ゴードン・パークス

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ゴードン・パークス ワシントン大行進、1963年

ゴードン・ロジャー・アレクサンダー・ブキャナン・パークスGordon Roger Alexander Buchannan Parks, 1912年11月30日2006年3月7日)はアメリカ写真家ミュージシャン詩人小説家ジャーナリスト映画監督。彼は、ライフ誌での彼の写真エッセイと1971年の映画『黒いジャガー』の監督として最も記憶されている。

若年期[編集]

『アメリカン・ゴシック (エラ・ワトソン)』グラント・ウッドの同名の絵画のパロディ

15人兄弟の末っ子として、パークスは人種分離されたカンザス州フォートスコットの貧しい黒人の家庭に生まれた。忠実なメソジストであった彼の母親は、彼の人生に大きく影響を与え、彼女の息子が彼が黒人に生まれたことを口実として失敗を正当化するのを許さず、自信と大志と重労働の能力を彼に教え込んだ。

パークスが15歳の時、彼の母親は死亡し、彼は結婚した姉と同居するためミネソタ州セントポールに移動した。彼と彼の義理の兄はウマが合わず、彼は数週間以内に追い出された。彼は路面電車で眠り、ビリヤード場をうろついて、売春宿でピアノを弾き、白人専用のクラブで雑用係として働き、豪華列車で給仕をした。

パークスは後にコメントした。「私の母親は、私が黒人であるために何かを達成しないことについて不平を言わせなかった。彼女の態度は、『白人の少年がそれをできるなら、あなたもそれができる。そしてそれ以上のことをするまで帰って来てはいけません』というものだった」。

写真家としての経歴[編集]

エラ・ワトソンと彼女の家族。パークスの後のFSAの写真の一枚

1938年、パークスは、雑誌で出稼ぎ労働者の写真を見て強い印象を受けて、彼は最初のカメラ、フォクトレンダー・ブリリアントを質屋で7.5ドルで買った[1]。パークスの最初のフィルムを現像した写真店の受付は、彼の仕事を称賛し、セントポールにあるフランク・マーフィーの女性用衣料店でファッションの写真を撮るよう勧めた。パークスはひとつを除いてすべてのフレームを2倍露光していたが、そのショットが、ヘビー級ボクシングのチャンピオンのジョー・ルイスの上品な妻、マーヴァ・ルイスの目にとまった。彼女はパークスにシカゴへ移るように励まし、そこで彼は社交界の女性のポートレイトの仕事を始めた。

その数年間にわたって、フリーランスのポートレイトとファッションのカメラマンの副業を進展させながら、パークスは仕事をさまざまに変えた。彼は街のサウスサイドの黒人のゲットーを記録にとどめ始め、1941年、それらの写真の展示はパークスにFSAプロジェクトとの写真の親交をもたらした。ロイ・ストライカーの下で見習いとして働き、パークスは彼の最もよく知られている写真の1つ、『アメリカン・ゴシック、ワシントンD.C.』[2]グラント・ウッドの絵画『アメリカン・ゴシック』にちなんで名付けられた)を撮った。写真は、星条旗の正面で片手にほうきを持ち背景にモップを入れて硬直して立っている、FSAビルで清掃係として働いた黒人女性のエラ・ワトソンを示している。パークスは、ワシントンD.C.に到着した後、レストランや店で繰り返された人種差別に遭遇した後にこの写真を撮る発想を得た。

これを見てストライカーは、この写真はアメリカの告発で、他の写真家すべてをクビにしたっていいと言った[3]。しかし彼はワトソンの写真を撮り続けるよう促し、それは彼女の日常の一連の写真に通じた。パークス自身は後に、最初の写真はあからさまでやり過ぎだったと言った。それにもかかわらず、他の解説者は、その論争の本質と、その犠牲者と生存者の二重性から強さを得たので、彼のその後のワトソンの写真よりもはるかに多くの人々に影響したと主張してきた[4]

FSAが解散した後、パークスは戦争情報局の通信員としてワシントンに残ったが、1944年に、彼が遭遇した偏見にうんざりするようになり辞職した。ハーレムに移動して、パークスはヴォーグ誌のフリーランスのファッション・カメラマンになった。彼は後にストライカーを追って、小さな町と工業中心地の写真を撮る写真家を選任したスタンダード・オイル写真プロジェクトに参加した。パークスのこの時期の最も印象的な作品には、「Dinner Time at Mr. Hercules Brown's Home, Somerville, Maine」(1944年)、「Grease Plant Worker, Pittsburgh, Pennsylvania」(1946年)、「Car Loaded with Furniture on Highway」(1945年)、「Ferry Commuters, Staten Island, N.Y.」(1946年)がある。

パークスはファッション界での写真の仕事を新たに探し始めた。当時の人種差別的な態度にもかかわらず、ヴォーグ誌編集者のアレクサンダー・リーバーマンは、イブニングガウンのコレクションを撮るために彼を雇った。パークスはヴォーグ誌で数年間ファッションの写真を撮った。この間、彼は彼の最初の2冊の本、『Flash Photography』(1947年)と『Camera Portraits: Techniques and Principles of Documentary Portraiture』(1948年)を発行した。

若いハーレムのギャングのリーダーを書いた1948年の写真エッセイで、パークスはライフ誌専属の写真家と作家になることができた。20年間、パークスは、ファッション、スポーツ、ブロードウェイ、貧困、人種分離、そしてマルコムXストークリー・カーマイケルモハメド・アリバーブラ・ストライサンドのポートレイトを含む、写真と記事を制作した。気管支肺炎と栄養不良で死んでいたフラビオ・ダ・シルバという貧しいブラジル人の少年を書いた1961年の彼の写真エッセイは、少年の命を救い彼の家族に新しい家を買う寄付をもたらした。

映画監督としての経歴[編集]

1950年代に、パークスは様々なハリウッドの作品でコンサルタントとして仕事をし、後にテレビ局NETから仕事を受け、一連の黒人のゲットーの生活のドキュメンタリーを監督した。

1960年代からパークスは文学に手を出し、自身の写真を挿入したいくつかの詩集と、3巻の伝記『Learning Tree』(1963年)を書いた。

1969年、パークスは自伝小説『Learning Tree』の映画化で、ハリウッドで最初のメジャーな黒人の監督になった。パークスは映画の音楽の楽譜も制作し、映画脚本を書いた。

1971年のパークス監督、リチャード・ラウンドトゥリー主演の探偵映画、『黒いジャガー』(原題Shaft)は、一連のブッラクスプロイテーション映画を量産した大きなヒットになった。超クールな革に包まれた黒人の私立探偵が、ハーレムの詐欺師の誘拐された娘を見つけるために雇われた…というパークスの設定のセンスは『黒いジャガー』で確認された。

パークスは1972年にこの続編、『黒いジャガー・シャフト旋風』(原題:Shaft's Big Score)を監督し、それは主人公が気がつくと詐欺師の敵対するギャングの中央に捕らえられていた。パークスの他の監督作品には、『The Super Cops』(1974年)、ブルースミュージシャンのレッドベリーの伝記映画『Leadbelly』(1976年)がある。

1980年代、彼はいくつかのテレビ映画と、バレエ「Martin」の音楽と台本を制作した。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアに捧げられたこのバレエは、1989年にワシントンD.C.で初演され、1990年のキング牧師誕生日に全国放送のテレビで放映された。

著作と音楽[編集]

1981年、パークスはフィクションに転向し、20世紀初頭のニューヨークで社会の荒波の中で回想の序列を苦闘して進むアイルランド系移民を描いた小説、「Shannon」を書き上げた。パークスの著作は小説、詩、自伝、写真撮影の教則本と映画制作の本を含むノンフィクションにおよんだ。パークスは"「The Funeral(葬儀)」という詩も書いた。

独学のピアニストとして、パークスは1953年に「Concerto for Piano and Orchestra」(1953年)と「Tree Symphony」(1967年)を作曲した。1989年、バレエ「Martin」の制作と指揮をし、ジャズのピアニストとしても演奏した。

私生活[編集]

パークスは結婚と離婚を3度繰り返している。長い間、パークスはデザイナーのグロリア・ヴァンダービルトとの恋愛関係にあった。ゴードン・パークスは93歳の時に癌で他界した。

参照[編集]

  1. ^ Gordon Park, bio Gale Group
  2. ^ Yvonne Shinhoster Lamb. 'Life' Photographer And 'Shaft' Director Broke Color Barriers The Washington Post. 8 March 2006.
  3. ^ Eamonn McCabe (2006年3月10日). “American beauty”. The Guardian (G2): p. 8 
  4. ^ Lawrence W. Levine (Dec. 1992). “The Folklore of Industrial Society: Popular Culture and Its Audiences”. The American Historical Review 97 (5): 1369–99. http://links.jstor.org/sici?sici=0002-8762%28199212%2997%3A5%3C1369%3ATFOISP%3E2.0.CO%3B2-C. 

外部リンク[編集]