サハリントンネル

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サハリントンネルの位置

サハリントンネルロシア語: Сахалинский тоннель)は、未完成で建設計画は延期されているものの、完成すれば間宮海峡のもっとも狭い部分、ネヴェリスコイ海峡の下を通ってロシア本土とサハリン(樺太)の間を結ぶことになる全長約10 kmトンネルである。2009年1月16日、ロシア政府はこの区間をトンネルではなく橋によって完成させる可能性があると示唆した[1]。また、2013年にはロシア極東発展省が、この区間の橋の建設を2016年に着工する方針を明らかにした[2]

歴史[編集]

初期の提案と計画[編集]

セリヒノ-サハリン線
STR
バイカル・アムール鉄道コムソモリスク・ナ・アムーレ方面
BHF
セリヒノロシア語版
xABZrf
バイカル・アムール鉄道ソヴィエツカヤ・ガヴァニ方面
exDST
Machtovy
exWBRÜCKE
Bimil
exDST
Oktyabrsky
exWBRÜCKE
Aksyan
exWBRÜCKE
Khalsan
exDST
Nizhnetambovskoye
exWBRÜCKE
Shelekhova
exKDSTe
チョールヌイ・ミス
exLUECKE
exSTR
計画中
exDST
ラザレフ
exTUNNELa
tWSTR
ネヴェリスコイ海峡
ハバロフスク地方/サハリン州境界
exTUNNELe
exSTR
計画中
exLUECKE
exSTRrg
オハ方面
KBHFxa
ノグリキ
STR
ユジノサハリンスク方面

ネヴェリスコイ海峡の下にトンネルを造るという考えは19世紀から存在していたが、経済的な理由から真剣に取り組まれたことはなかった。この計画の実現可能性調査は1930年代末にソビエト連邦によって初めて取り組まれたが、第二次世界大戦のためにこの時期の進展は不可能であった。ヨシフ・スターリンは1950年に、鉄道連絡船土手道あるいはトンネルによりサハリンと鉄道連絡を果たす意図があることを発表した。1950年5月5日にソ連政府は、トンネルを建設する決定を発表し、またそれまでの一時的な連絡手段として鉄道連絡船を運航することも発表した。この計画は主に、サハリン島に駐屯している赤軍部隊のために本土とサハリンの間の連絡を改善するという、軍事目的を果たすように意図されていた。

建設[編集]

コムソモリスク・ナ・アムーレ近くのセリヒノロシア語版からトンネルの本土側の入口となるラザレフ岬までを結ぶ鉄道の建設は内務省に割り当てられ、トンネル自体は運輸省が担当することになった。1952年にプロジェクト全体の管理が内務省に移管された。

サハリンにおいて計画されたルートは、トンネルの出口となるポギビ岬ロシア語版からその当時サハリンの鉄道網の北端でスミルヌイフの北約10 kmにあるポベーディノ(日本統治時代の古屯駅)まで327 kmが予定されていた。ポギビ岬とラザレフ岬の間のトンネルの長さは約10 kmと計画されていた。本土では、現在はバイカル・アムール鉄道の一部であるコムソモリスク・ナ・アムーレとソヴィエツカヤ・ガヴァニを結ぶ路線まで鉄道が建設されることになっていた。

プロジェクトは1953年末までには完成し、1955年末までには通常運行が開始される予定となっていた。この路線での貨物輸送は年間400万トンに達すると計画されていた。

プロジェクトは3つの建設計画に分割されていた。本土における鉄道とサハリンにおける鉄道でそれぞれ建設507、建設505とされ、またトンネル自体は建設506とされていた。鉄道とトンネルの性能はとても貧弱なもので、実際のところ一時的なものにすぎず、完成後に本格的な改良が必要であった。

グラグの囚人が大部分の建設を行った。主な収容所はサハリンのティモフスコエ英語版と本土のデ=カストリに置かれていた。1953年初頭の段階で、27,000人以上の囚人がこのプロジェクトで働いていた。特にサハリンにおいては、必要なインフラや技術に欠けていたため強制労働者たちの状況は劣悪なものであった。スケジュールがきつかったため、強制収容所の状況はとてもひどく、ソ連政府の公式の収容所の基準を大きく下回るものであった。

トンネル工事はもう1つの特徴があった。トンネルは、軍の技術者やメトロストロイ(地下鉄建設企業)のトンネル専門家、適任とされて大赦を受けたグラグの収容者などが建設を行った。

スターリンの死去後、このプロジェクトの工事は中止された。トンネルは伝えられるところによると海峡のほぼ半分のところまで来ていたとされていたが、後の調査によればトンネルボーリングマシンのための2本の立坑が掘られただけであったことが示されている。計画が中止となった理由は完全に明らかとなってはいないが、スターリンの死去後多くの大赦が囚人に与えられたため、必要な労働力を確保できなくなったことを示唆する資料もある。トンネル建設工事の労働者は中止までに8か月待機していたが、トンネルに接続する鉄道がなくては、トンネル自体も意味がないものであった[3]

計画のうち完成した区間[編集]

アムール川の右岸に沿ってセリヒノからチョールヌイ・ミスロシア語版までの約120 kmの線路が完成していたが、ラザレフ岬に計画されていたトンネルの入り口まではまだ届いていなかった。セリヒノ - チョールヌイ・ミス間の鉄道は後にソ連の森林産業によって木材輸送に使用されたが、1990年代に閉鎖され線路の大半は撤去された。

トンネル入口の残骸はラザレフ岬近くで今でも見ることができる。サハリンでは新しい線路は敷設されなかったが、計画されていた路線で準備されていた土工はニシュロシア語版ポギビロシア語版の間の道路建設に転用された。

現在の運行状態と将来の見込み[編集]

1973年から、大陸側のソヴィエツカヤ・ガヴァニ近くのワニノとサハリンのホルムスクを結ぶ鉄道連絡船が運航されている。

ソ連崩壊後でも、政治家からこの計画の復活の声が何度も上がっているが、費用が利益を上回ると見込まれる問題がある[4]。しかし、2008年11月のロシア大統領ドミートリー・メドヴェージェフによる支援声明を含め、この路線に関して真剣な検討が行われているという兆候がある[5]。この計画は2030年までに完成させることが提案されている。

新しい計画ではサハリン側では、サハリンの鉄道網につながっているノグリキへつなぐことが考えられている。かつての日本統治の名残である狭軌の鉄道をロシア標準の広軌改軌が進められている[6]

また、サハリンの南端と日本の北海道の間を、約40 kmのトンネルまたは橋を建設する提案(宗谷トンネル)もあり、これにより日本とアジア大陸やヨーロッパを直接結ぶコンテナ輸送を実現しようというものがある[7][8]

2009年1月16日、運輸副大臣のアンドレイ・ネドセコフは宗谷トンネルについて現在検討中であると確認した。こうした計画では、サハリンと大陸の間の連絡についてはトンネルが12.4 km、橋が6.6 kmと見積もられることから、トンネルではなく橋にすることが提案されている。ロシア政府により、日本企業に対して提案を出すように求められているところである。ロシアの鉄道事業、特にサハリントンネル(または橋)の建設コンソーシアムメンバーに加わるように日本企業を招くという彼の決断は、将来に向けたロシアと日本の鉄道での協力につながると考えられている[1]

2013年6月3日にはロシアの極東発展省が、サハリン島と大陸を結ぶ橋と鉄道の建設を2016年に着工する方針を明らかにした[9]。この中でイシャエフ極東発展相は「確実な交通の連絡がないことでサハリン州の経済発展が困難だった。橋の建設で大陸から(サハリンの)不凍港にアクセスできるようになる」と強調した。


脚注[編集]

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関連項目[編集]

座標: 北緯49度45分00秒 東経142度50分00秒 / 北緯49.75000度 東経142.83333度 / 49.75000; 142.83333