する。
派生モデル [編集]
ワゴンモデル [編集]
1958年にIDをベースとして、ワゴンモデルが発表された。屋根を高めに取り、上下2分割式テールゲートと両側フィンにテールライトを縦並びにしたデザインとなっている。
座席バリエーションによって名称が分かれていた。2列5人乗りで後席折り畳み仕様とした商用メインの「コメルシアル」(Commércial )、コメルシアルの荷室に横向きのジャンプシート2座を追加した「ブレーク」、3列目の3人がけシートを装備して8人乗りとした大家族向けの「ファミリアール」の3バージョンである。
これらのワゴンモデルはのちにIDのほかDSバージョンも追加されて1975年まで生産され、機能性の高さと長距離走行に適した性能から、その期間中を通じて高い人気を保った。イギリスでは「サファリ」(Safari )の愛称で販売され、イギリス車にはほとんど類例のないキャラクターから高級ワゴンとしてやはり人気があった。
またコメルシアルをベースに後席を2:1可倒式として担架搭載可能とした救急車仕様の「アンビュランス」も作られ、患者搬送のような用途にもDSの優れた乗り心地が威力を発揮することになった。DSのスタイリング・デザイナーであるフラミニオ・ベルトーニは1964年2月に脳溢血で急逝したが、このとき彼を病院に搬送したのはDSの救急車であったという。
DSデカポタブル [編集]
1958年頃から、フランスのカロシェ(ボディ架装工房。イタリアに於けるカロッツェリアと同義)であるアンリ・シャプロンなどが、DSをベースにした豪奢なオープンモデル、(デカポタブル Décapotable )を注文生産するようになった。強固なフロアパネルによって剛性を確保しているDSは有利であった。
シャプロンの架装したデカポタブル・ボディは、フラミニオ・ベルトーニのオリジナルDSデザインの美点を巧みに生かし長大なボディ・ホイールベースはそのままに客室部を縮め、わずか2+2の座席を合わせたレイアウとなった。シャプロンは戦前、フランス製高級車のボディ架装を多く手がけた名門カロシェである。
1950年代後半のフランス自動車界では、量産車とは別格なステータスのある国産高級車は唯一、クライスラーV8エンジンを搭載したモンスター的豪華車ファセル・ヴェガしか存在しなかった(そのファセルも1964年には倒産している)。ゆえにDSデカポタブルはフランスの上流層から歓迎された。
当初シトロエンの正規モデルではなかったものの、ほどなくその好評ぶりに対応するかたちで、1960年には正式なカタログモデルとなった。架装はシャプロンが担当し、DS21に移行した後も、後継車となるマセラティV型6気筒エンジン搭載の高級クーペ「シトロエンSM」が発売された直後の1971年まで、合計1,375台が限定生産された。価格は通常型DSの2倍という超高額であった。
アンリ・シャプロンは、このほかにDSのリムジン仕様とも言うべき「プレスティージュ」(Prestige )を製作している。前後席間にガラスの仕切りを入れ、エア・コンディショニングやステレオを装備した特装形だが、価格は通常型DSの2~3割増程度でさほど高価ではなく、公用車やハイヤーなどに好んで用いられた。
大統領のDS [編集]
DS/IDはフランス政府機関の公用車として広範に用いられ、政治家にも常用する者が多かった。中でもフランス第五共和国大統領シャルル・ド・ゴールは、DSの愛用者の一人であり、あらゆる公式行事に際してDSを利用したことで知られる。
このクラス(2リッター級4気筒)の乗用車が先進国の国家元首専用車として用いられたのは世界的にも珍しいが、当時のフランスには他に適切な大型国産乗用車がなかったことが、起用理由の大きな一因と言えた。
ド・ゴールのアルジェリア政策に反対する過激な右派軍事組織「OAS」は彼の暗殺を企て、1962年8月22日、パリ郊外の路上で、移動中のド・ゴール夫妻のDS19を機関銃やサブマシンガンなどで襲撃した。弾丸はド・ゴールの頭をかすめ、リアガラスを砕き、ボディに穴を開け、片方の後輪をパンクさせたが、DSはハイドロニューマチック・サスペンションおよび前輪駆動による安定性で残る3輪で走行を続け、速やかに現場を脱出した。ド・ゴール夫妻は無傷で、OASの襲撃は失敗に終わった。DSの特異なメカニズムが、結果として国家元首をも危機から脱したのである。
このエピソードは、フレデリック・フォーサイスの小説をフレッド・ジンネマン監督が映画化した『ジャッカルの日』(1973年)冒頭で再現されている。なお本作冒頭では閣僚を迎えるため官邸の車回しに漆黒のDSが並ぶ豪奢なシーンを見ることもできる。
プレジダンジェル(大統領用特装リムジン) [編集]
1968年11月には車体を大型化、防弾・装甲装備を大幅強化した大統領専用の特別型DS「プレジダンジェル」が作られ、任期末期のド・ゴールに続いて後継大統領のジョルジュ・ポンピドゥも使用した。
アンリ・シャプロンの架装になるこのスペシャルは、直線的ディテールを随所に取り入れた、一種独特のスタイルを持つ風変わりなリムジンであった。全長6,530mm、全幅2,130mm、ホイールベース3,780mmというアメリカ製リムジンにも比肩するサイズで、総重量は2,660kgに達した。厚い防弾ガラスを装備することから、一般のDSのようなサッシュレスドアは採用されず、サッシ付きドアとなった。
エンジンは同時期のDS21用の2,175ccで4速仕様であるが、この車の目的から低速での長時間走行を想定したギヤ比にしてある。発電機とバッテリーは2系統あり(35A×2)、一方は後席エアコン専用である。スペックの詳細は不明だが、運転席の写真からはマニュアルトランスミッションであると推定される(「Le Double Chevron」No 15 1966年冬号による)。
構造は本格的なリムジンのそれで、運転席と客席の間が曲面ガラスで区切られ、客席中央に随行員用の折りたたみシートを備えていた。後席にはバーとハッチが装備され、2個のボトルとグラスが用意されている。
車体先端両脇には装飾の国旗を立てることが可能で、これはバンパーから照明された。普段は右側に自国旗(フランス三色旗)を立てるのであるが、外国からの国賓乗車時には右に相手国旗を取り付けるため、フランス国旗は左側に立てられる。また、ボンネット先端部には同心円トリコロールの飾りが付く。
外装はド・ゴール夫人の趣味により、グレー系のツートーン(ボディ=Alizé Grey、ルーフ=Silver Grey)に塗装されていた。
ラリーでの戦績 [編集]
アンダーパワーで巨大な図体のため、ハイパワーや小回りを活かした機動性などとは無縁なDS/IDシリーズであるが、実は多くのレースやラリーに出場して好成績を収めている。前輪駆動と低重心構造によってもたらされる高い操縦安定性と、ハイドロニューマチックによって確保されるサスペンションのしなやかさは、特にラリー・フィールドにおいて大きな長所となった。
プライベーターたちの手で早くも1956年からモンテカルロ・ラリーに出場、1959年にはポール・コルテローニの、ほとんどノーマル状態に近かったID19が優勝した。1960年からはシトロエン社のワークス・チームがDSで活動を開始、優勝こそ多くなかったが多くのラリーで上位入賞する好成績を挙げた。1963年のモンテカルロで総合2位、1964年のアクロポリス・ラリーで2位など、より強力な競合チームと互角の戦績を残したことは特筆に値する。
1966年には高速型の新型エンジンを搭載したDS21が登場、ラリーにも投入された。この年のモンテカルロ・ラリーでは、パウリ・トイポネンのDS21が総合優勝しているが、実は1位から3位を独占したイギリスのBMCミニ・クーパーSが「灯火レギュレーション違反」という理由で失格となり4位のDSが繰り上げ優勝となったものである。
この時期になると競合チームの性能向上も著しかったことから、シトロエンではDSのラリー・フィールドを、北アフリカ等での耐久レースに移行させることにした。もともと長距離走行を得意とするDSは、モロッコ・ラリーなどの過酷な環境で頑強さを発揮した。
1969年には、DSの全長をホイールベースともども強引に大幅短縮し、低いルーフのクーペボディを与えた軽量なスペシャルが製作された。このDSクーペは、1969年のモロッコ・ラリーでデビューし、従来型DSとともに4位を除く1位から6位までに入る成功を収めた。DSによるラリー活動は、生産期間最終期にあたる1970年代中期まで続けられた。