ザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビートルズ > ザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)
ザ・ビートルズ日本公演
公演が行われた日本武道館
ジャンル 特別番組音楽番組
出演者
製作
制作 日本テレビ
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1966年7月1日 (1966-07-01)
放送時間金曜21:00 - 21:56
放送分56分
回数1
ビートルズ日本公演!今世紀最初で最後たった1度の再放送
放送期間1978年10月12日 (1978-10-12)
放送時間木曜19:30 - 20:54
放送枠木曜スペシャル
放送分84分
回数1
テンプレートを表示

ザ・ビートルズ日本公演』は、ビートルズ東京を訪問して行った日本武道館公演(1966年6月30日 - 7月2日)のうち7月1日の昼の部を日本テレビが録画し、同日21時[注 1]から1時間番組として放送した音楽番組[1]

視聴率は56.5パーセントを記録した(ビデオリサーチ・関東地区調べ)[2]。これは2007年9月現在も特別番組の視聴率日本最高記録である。 1978年(昭和53年)に『ビートルズ日本公演!今世紀最初で最後たった1度の再放送』として放映されたものは1966年6月30日の夜公演であり、再放送ではない。[要出典]

概要[編集]

この番組は日本テレビ(以下NTV)と中部日本放送(以下CBC)、当時まだアメリカ合衆国の施政権下にあった沖縄の琉球放送を含めた日本各地の31社の計33局をネットして放送された。NTVとの同時ネットは読売テレビ(YTV)など15局で、その他の局が遅れネットで放送した。この番組は2インチの放送用カラーVTRで収録され[注 2]、同時ネット局は一部の局を除きカラー放送だったが[3]、遅れネットの局はモノクロ放送であった局が多かった[4](ネット局は#放送していた局を参照)。

番組内容は大きく3部に分かれ、冒頭の7分間はドキュメンタリーで、E・H・エリック(公演の司会者)とビートルズのメンバーによる対談やメンバーのホテルでの様子が紹介された。続いて公演の録画が放映され、まず日本人出演者らによる前座の演奏、そしてビートルズのコンサートの模様という構成である。なお、ビートルズの出演部分はノーカットで放映された[5]。当時ビートルズはコンサート活動に嫌気がさしていた時期に入っていたこともあってか、公演で演奏された全11曲のほとんどが、実に散漫な歌い回しだった。そのため賛否両論があり、失望した熱狂的ファンも多かった[注 3]

とはいえ、ビートルズのコンサートが鮮明なカラーのVTR映像で残っているのは歴史的財産であり、現在ではNTVや、ビートルズの版権を管理するアップル・コアがカラーVTRを保管するほどの貴重な映像遺産として扱われている。

この番組のテーマ曲には「ミスター・ムーンライト」が使われた。番組のオープニングで羽田空港に到着した4人の乗った自動車が夜明け前の高速道路を疾走するのを映し出しつつ、突然この曲が流れたことは視聴者に強い印象を残し、リアルタイムで観たファンの目と耳に焼き付いて離れないほどだった。この曲が選ばれた理由はイントロのない曲を探した結果、同曲しかなかったからとのことである。[要出典][注 4])。

日本公演および当番組のスポンサー「ライオン油脂」と「ライオン歯磨」(現在は統合されてライオン)の看板が日本武道館に掲げられていた。なおライオン歯磨は公演に先立ち、自社製品「ダイヤフッソライオン」(練歯磨)や「バン」(制汗剤)の空き箱を送ると、抽選で公演チケットが当たる懸賞を行っていた[注 5]

日本公演における曲目[編集]

  1. ロック・アンド・ロール・ミュージック
  2. シーズ・ア・ウーマン
  3. 恋をするなら
  4. デイ・トリッパー
  5. ベイビーズ・イン・ブラック
  6. アイ・フィール・ファイン
  7. イエスタディ
  8. アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン
  9. ひとりぼっちのあいつ
  10. ペイパーバック・ライター
  11. アイム・ダウン

(※番組のテーマ曲として「ミスター・ムーンライト」が使用された)

放送していた局[編集]

ビートルズの日本公演は読売新聞社とCBCの主催で行われた[注 6]。このため、読売新聞社の系列局である日本テレビとCBCの系列キー局であるTBS[注 7]との間で放映権を巡る争いが起こった。

CBCは早い段階からTBS制作で公演の中継準備に取りかかったのに対し、日本テレビは読売新聞を通じてCBCと変則ネットを組む案を出した。日本テレビの案に対してはTBSと当時の名古屋の日本テレビ系列局である名古屋放送[注 8]が「ネット協定に違反するものだ」として反対した[7]。結局、1966年5月20日に日本テレビが放映権を獲得、ただし名古屋地区はCBCが主催者であることを考慮して、CBCで放映することになった[8][注 9]

●=日本テレビ系、△=TBS系、☆=フジテレビ

再放送[編集]

1978年10月12日午後7時30分〜8時54分に、NTV系21局で『木曜スペシャル』枠内で「今世紀、最初で最後、たった一度の“再放送”」と銘打たれ、ビートルズのヒストリーなど、1965年8月15日に行われたシェアスタジアム公演の模様とともに放送された[注 11]

またこの放送では前座の模様も初めて放送されたが、1966年の当時放送されたのは初日の6月30日ではなく、翌日の7月1日の模様を放送したため正式には再放送とはならない。7月1日の公演の模様のマスターテープはマネージャーのブライアン・エプスタインが持ち帰ったため、日本には6月30日のテープが残された。しかし、武道館内に張られていた企業看板(ライオン。『木スペ』には同業者の花王石鹸がスポンサーの一つだった)は放送に写らないようにとの契約だったため、ライブ中画面が引きで撮影された際に企業看板が写っていたため、1978年の放送では写らないようにトリミング処理をされて放送された。

この2年後の1980年ポールが来日公演を行うために来日したが、大麻を所持していたため全公演が中止となり「ファンへの慰め」を兼ね、同年2月9日に新たなビートルズヒストリーを製作し、6月30日の模様が放送された。このため今回の放送で6月30日の公演は本当の意味での再放送となり、ライブをノーカットで放送するのもこれが最後となった。

1988年にマイケル・ジャクソンの日本公演が放送されるキャンペーンとして、エルヴィス・プレスリーの『アロハ・フロム・ハワイ』の再放送とともに当時の技術を使用して6月30日の公演をリマスターし、番組内でオリジナル映像と当時の最新画質改善映像を比較するシーンも放送された。この1988年の放送が現時点では最後の放送となっている。

その他[編集]

NTVでは、日本公演の全5公演のうち、この7月1日の昼の公演と6月30日の夜の部の計2公演を、2インチのカラーVTRにて収録している(詳細は、ビートルズ#日本公演を参照)。

参考文献[編集]

  • 大村亨『「ビートルズ」と日本 熱狂の記録 -新聞、テレビ、週刊誌、ラジオが伝えた「ビートルズ現象」のすべて-』シンコーミュージック・エンタテイメント、2016年。ISBN 978-4-401-64281-6 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この枠は通常は1時間ドラマ枠であるが、前週の6月24日に『明治天皇』(第1部。YTV制作)が終了し、翌7月8日より『赤ちゃん誕生』(松方弘樹主演版。YTV制作)が始まっていた。『明治天皇』の提供も当番組と同じライオンだった。
  2. ^ NTVでは1959年11月中旬に、日本で初めて2インチのカラーVTRを導入し(購入当初は米RCA社製の輸入品だった)、直ぐに運用を開始しており、この日本公演も2インチカラーVTR(ローバンド方式かハイバンド方式かは不明)で収録された。
  3. ^ 楽しみにしていたファンの中には「こんなの、ビートルズじゃない!!」とがっかりした人(この中にはのちにビートルズ研究の一人者として知られる香月利一がいた)や、また、ビートルズの曲とはどういうものか拝聴するという目的で見たまじめな学生の中には、あまりの散漫な内容に途中でNHK教育テレビの『ヨハン・シュトラウスの夕べ』という番組に切り替え「音楽とはヨハン・シュトラウスのようなものを指すのだ。レコードで聴くビートルズは音楽を感じさせてくれるが、この日のテレビでの演奏は音楽といえない」と新聞に酷評を投書した人もいたという[6]
  4. ^ しかしながら当時、ビートルズがすでにリリースしていた楽曲としては、たとえば日本公演でも演奏された「I'm Down」「It Won't Be Long」「All My Loving」「Can't Buy Me Love」などの楽曲もイントロがない。
  5. ^ 2017年に放送された連続テレビ小説ひよっこ』では、ビートルズ日本公演と懸賞を取り上げ「ダイヤフッソライオン」を「ダイアナ歯磨」として描いている。
  6. ^ 読売新聞社とCBCは、中日新聞社(CBCの出資者であり、読売新聞社が名古屋へ進出するまでは編集協定を結んでいた)を通じて以前から関係があり、東京でのキー局(NTVとは別の法人。ペーパーカンパニーで終わった)を設立するために手を携えたこともある。
  7. ^ この当時、読売新聞社はTBSにも出資していた。
  8. ^ 名古屋放送は中京テレビ開局後も1973年3月まで日本テレビ系列局であった。
  9. ^ なお、名古屋放送は当番組が放送していた金曜21時台は日本テレビとの同時ネットではなかった[9]
  10. ^ 岡山県でも主要都市部では直接受信や共聴設備を用いて視聴できたため、当時の岡山県の唯一の民放テレビ局である山陽放送(現・RSK山陽放送)にはネットされなかった。
  11. ^ なお、その前週の10月5日放送の回顧特番『力道山からピンク・レディーまで テレビ25年総集編』でも当番組が放送、2週連続してビートルズ関連特番が放送された事となった。

出典[編集]

  1. ^ 日本テレビ放送網株式会社社史編纂室 編『大衆とともに25年 写真集』日本テレビ放送網、1978年8月28日、104頁。NDLJP:11953800/62 
  2. ^ 引田惣弥 (2004). 全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した. 講談社. p. 2, 94, 223. ISBN 978-4062122221 
  3. ^ a b c d “ビートルズの放送詳細きまる”. 読売新聞: p. 7. (1966年6月22日) 
  4. ^ 広島テレビは遅れネットながら新聞の番組表に「カラー」表示があった(出典:1966年7月4日、産経新聞・岡山版、中国新聞、各テレビ欄)。
  5. ^ 大村 2016, pp. 330–331.
  6. ^ 週刊TVガイド『テレビ50年 in TVガイド』東京ニュース通信社、2000年12月10日、88頁。ISBN 4924566101 
  7. ^ 大村 2016, p. 214.
  8. ^ 大村 2016, p. 219.
  9. ^ “電波に乗るビートルズ”. 読売新聞: p. 7. (1966年6月10日) 
  10. ^ 中部日本放送『中部日本放送50年のあゆみ』2000年、135頁。 
  11. ^ 大村 2016, p. 525.