シェルビー・デイトナ

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シェルビー・デイトナ
シェルビー・デイトナ(1965年撮影)
Shelby Cobra Daytona (1965-05-23).jpg
販売期間 1964 - 1965年
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドア クーペ
エンジン 4.7L/V8(フォード・ウィンザー
最高出力 390bhp
変速機 ボルグ・ワーナー T-10M 4速
駆動方式 FR
サスペンション リーフ式サスペンション
全長 4,610mm
全幅 1,753mm
全高 1,422mm
ホイールベース 2,286mm
車両重量 1,043kg
-自動車のスペック表-

シェルビー・デイトナShelby Daytona 、別名:コブラ・デイトナ・クーペ、デイトナ・コブラ)は1960年代半ばに活躍したアメリカ合衆国レーシングカーである。ル・マン24時間レースでの打倒フェラーリを目指す、シェルビー・アメリカンにより合計6台が製造された。デイトナ24時間レースの前身、デイトナ2000kmレースでデビューしたためデイトナというニックネームが付けられた。レースにおける成績は輝かしいものであったが、フォード・GT40との関係で突然の引退を迫られた。現在、これらの車両はそれぞれ個人コレクターが所有し、競売において世界で最も高値がつく車の一つとされる。


デビュー、数々の勝利[編集]

1963年にデビューしたACコブラMkIIは、軽量なボディに強力なエンジンを搭載し、キャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカンの手によってヨーロッパ各地のレースで暴れまわっていた。しかし、オープンボディのACコブラでは直線の長いサーキットでは空力上の不利が大きく、特にル・マンが行われるサルト・サーキットではトップスピードで差が開き、フェラーリの後塵を拝していた。

そこでシェルビーは新しい車両の設計を決断。ピート・ブロックに空力に優れたボディデザインを、後にフォード・GT40のシャシー設計を行ったボブ・ネグスタッドにサスペンション の改良を指示。ACコブラのフレームエンジンなどの基本パーツを利用し、必要に応じて新しいパーツを組み合わせることにした。

1964年1月、プロトタイプCSX2287カリフォルニア州ベニスビーチのファクトリーで完成、テスト走行を繰り返した。

1964年2月、デイトナ2000kmレースにおいてデビュー。結果は途中リタイアであったが、予選でも上位に食い込み、強烈なインパクトを残した。

1964年3月、セブリング12時間レース、GTクラス優勝した。

キャロル・シェルビーはデイトナの高い戦闘力を確信、2台目以降の製造を考えたが、彼らのファクトリーの狭さが問題になった。そのためイタリアモデナのCarrozzeria Gransportに5台(シャシー番号:CSX2286CSX2299CSX2300CSX2601CSX2602)の車両製作を依頼する。フェラーリにとって最大のライバルとなったデイトナは、皮肉なことに彼らのお膝元で生み出され、次々にレースに投入されていった。

CSX2286は1番若い車台番号を持つが、完成したのは1番遅かった。ビッグブロックを搭載するなど、多くの仕様変更を受けていたとされる。

1964年6月、ル・マン24時間レース、GTクラス優勝(CSX2299) 。ドライバーはダン・ガーニーボブ・ボンデュラント。 CSX2287は途中リタイア。GTクラスの2-8位には3台のフェラーリ・250GTOと5台のポルシェ904GTSが続いた。

1964年8月、グッドウッドTT、GTクラス優勝(CSX2299)。ドライバーはガーニー。

1965年2月、デイトナ2000kmレース、GTクラス優勝(CSX2299)。ドライバーはジョー・シュレッサー他。

1965年3月、セブリング12時間レース、GTクラス優勝(CSX2299)。ドライバーはシュレッサーとボンデュラント。

1965年6月、ル・マン24時間レース、GTクラス3位入賞(CSX2299)。 CSX2300以外の5台体制で出場するも、4台がエンジントラブルでリタイア。GTクラス優勝はフェラーリ・275GTB、2位にはポルシェ・904GTS。

1965年7月、フランスGP、GTクラス優勝(CSX2601)。

1965年8月、ドイツGP、GTクラス優勝(CSX2601)。

1965年9月、イタリアGP、GTクラス優勝。

1965年、FIA GTクラスの年間チャンピオンに輝いた。

シェルビー・デイトナ

突然の引退とその後[編集]

この頃エンジン供給で深い関係にあったフォードは、デイトナと同時期にデビューしたGT40のル・マンでの惨敗に落胆し、フェラーリ打倒をシェルビーに託すことを決定。デイトナによるレース活動を停止し、GT40を使用した活動に専念するよう指示した。プロトタイプクラスのGT40はデイトナよりも格上の存在だが、レース中の故障が非常に多く、ここまでの成績はデイトナよりも圧倒的に劣っていた。シェルビーによる改良を受けたGT40・MkIIは1966年からル・マン4連覇を達成し、対照的にデイトナはひっそりと表舞台から姿を消していった。

1965年11月、ボンネビル・ソルトフラッツにおいて23の新記録を達成(CSX2287)した後、コブラ・キャラバンとして全米をツアーするなど、レーシングカーとしての使命を終えた。

シェルビーは6台の売却を試みたが、数々のレースでボロボロになった車両に買い手はつかなかった。エンジンとトランスミッションは取り外され、数年間はガレージに放置されていたが、やがて何台かが4,000ドル前後で売却された。ちなみにポルシェ・911のアメリカでの新車価格が6500ドルだった時代である。

このうちの1台(CSX2300)を日本人レーサー酒井正が購入し、1966年から1967年までNAC(日本オートクラブ)主催レース、第3回日本グランプリ等に少なくとも8度出場、船橋サーキットにおいて2度、鈴鹿サーキットと富士スピードウェイで各1回の優勝を記録している[1]。また、1968年には別のドライバーにより第5回日本グランプリにも出場した。1969年の「第2回東京レーシングカー・ショー」にも展示された。その後1970年代にキャロル・シェルビーに買い戻されてレストアを受けた。 2000年カリフォルニア州モントレーオークションで400万ドルという、当時のアメリカ製の自動車の最高値を記録した。現在はドイツのコレクターが所有し、ヒストリックカーイベントなどにしばしば姿を現す。

1965年のデイトナ24時間とドイツGPで2位に入賞したCSX2602は別の日本人コレクターの元にある。

シェルビー・デイトナ(レプリカ)

2004年のル・マン・クラシックと2007年のグッドウッド・リヴァイヴァルにおいて、ボンデュラントの運転でCSX2299がお披露目された。このCSX2299は6台の中でも最も輝かしい成績を残した車両である。

2009年8月15日、モントレーの競売にてCSX2300の記録を上回る750万ドルでCSX2601が落札された。

デザイン上の特徴[編集]

当時はまだ風洞を安易に使用できる状況ではなかったこともあり、ピート・ブロックのアイデアが全面的に反映されている。巨大なエンジンをフロントミッドシップに納めるべく、極めてロングノーズでショートデッキ。また、直接のライバルだったフェラーリ・250GTOの影響が随所に見られる。リアをばっさり切られたコーダトロンカは当時のレーシングカーデザインの最先端であった。このボディにより、ACコブラを30kmも上回るトップスピードを得ることが出来た。1969年にデビューした初代フェアレディZジャガー・Eタイプのデザインを参考にしているが、結果的にデイトナにより似ている。

行方不明になったプロトタイプ[編集]

最初に製造されたプロトタイプCSX2287は1964-1965年にヨーロッパを転戦、ボンネビル、コブラキャラバンを経て引退。ベニスビーチのガレージで埃を被っていたところを、ジム・ラッセルに4,500ドルで買い取られた。ストリート用に最低限のモディファイを受け、約1年後にビートルズとの関係で知られるフィル・スペクターに12,500ドルで売られた。

フィルはロサンゼルスでCSX2287を乗り回していたが、車内は蒸し風呂のように熱く、レーシングカーそのもののスパルタンさに辟易としていた。また、スピード違反を幾度となく犯したため、弁護士から800ドルで部品取り車にすることを薦められた。快適なストリートカーにするにはかなりコストがかかるとも言われており、フィルはついに所有を諦めることにした。そしてボディガードのジョージ・ブランドに1,000ドルで売却、これがその後のCSX2287の運命を決定づけることとなる。

ジョージは自分の娘、ドナ・オハラにCSX2287を譲渡。彼女は何度も手放そうとしたが、買い手はつかなかった。1982年の離婚後にドナは隠遁生活に入り、車両をレンタルガレージに隠した。時を経るにつれて車両の買取を掛け合う者も現れたが、彼女はすでに狂気じみていた。この時期にキャロル・シェルビーも買取を試みたが「全く話にならなかった」と後年に述べている。

20年以上の間、行方知れずになっていたCSX2287をコレクター達は必死で探し回ったが、CSX2287は南カリフォルニアのどこかに隠されているという噂だけが囁かれ、ドナが所有していると希望的に信じられてはいたが所在不明で幻の存在であった[2]。2000年10月22日、ドナはロサンゼルス郊外の橋の下でガソリンを被って焼身自殺[3]し、2001年に南カリフォルニアアナハイムのレンタルガレージから車両が発見された。ガレージの家賃は長く滞納されていた。

ドナの母親は希少車ディーラーのマーティン・アイアーズに300万ドルでCSX2287を売却したが、焼身自殺の直前に車両とレンタルガレージの鍵を譲り受けたとドナの幼馴染が主張、訴訟にまで発展した。更にフィル・スペクターも、譲ったのではなく保管を依頼しただけと主張した。その後、キャロル・シェルビーが400万ドル近くで購入しようとしたがアイアーズは別のコレクターに(おそらくもっと高額で)売却、現在は完全にレストアされてフィラデルフィアSimeone Foundation Automotive Museum に展示されている。YouTubeなどで現在の様子を見ることが出来る。

レプリカ[編集]

デイトナ・スポーツカー

シェルビー・デイトナは現在もカリスマ的な人気を持ち、品質の優れたレプリカがいくつも作られている。これらはオリジナルの6台をはるかに上回る性能を持つ。

特にスーパーフォーマンス(SPF)のレプリカのデザインにはピート・ブロックが関わり、オリジナルよりも広い室内空間、新開発のスペースフレーム・シャシー、サスペンションもリーフ式サスペンションからダブルウィッシュボーンに変更されるなど、全面的に改良されている。エンジンはフォード・ウィンザーが搭載されるが、顧客の好みでもっとハイパワーを求めることも可能である。

このSPF製クーペは通称ブロック・クーペと呼ばれ、キャロル・シェルビーが近年公認した唯一のレプリカである。内装の作りこみがしっかりされており、500馬力以上のFRスポーツカーとして、シボレー・コルベットZR-1とアストンマーチン・DB9の中間の価格帯を狙ったマーケティングを可能にしている。オリジナルは完全にレーシングカーだったが、ブロック・クーペはクオリティの高い高性能スポーツカーと言える。

2006年9月8日、ツーリングカーレースで著名なピーター・ブロック(前述のブロックとは別人)がオーストラリア製レプリカであるデイトナ・スポーツカーラリーイベントに参加。コースアウトして木に衝突、故人となっている。

ファクトリー・ファイヴ・レーシングはFFRの略称で知られ、彼らのACコブラレプリカはアメリカで最も売れているキットカーである。FFR製のデイトナレプリカは65クーペという名称を持ち、ブロック・クーペよりもスパルタンな作りが目立つ。内装はオリジナル同様にシンプルで車重もブロック・クーペより150kg以上軽い。組み立てはキット購入者が個人で行わなくてはならない。エンジン、トランスミッション、ホーシング等はフォード・マスタングから容易に移植できるが、もちろん任意のパーツを組み合わせても構わない。オリジナルとはもちろんのこと、ブロック・クーペと比べてもかなり安価なために人気が高い。エアコンや電動パワーステアリングなどのオプションも用意されている。以前はロードスター仕様もあったが、不人気で40台程度で製造を中止した。

ROUSH製のエンジン

フォード・シェルビーGR-1[編集]

2005年にフォードとシェルビーはFord Shelby GR-1フォード・シェルビー・コブラ・コンセプトとともに発表した。

レプリカ製造者の一覧[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]