シトロエン・DS

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DS21 パラス

シトロエン・DSCitroën DS )は、フランス自動車メーカー、シトロエン1955年に発表した前輪駆動の、アッパーミドルクラスの乗用車である。当時としては極めて先進的な意匠に独自の油圧機構で統括制御する「ハイドロニューマチック・システム」を搭載した自動車である。1955年から1975年までの約20年間、フランス車の主幹軸を担うモデルとして第一線にあり続け、改良を繰り返しながら(派生形の「ID」なども含めた)合計で、約145万5,000台(うちフランス本国生産は約133万台)が製造された。本項ではDSのほか、派生形である「ID」についても記述する。

概要[編集]

車名シトロエン「DS」は、フランス本国では “スィトホエン「デ・エス」” と発音される。語源は「開発コードの省略形」とも「Désirée Spéciale(デズィへ スペシアレ)」(特別な憧れ)の略とも言われるが詳細は不明である。同じ発音の「女神」という意味のフランス語déesse(デエス)」を意味しているという説も根強い。

シトロエンDSの最大の特徴は、油圧動力による一種のエア・サスペンション機構を中心とした「ハイドロニューマチック・システム」Hydropneumatic System の採用である。ボディは全長4.81m、全幅1.8m、全高1.47mという、1950年代中期のヨーロッパ車としては異例の大型である。そのエンジンは初期形で1.9L、最終形でも2.3Lに過ぎないが、車重は1.2t〜1.3tと軽量なため、動力性能に大きな不足はない。随所に意表を突くメカニズムが搭載され、設計者が貫く航空機の設計思想が随所に見られ、車体重心は前に、空力重心は後部に、という弓矢のような重量配分も後述のサスペンション構成とともに直進安定性に寄与している。

DSは、高級車やマニア向けの特殊な車ではなく、多くの先進機構を持つもののごく一般的な量産車として企画開発され、本国フランスではタクシー救急車などの特装車にも酷使されるような車種であった。これをトヨタで例えると、センチュリー2000GTなどではなく、量産型高級車として遙かに多数が量産されたクラウンのような存在であった。そのような車種に、採算や当時の生産技術上の限界を知りながら、部品公差にあっては現在最新の生産車でも設定しない領域の、ジェット旅客機やロケットエンジンの油圧系統並みの精度を要求するものであった。このような高度な設計レベルを用いた自動車メーカーは現在もシトロエン社だけである。

1999年には、全世界の自動車評論家・雑誌編集者等の意見を集めて選考された「20世紀の名車ランキング」であるカーオブザセンチュリーにおいて、1位のフォード・モデルT、2位のミニに次ぐ第3位の「偉大な自動車」という評価を得た。

生産にあたって[編集]

シトロエンは1934年に開発された7CV「シトロエン・トラクシオン・アヴァン」で、初めて前輪駆動方式を採用した。量産モデルへの前輪駆動導入は世界的にも早い時期の試みであり、以後乗用車はもとより商用車についても前輪駆動方式を積極的に導入する。

当時としては過渡的な設計の「トラクシオン・アヴァン」シリーズは、当初の4気筒1303cc形「7CV」に続き、1934年中に4気筒1911ccの「11CV」(当初7CV派生)、さらに1938年には6気筒2867ccの「15CV-six」が追加され、第二次世界大戦中の製造休止はあったものの、15CVは1955年、11CVは実に1957年まで生産されるロングセラーとなった。これを手がけた主任設計者は、ヴォワザン社出身の元航空技術者アンドレ・ルフェーブルAndré Lefèbvre(1894年-1964年)である。前輪駆動のほか、モノコック構造やトーションバーによる独立懸架機構などの先進的なメカニズムを多数導入した。

1934年、過大投資による経営難に陥ってシトロエンは大手タイヤメーカーであるミシュランの系列に入ったが、前輪駆動車の新たな模索は続けられていた。

ルフェーブル技師は、早くも1938年、当時のシトロエン社長ピエール・ブーランジェの命令によって、「トラクシオン・アヴァン」の後継車となるアッパーミドルクラスの乗用車開発を開始、「VGD」なるコードネームを与えられた。「Véhicule de Grande Diffusion」(大量普及自動車)の意で、トラクシオン・アヴァン同様に量産型乗用車として生産する意図ははっきりしていた。

VGDの開発[編集]

ルフェーブルが打ち出した「VGD」コンセプトの趣旨は、おおむね次のようなものであった。

  1. 安全性の追求
  2. 居住性(乗員を路面の影響から隔てる)
  3. 路面状況を問わないロード・ホールディングの能力確保
  4. 空力面の追求

まもなく第二次世界大戦が勃発したため、開発はいったん中止された。本格的な開発作業は第二次世界大戦後に持ち越されることになる。

終戦後から本格的な開発が再開された。開発過程では、計画を推進してきたピエール・ブーランジェ社長が1950年に事故死するアクシデントがあったものの、後継社長のロベール・ピュイズは引き続きVGD計画の推進を支援し、ルフェーブルら技術陣は開発を続行した。

この時点でルフェーブルはさらに以下のような設計方針を提示した。

  1. 軽量・低重心かつモダンで個性的な空力ボディを用いる
  2. 前後輪重量配分を2:1とする
  3. トレッドは前輪を広く、後輪を狭くする(ルフェーブルがシトロエン以前に在籍したヴォワザン社のグランプリカーに倣った手法である)
  4. サスペンションに革新的なシステムを導入する

しかし、その開発内容があまりにも複雑多岐にわたりシトロエンの戦後型主力車の開発は遅れた。その間に、プジョー・203(1948年)、フォード(フォード・フランス)・ヴデット(1949年)、ルノー・フレガート(1950)、シムカ・アロンド(1951年)と、競合メーカーから1.2リッター~2.3リッター級の戦後型中〜上級車が続々登場していた。それらフラッシュサイド・ボディ(車幅を有効に用いるため、側面をフラットにして車内容積を広げたデザイン)の新車群に与して、独立フェンダーと外付けヘッドライトの旧態依然としたトラクシオン・アヴァンは、1950年代に入っても延々と生産され続けた。

戦後型の大型シトロエンであるVGDが「DS」として発表されたのは1955年で、フランスの自動車メーカー中では戦後最後発の上級車であった。結果としてシトロエンはこの「DS」で、競合各社を突き放すことになった。

生産開始後[編集]

1955年10月5日、フランス最大のモーター・ショーであるパリ・サロンで発表されたDSは、「異次元の自動車」とのうわさが立ち、公開直後15分の間に743件の受注、その日一日で1万2,000件余りのバックオーダーが押し寄せた。

ID19のサイドビュー

1957年のトラクシオン・アヴァン生産終了に伴い、その代替としてDSの仕様を簡素化した廉価型「ID19」が登場した。「ID」はフランス語読みで「イデー」、同発音の「Idée」(イデアの意)とかけたネーミングである。DSのエンジンを簡素化し、サスペンション以外を一般的な手動変速機、通常型ブレーキ、操舵倍力機構を省略したものだった。この結果DS/IDシリーズはシトロエンの中~上級レンジを一手に担う車種となる。1958年にはワゴンタイプの「ブレーク」ほかも発売された。

最大のライバルであるプジョーの上級車種展開は進まず、1960年代前半まで1600cc級が上限で、2リッター級投入は1968年の「504」まで遅れた。こうした事情もあって、DS/IDシリーズは競合モデルのルノー・フレガート、シムカ・アリアーヌ8を斥けてフランスの上級車市場にあった。ド・ゴール大統領以下政府首脳の公用車にも広く用いられた。

生産はフランス本国の他、ベルギー工場、およびイギリスのスラウ工場でも行われた。スラウ製DSシリーズはイギリス向けで右ハンドル仕様なのが特徴である。

DS19 デカポタブル
DS21パラスのリア、日本仕様のナンバープレートが収まりきらないのがわかる

1960年には従来の6V電装から12V電装へと変遷。1962年9月にはマイナーチェンジが行われ、ノーズ部分の形状を若干変更し、換気機能を改良した。1964年には内外装を加飾した「DS19パラス」が発売される。

1967年には、DSシリーズの最も大きなマイナーチェンジが行われた。最大の変化は、それまで固定式の砲弾型2灯(パラス仕様は外付け式の補助灯2灯が追加)であった前照灯を、それらを包括してガラスカバー付きの4灯式コンビネーションライトとしたことである。ガラス内面に刻まれた縦縞は単なる印刷意匠であり除湿や防爆等の機能はない。このデザインはシトロエン傘下のメーカー、パナール・ルヴァッソールが1963年に発売した850ccクーペ「パナール24c」に先行して用いられたモチーフであった。この「猫眼」型のライトのうち、外側灯は一旦強固な左右バーで直結された後サスペンションに通じたリンクで吊られ、車体ののピッチング挙動に連動し、常に水平(設定した光軸方向)を保ち、内側2灯(ハイビーム時のみ点灯を選択できるドライビングランプ)はステアリング角度に遅滞なく連動して左右に首を振って常に進行方向を照らすもので、電子回路やアクチュエータを用いない純機械式のディレクショナルライトである。リンクにより旋回方向内側灯の方が大きく振る構造である。 首振りライトはタトラT77aやタッカーでの先行例があるが、DSでの採用は特に有名になった。 S字フックやネジで分解・調整が非常に簡単で整備性は良好であった。猫目の樹脂製ハウジング内面には成形扉があり、これを開けて内面やレンズを清拭できる。

1970年にはマセラティ製の強力なV形6気筒エンジンを搭載した高性能クーペ「SM」がシトロエンの最高級車として開発されたものの、シトロエンの上級主力モデルはなおもDSであった。

改良を繰り返して長期生産されたDSであったが、シャーシ、駆動系の設計が古い上、室内スペース効率が悪く、部品点数、精度管理など生産効率に関する制約が余りにも多かったことから1970年代に入ると市場競争力の面で不利になり1974年、よりモダンで穏健な設計の「CX」がDSの後継モデルとして発売開始、一時両車は並列製造販売されたが1975年にDSは主力生産を終了し、翌1976年には救急車などの特装車も生産を終了した。

DSの日本における輸入はデビュー当初から当時の富裕層の為に数社のディーラーによって行われたが、その複雑なメカニズムの為整備が出来る熟練メカニックは数名でありハイドロ関係の修理は困難をきわめた。日本全国に数台しか存在しないDSにトラブルがおこる度にそれらのメカニックがチームを組み出張旅費や修理終了するまでの滞在費をディーラーが支払い、修理費用の他にそれらの費用もオーナーに請求されたという逸話も存在する。 写真の後部ナンバー装着にあたっては、関西日仏自動車などのディーラー車はバフ仕上げのステンレスバンパーを1台ずつ板金して中央部に蹴コミを設け、日本仕様の寸法でも収まらせて視認できるようにした。

スタイリング[編集]

ボディデザインを手がけたのは、シトロエンの社内デザイナーで、トラクシオン・アヴァンや2CVのデザインも行ったイタリア人のフラミニオ・ベルトーニである。

ボディ部分は応力を負担せず、最低限の強度骨格のみを構築して、その外側にパネルを装着する「スケルトン構造」としている。このあたりの手法は、当時まだ梯子形フレームを用い、ボディを別構造としていたアメリカ車などに似ているが、軽量化と剛性確保は十分に配慮されている。ボディパネルは部位により硬軟使い分けられ、ボンネットフードはアルミ製である。

屋根部分は強度部材である必要がないため、低重心化を狙って、当時最新の素材であったFRP(繊維強化プラスチック)を用いた。DSのすぐ後に出現したスバル360も同様な手法を用いた。屋根部分は初期には色が薄く、日光を一部透過するほどであった。後には徐々に不透過性に改められている。

DS23 パラス(1974年式・後期形)
DS(後期形)のリアビュー。

ベルトーニは、トラクシオン・アヴァンのスタイリングに改変を加え、さらに極度に徹底して流線型化することでDSのデザインを作り上げたとされるが、結果的には他のあらゆる自動車と隔絶し、「宇宙船」とまで評されたデザインを実現した。それは1955年時点におけるもっとも進歩した空力デザインの一つである。

ボディは箱形断面形状のサイドシルにより下膨れにせざるを得なかった。サイドウインドウは平面ガラスであるが、前後で角度を持たせてデザイン上の破綻を回避している。サッシュレスドア、モール抜きのガラス-鉄部境界の処理も当時としては抜きん出ていた。

先端は低く尖ったグリルレス・スタイルで、半埋め込みのヘッドライト共々空気抵抗を抑制している。これを「牡蠣のような」と表現した小説もあった。スポーツカーでもこれほど思い切ったデザインは1960年代以降でないと一般化せず、4ドアの大型乗用車でありながら、権威を伴った装飾としてのラジエーター・グリルがないその外観は、1950年代の人々にとっては驚嘆の対象であった。1953年のスチュードベイカー・スターライナー・クーペ(レーモンド・ローウィ事務所のデザイン)の影響を指摘する者もあるが、実際にはそれよりはるかに未来的である。

ルーフおよびトランクは後方へと低く垂下し、テールは細く窄まって、テールライトがコンパクトに収められていた。ウインドシールドがかなり垂直に近い立て方になっているのが、数少ない「時代相応」な部分である。ドアは窓枠のないサッシュレスタイプとしてスマートに仕上げ、ドアを閉じた際の気密性は車体側のゴムシールで確保していた。これも当時としては大胆な手法である。幅広のCピラーは、横縞の入ったアルミ板で覆われ、デザインのアクセントになっている。ルーフ後端とリアウィンドの段差は、生産性に寄与し、空気の渦を抑制する役割を持つ。

スケルトン構造を生かし、許容される隙間をやや大きく取ってゴムブッシュとメッキモールを適所に用いることで、チリ合わせが厳密でなくても差し支えないデザインに仕上げられているのは、巧みな生産性対策である。トランクフードが開いた状態でも運転席からの後方視界にほとんど支障がないように設計され、リアフェンダーは整備時ボルト1本を外すだけで簡単に脱着できるようになっていた。

フロントバンパーは大きな曲線を描いており、その先端に装備されたオーバーライダーが前方の駐車車両など障害物に接触していなければ、ステアリングの据え切りを一杯に行うことで、駐車位置からそのままバンパーを前方にぶつけることなく脱出することができるようになっていたという。外見よりもはるかに小回りが利いたのである。リアのCピラー上部に装備されたリアウインカーランプは、設置場所こそ風変わりだが、高い位置に付いているため後続車からの視認性が高かった。このウインカー外部は1960年までIDでは赤プラスチックであり、DSではステンレス製であったが、以降はDS・ID共に同一のステンレス製となった。

内装[編集]

1968年DS21パラスの内装、青のモケットと白のビニールレザー。

1955年当時、まだ内装用の材質としては一般的でなかったプラスチックビニールを多用していたのも特徴である。しかも白系統など、従来では考えられなかった大胆な色遣いを行い、材質の弱点を目立たせない工夫が為されていた点でも、高度なインダストリアル・デザインであった。またダッシュボードには連続した曲面デザインを用い、1本スポーク支持のステアリングともどもモダンな印象を狙っていた。もっとも1969年以降の後期形は、黒系統・直線基調のビジネスライクなダッシュボードに移行してしまった。

ステアリング・ホイールの1本スポークの位置には「厳密な指定」がある。これは正面衝突時、ステアリングにぶつかったドライバーを車内中心方向に逃すためである。直進時において左ハンドル仕様車では、時計で言う「8時」の位置、右ハンドル仕様車では「4時」の位置になる。

シートはウレタンフォームを大量に用い、ベロア系生地の表皮を与えた贅沢な構造である。ソファーのように身体が沈み込むゆったりとしたシートと、ハイドロニューマチック・サスペンションとの組み合わせによって、しばしば「雲にでも乗っているような」「船のような」などと形容される独特の乗り心地が実現された。車内には非常なゆとりがあり、そのままでもリムジンとして通用するレベルである。のちにシート生地にはビニールレザーも用いられ、「パラス」など中期以降の上級モデルでは、革張りシートもオプションで装備された。革の色は黒色とタバコ葉色の2色である。

1973年より北米仕様と日本仕様には、ヘッドレストの装備が義務付けられたので、シトロエン・オリジナルのヘッドレストが少数生産されて現存する。

派生モデル[編集]

ワゴンモデル[編集]

DSブレーク(後期形)

1958年にIDをベースとして、ワゴンモデルが発表された。屋根を高めに取り、上下2分割式テールゲートと両側フィンにテールライトを縦並びにしたデザインは、当時のアメリカ製ステーション・ワゴンの影響が著しい。

座席バリエーションによって名称が分かれていた。2列5人乗りで後席折り畳み仕様とした商用メインの「コメルシアル」Commércial、コメルシアルの荷室に横向きのジャンプシート2座を追加した「ブレーク」、3列目の3人がけシートを装備して8人乗りとした大家族向けの「ファミリアール」の3バージョンである。

これらのワゴンモデルはのちにIDのほかDSバージョンも追加されて1975年まで生産され、機能性の高さと長距離走行に適した性能から、その期間中を通じて高い人気を保った。イギリスでは「サファリ」Safari の愛称で販売され、イギリス車にはほとんど類例のないキャラクターから高級ワゴンとしてやはり人気があった。

大きな荷重に対しても自動的な車高調整で一定の姿勢を保てるDS/IDのメカニズムは、ワゴンモデルにはことに適していたと言える。車高調整機能を駆使することで、停車中には荷室床面を低くして荷物の積み卸しをしやすくすることも可能だった。

またコメルシアルをベースに後席を2:1可倒式として担架搭載可能とした救急車仕様の「アンビュランス」も作られ、患者搬送のような用途にもDSの優れた乗り心地が威力を発揮することになった。DSのスタイリング・デザイナーであるフラミニオ・ベルトーニは1964年2月に脳溢血で急逝したが、このとき彼を病院に搬送したのはDSの救急車であったという。

DSデカポタブル[編集]

1958年頃から、フランスのカロシェ(ボディ架装工房。イタリアに於けるカロッツェリアと同義)であるアンリ・シャプロン等が、DSをベースにした豪奢なオープンモデル、デカポタブル Décapotable――コンバーティブルを注文生産するようになった。強固なフロアパネルによって剛性を確保しているDSは、屋根部の強度を度外視でき、またスケルトン構造によってデザインの自由度も高い事を生かしたアイデアである。

シャプロンの架装したデカポタブル・ボディは、フラミニオ・ベルトーニのオリジナルDSデザインの美点を巧みに生かした秀逸なものである。長大なボディ・ホイールベースはそのままに客室部を縮め、僅か2+2の座席を合わせた贅沢なレイアウトは、第二次大戦と戦後の高級車への禁止税的税制によって軒並み壊滅した往年のフランス車、すなわちブガッティドライエ、ドラージュ、ヴォワザン、サルムソン、タルボ等々を彷彿とさせ、非常に魅力あるスタイルであった。シャプロンは戦前、フランス製高級車のボディ架装を多く手がけた名門カロシェである。

前述の高級車メーカーが過去のものとなった1950年代後半のフランス自動車界では、量産車とは別格なステータスのある国産高級車は唯一、クライスラーV8エンジンを搭載したモンスター的豪華車ファセル・ヴェガしか存在しなかった(そのファセルも1964年には倒産している)。故にDSデカポタブルはフランスの上流層から歓迎された。

当初シトロエンの正規モデルではなかったものの、ほどなくその好評ぶりに対応するかたちで、1960年には正式なカタログモデルとなった。架装はシャプロンが担当し、DS21に移行した後も、後継車となるマセラティV型6気筒エンジン搭載の高級クーペ「シトロエンSM」が発売された直後の1971年まで、合計1,375台が限定生産された。価格は通常型DSの2倍という超高額であった。

アンリ・シャプロンは、この他にDSのリムジン仕様とも言うべき「DSプレスティージュ」Prestigeを製作している。前後席間にガラスの仕切りを入れ、エア・コンディショニングやステレオを装備した特装形だが、価格は通常型DSの2~3割増程度でさほど高価ではなく、公用車やハイヤーなどに好んで用いられた。

大統領のDS[編集]

DS/IDはフランス政府機関の公用車として広範に用いられ、政治家にも常用する者が多かった。中でもフランス第五共和国大統領シャルル・ド・ゴールは、DSの愛用者の一人であり、あらゆる公式行事に際してDSを利用したことで知られる。

ド・ゴールのアルジェリア政策に反対する過激な右派軍事組織「OAS」は彼の暗殺を企て、1962年8月22日、パリ郊外の路上で、移動中のド・ゴール夫妻のDS19を機関銃サブマシンガンなどで襲撃した。弾丸はド・ゴールの頭をかすめ、リアガラスを砕き、ボディに穴を開け、片方の後輪をパンクさせたが、DSはハイドロニューマチック・サスペンションおよび前輪駆動による無類の安定性と、運転手の優秀なテクニックによって、残る3輪で疾走を続け、速やかに現場を脱出した。ド・ゴール夫妻は無傷で、OASの襲撃は失敗に終わった。DSの特異なメカニズムが、結果として国家元首をも危機から脱せしめたのである。

このエピソードは、フレデリック・フォーサイスの小説をフレッド・ジンネマン監督が映画化した『ジャッカルの日』(1973年)冒頭でリアルに再現されている。なお本作冒頭では閣僚を迎えるため官邸の車回しに漆黒のDSが並ぶ豪奢なシーンを見ることもできる。

プレジダンジェル(大統領用特装リムジン)[編集]

1968年11月には車体を大型化、防弾・装甲装備を大幅強化した大統領専用の特別型DS「プレジダンジェル」が作られ、任期末期のド・ゴールに続いて後継大統領のジョルジュ・ポンピドゥも使用した。

アンリ・シャプロンの架装になるこのスペシャルは、直線的ディテールを随所に取り入れた、一種独特のスタイルを持つ風変わりなリムジンであった。全長6,530mm、全幅2,130mm、ホイールベース3,780mmというアメリカ製リムジンにも比肩するサイズで、総重量は2,660kgに達した。厚い防弾ガラスを装備することから、一般のDSのようなサッシュレスドアは採用されず、サッシ付きドアとなった。

エンジンは同時期のDS21用の2,175ccで4速仕様であるが、この車の目的から低速での長時間走行を想定したギヤ比にしてある。発電機とバッテリーは2系統あり(35A×2)、一方は後席エアコン専用である。スペックの詳細は不明だが、運転席の写真からはマニュアルトランスミッションであると推定される(「Le Double Chevron」No 15 1966年冬号による)。

構造は本格的なリムジンのそれで、運転席と客席の間が曲面ガラスで区切られ、客席中央に随行員用の折りたたみシートを備えていた。後席にはバーとハッチが装備され、2個のボトルとグラスが用意されている。

車体先端両脇には装飾の国旗を立てることが可能で、これはバンパーから照明された。普段は右側に自国旗(フランス三色旗)を立てるのであるが、外国からの国賓乗車時には右に相手国旗を取り付けるため、フランス国旗は左側に立てられる。また、ボンネット先端部には同心円トリコロールの飾りが付く。

外装はド・ゴール夫人の趣味により、グレー系のツートーン(ボディ=Alizé Grey、ルーフ=Silver Grey)に塗装されていた。

ラリーでの戦績[編集]

アンダーパワーで巨大な図体のため、ハイパワーや小回りを活かした機動性などとは無縁なDS/IDシリーズであるが、実は多くのレースラリーに出場して好成績を収めている。前輪駆動と低重心構造によってもたらされる高い操縦安定性と、ハイドロニューマチックによって確保されるサスペンションのしなやかさは、特にラリー・フィールドにおいて大きな長所となった。

プライベーターたちの手で早くも1956年からモンテカルロ・ラリーに出場、1959年にはポール・コルテローニの、ほとんどノーマル状態に近かったID19が優勝した。1960年からはシトロエン社のワークス・チームがDSで活動を開始、優勝こそ多くなかったが多くのラリーで上位入賞する好成績を挙げた。1963年のモンテカルロで総合2位、1964年のアクロポリス・ラリーで2位など、より強力な競合チームと互角の戦績を残したことは特筆に値する。

1966年には高速型の新型エンジンを搭載したDS21が登場、ラリーにも投入された。この年のモンテカルロ・ラリーでは、パウリ・トイポネンのDS21が総合優勝しているが、実は1位から3位を独占したイギリスのBMCミニ・クーパーSが「灯火レギュレーション違反」という理由で失格となり4位のDSが繰り上げ優勝となったものである。

この時期になると競合チームの性能向上も著しかったことから、シトロエンではDSのラリー・フィールドを、北アフリカ等での耐久レースに移行させることにした。もともと長距離走行を得意とするDSは、モロッコ・ラリーなどの過酷な環境でタフネスさを発揮した。

1969年には、DSの全長をホイールベースともども強引に大幅短縮し、低いルーフのクーペボディを与えた軽量なスペシャルが製作された。このDSクーペは、1969年のモロッコ・ラリーでデビューし、従来型DSと共に4位を除く1位から6位までに入る成功を収めた。DSによるラリー活動は、生産期間最終期にあたる1970年代中期まで続けられた。

脚注・出典[編集]

外部リンク[編集]