ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー

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ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー
زين العابدين بن علي
Zine El Abidine Ben Ali.jpg

任期 1987年11月7日2011年1月14日

任期 1987年10月2日1987年11月7日
元首 ハビーブ・ブルギーバ

任期 1994年6月13日1995年6月26日

出生 1936年9月3日(78歳)
チュニジアの旗 チュニジアハンマーム・スーサ
政党 立憲民主連合

ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー(Zine El Abidine Ben Ali زين العابدين بن علي‎, 1936年9月3日 - )は、チュニジア共和国政治家軍人。大将。1987年より23年以上にわたって同国第2代大統領を務めたが、2011年1月14日にサウジアラビアへ亡命、政権は事実上崩壊した。日本語ではジン・アビディン・ベンアリの表記も見られる。

経歴[編集]

ハンマーム・スーサ出身。男子6人、女子5人の大家族で育った。スーサの中学校で学び、上級生になると独立運動に加わった。ベン・アリーは、青年組織に入り、社会主義ドゥストゥール党の支部間の連絡係となった。数回逮捕され、刑務所に入れられ、尋問された。

チュニジア独立後、国軍の中核メンバーとして召集され、フランスサン・シール陸軍士官学校に留学した。後にフランスのシャロン・ナ・マルヌ砲兵学校、アメリカの情報・保安学校、防空学校でも学んだ。

1958年からチュニジア軍参謀本部で勤務。最後の軍歴は、軍事保安局長だった。1974年、駐モロッコ駐在武官に任命。1977年、帰国後、国防相官房長となった。同年12月、国家保安局長官に任命。

1980年4月、駐ワルシャワ大使に任命。帰国後、1984年1月、国家保安局長官に再任。同年11月、国家安全保障問題担当国家書記に任命。1986年4月28日、内務相に任命。

1986年6月、与党社会主義憲政党第12回大会において、政治局員に選出されると同時に、副書記長となった。1987年中盤、内閣改造の際、ハビーブ・ブルギーバは、ベン・アリーを首相(兼内務相)に指名し、事実上の後継者とした。また、社会主義ドゥストゥール党書記長ともなった。

大統領[編集]

1987年11月7日、ハビーブ・ブルギーバは退任し、ベン・アリーが大統領に就任した。最初の演説において、ベン・アリーは、国民に「信頼、安全、平穏な状況」での新体制への協力を呼びかけ、「祖国の独立、その進歩の維持」が全国民の責務であり、各人は「責任ある民主主義」の枠内において、「国民主権」を尊重して国家を統治しなければならないと表明した。この表明は、後に「11月7日宣言」と称され、ベン・アリーの改革の始まりとされた。

ベン・アリーは、市民の自由の拡大の方針を採り、ジハード・アル=イスラーム、イスラム方面運動等の過激派も含めて、政治犯全員を釈放した。また、国家保安事件裁判所が廃止され、共和国検事総長のポストも廃され、容疑者の拘留期間は4日間に制限された。1988年7月、アラブ諸国初の拷問等禁止条約批准国となった。

1988年、与党社会主義憲政党は、立憲民主連合に改称され、社会の民主化、多元主義の尊重、法治国家の建設を宣言した。立憲民主連合第1回大会前、ベン・アリーは内閣改造を行い、前体制の閣僚数人を更迭した。党大会では、政府と党を分離することが決定された。

改革の次のステップとなったのは、政府、政党、社会団体、職業組織間の関係を規定する国民条約だった。ベン・アリーの言葉によれば、国民条約は政府プログラムや何らかの連合体を創設するものではなく、憲法や現行法を変えるものではない。ベン・アリーは、自分の正当性を主張するために、大統領選を期限前(1989年4月。任期は1991年まで)に行い、国民の審判を仰ぐことに決めた。

大統領選挙において、ベン・アリーは国民の圧倒的多数の支持を得て大統領に再選された。同時に行われた議会選挙では、与党立憲民主連合は141議席を占めた。この選挙結果により、フランスの社会政治研究センターは、ベン・アリーを「今年の人」と呼び、「民主主義・人権」国際賞を彼に授与した。以後、再選を重ね、2009年10月25日の大統領選挙では89.62%の票を獲得し5選された。

23年間もの長期政権を維持したが、2010年末頃より高い失業率や物価の高騰などを背景とした国民の不満がデモとなって噴き出し、2011年1月13日に次期大統領選挙への不出馬を、翌日には総選挙前倒しを表明し事態を収拾しようと試みたが収まらず、同日中にチュニジアを脱出。サウジアラビアに亡命し政権は崩壊[1]した。その後、チュニジアにて公金横領、麻薬・武器の不法所持、殺人など93にも及ぶ容疑で起訴され、本人が欠席のまま同年6月20日に初公判が開かれた[2]。ベン・アリー自身は弁護士を通じて無罪を主張し、政治的な策略に陥れられたと主張したものの[3]、その日のうちに公金横領の罪などで禁錮35年の刑が下され[4]、7月4日には麻薬や武器の不法所持などの罪でさらに禁固15年の有罪判決を受ける[5]など、合計で66年もの懲役刑が下っている[6]。また一連の反政府運動においてデモ鎮圧を軍に命じ参加者を多数死亡させた容疑に関しては死刑が求刑され、2012年6月13日に終身刑判決が言い渡されている[7]。しかし、サウジアラビアがベン・アリーの身柄引き渡しに応じる可能性は低く、実際に刑が執行されることはないと推測されている[6]

パーソナル[編集]

独立勲章と共和国勲章を受章。

1996年7月に来日している。

出典[編集]

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリーに関するメディアがあります。


外交職
先代:
ホスニー・ムバーラク
アフリカ統一機構議長
第32代:1994 - 1995
次代:
メレス・ゼナウィ
公職
先代:
ハビーブ・ブルギーバ
チュニジアの旗 チュニジア共和国大統領
第2代:1987 - 2011
次代:
モハメッド・ガンヌーシ
(暫定)
先代:
ラシード・スファル英語版
チュニジアの旗 チュニジア共和国首相
第5代:1987
次代:
へーディー・バクーシュ英語版