コービー・ブライアント
| コービー・ブライアント Kobe Bryant ロサンゼルス・レイカーズ No.24 |
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| 名前 | ||||||||||||
| 本名 | Kobe Bean Bryant | |||||||||||
| 愛称 | KB24 Black Mamba(ブラックマンバ) |
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| ラテン文字 | Kobe Bryant | |||||||||||
| 基本情報 | ||||||||||||
| 国 | ||||||||||||
| 誕生日 | 1978年8月23日(33歳) | |||||||||||
| 出身地 | ペンシルベニア州フィラデルフィア | |||||||||||
| 身長 | 198cm | |||||||||||
| 体重 | 93kg | |||||||||||
| 足のサイズ | 32.0cm | |||||||||||
| 選手情報 | ||||||||||||
| ポジション | シューティングガード | |||||||||||
| 背番号 | 24 | |||||||||||
| ドラフト | 1996年 13位 | |||||||||||
| 経歴 | ||||||||||||
| 1996- | ロサンゼルス・レイカーズ | |||||||||||
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コービー・ビーン・ブライアント(Kobe Bean Bryant 1978年8月23日 - )は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。北米プロバスケットボールリーグNBAのロサンゼルス・レイカーズに所属。ポジションはシューティングガード。背番号は「24」。身長198cm、体重93kg。愛称は「Black Mamba(ブラックマンバ)」。
NBAチャンピオン5回、シーズンMVP1回、ファイナルMVP2回、歴代最多のオールスターMVP4回に輝くほか、NBA歴代2位の1試合81得点の記録を持つなど近年のNBA最高の選手の一人と目されており、現代のNBAを代表するスーパースターである。
2011-12シーズン現在、レギュラーシーズンで通算28,601得点を挙げNBA歴代5位。プレーオフでは通算5,280得点を挙げNBA歴代3位に位置している。
父親は元NBA選手のジョー・ブライアントで、母親は元NBA選手ジョン・コックスの妹であるパミラ・コックス。彼の名前”Kobe”は、父ジョーのお気に入りだったアメリカにある鉄板焼きレストラン「Kobe Steak House(神戸ステーキハウス)」に妻と行った際、”Kobe”(神戸)の名前の由来を店主に聞いた事をきっかけに両親が名前を気に入って付けられたものである[1][2]。コービー本人は1998年に生まれて初めて自身の名前の由来となった神戸に来日を果たしている。また2001年12月13日には神戸大使に委嘱された[3]。
目次 |
[編集] 生い立ち
[編集] アメリカ生まれのイタリア育ち
コービーは父親のジョー・ブライアントがNBAで3年目、フィラデルフィア・76ersに所属していた1978年に、2人の姉の弟として生まれた。ジョーはその後サンディエゴ・クリッパーズ、ヒューストン・ロケッツを渡り歩き、1983年にはNBAを離れ、大西洋を渡ってイタリアリーグに移籍することになった。父親に連れ立って一家もイタリアに引越し、6歳だったコービーはイタリアで約7年を過ごすことになる。彼の地ではサッカーが盛んなため、少年時代のコービーも周囲の子供たちと同じようにサッカーに熱中しており、ACミランの大ファンだった。コービーは後に、もしイタリアに住み続けていたらプロのサッカー選手を目指していただろう、と語っているほどである。現在でもサッカーに関するコメントは頻繁に発言しており、時折流暢なイタリア語も披露している。その一方でNBAでは目立った成績を残すことが出来なかったジョーがイタリアではトップ選手として活躍しており、ジョーに触発されたコービーは次第にバスケットボール選手を志すようになり、ジョーの練習や試合には常に付き添ってバスケットの技術と知識を培うようになった。ジョーは1991年に現役を引退。ラ・サール大学のヘッドコーチに就任が決まったため、一家は再びフィラデルフィアに舞い戻ることになる。
[編集] 高校時代
コービーはフィラデルフィアのローワー・メリオン高校に進学。長年イタリアで過ごしてきたコービーにとってアメリカは異文化の地であり、最初はその環境に馴染むことに苦労したが、3年生になる頃にはいよいよその才能を発揮し出し、このシーズンには31.1得点10.3リバウンド5.2アシストの成績を残して州の最優秀選手に選ばれる。またNBA伝説の巨人ウィルト・チェンバレンが長年保持していたペンシルベニア州の高校得点記録を更新するなど一躍注目選手となった彼のもとには、複数のNCAA名門校からスカウトが訪れるようになり、またオフシーズンに全米から優秀な高校バスケット選手が集うABCDキャンプに参加し、ここでも目覚しい活躍を見せたことで、プロからも熱い視線を受けるようになった。4年生のシーズンには母校を42年ぶりの州チャンピオンシップに導いている。
[編集] ロサンゼルス・レイカーズ
[編集] ドラフト
高校に在学中のコービーは多くのバスケット選手がそうしたように、大学への進学を考えていた。ところが彼が高校を卒業する前年の1995年のNBAドラフトでケビン・ガーネットが高校を卒業したばかりの選手としては実に20年ぶりの指名を受け、高卒選手に対してNBAへの道が拓けたことでコービーは心変わりし、NBA入りを決意。高校での最後にシーズンが終了した後、会見を開いて1996年のNBAドラフトへのアーリーエントリーを宣言した。またコービーは当時すでに引退を目前に控えていた、憧れのマイケル・ジョーダンと対戦したかった事もひとつの理由であると語っている。
前年にガーネットが全体5位という上位指名を受けたとは言え、当時はまだNBA関係者の大半が高校を卒業したばかりの選手が即プロで通用するとは思っておらず、この年のドラフト候補生の中ではコービーは特別評価の高い選手という訳ではなかった(この年のドラフト候補生にはアレン・アイバーソンやステフォン・マーブリー、レイ・アレンなど、名だたるスター候補生が揃っていた)。しかしドラフト前に行われたワークアウトでコービーの才能を見抜いていた当時ロサンゼルス・レイカーズのゼネラルマネージャーだったジェリー・ウェスト[4]がコービー獲得に動いた。ドラフト当日、コービーは全体13位でシャーロット・ホーネッツを受けるが、ウェストはホーネッツとトレードを行い、生え抜きのベテランセンターブラデ・ディバッツを放出し、かわりにコービーを獲得(このトレードはシャキール・オニール獲得のためのサラリーキャップ調整のためでもあった)。コービーは名門レイカーズの一員としてNBAのキャリアをスタートさせることになったのである。なお、レイカーズが持っていた24位指名権は、コービーと後に多くの栄光を共にするデレック・フィッシャーに行使された。またこの年のドラフトは先の3人のほか、マーカス・キャンビーやシャリーフ・アブドゥル=ラヒーム、アントワン・ウォーカー、ジャーメイン・オニール、スティーブ・ナッシュらが指名を受けており、ドラフト史上でも屈指の豊作の年と評価された。
[編集] キャリア初期
- 1996-97シーズン 才能の片鱗
ルーキーイヤーとなった1996-1997シーズンはシューティングガードの他にスモールフォワード、ポイントガードもこなしたが出場時間は約15分とまだ少なく、このシーズンは平均7.6得点の成績に終わった。それでも随所で才能の片鱗は見せており、1月28日のダラス・マーベリックス戦では故障者が続出したことも手伝って初めて先発に抜擢され、18歳と158日で当時のNBA先発出場最年少記録を塗り替えた。またオールスター・ウィーク・エンドではスラムダンクコンテストに出場し、レッグスルーダンクを決めコチラも見事にNBA史上最年少での優勝を果たした。その他、ルーキーチャンレジでも当時の歴代最多得点となる31得点をあげている。
- 1997-98シーズン スター選手の仲間入りへ
2年目の1997-1998シーズンになると出場時間も増え、その才能を発揮し始める。そのプレーはファンの心を掴み、ベンチスタートであったが、試合途中に交代で出場すると大きな歓声が起こり、多くのファンがいたことがうかがえた。コービーの活躍もあってチームは61勝21敗の好成績を残し、コービー自身もシーズン途中までは平均20点近い得点を挙げ、シックスマン賞受賞は確実と目されていたが、シーズン後半に調子を落とし(最終成績は15.4得点)、記者投票では2位に終わっている。さらにこの年のNBAオールスターゲームではファン投票によりNBA史上最年少でオールスター選出され、プロ2年目、弱冠19歳でスターの仲間入りを果たすが、試合では独りよがりなプレーが目立ち、コービーの好戦的な”性格”が表沙汰になったのはこの頃からだった。
- 1998-99シーズン シャックの存在
ロックアウトで50試合に短縮された1998-1999シーズンにはリック・フォックスから完全に先発を奪い、成績を19.9得点5.3リバウンドまで伸ばして初のオールNBA3rdチームに選出される。名実共にリーグトップレベルの選手に成長したコービーだったが、彼の活躍が増すごとに、レイカーズの大黒柱、シャキール・オニール(以後シャック)との摩擦も大きくなり、2人の”不仲説”が公に報じられるようになった[5]。この頃のレイカーズはレギュラーシーズンこそ高い勝率を残すもののプレーオフでは敗退を繰り返しており、1997-98シーズンにはユタ・ジャズに、そしてこの年もティム・ダンカン、デビッド・ロビンソンのツインタワーを擁するサンアントニオ・スパーズに2年連続でスウィープ負けを喫していた。
[編集] 三連覇時代へ
- 1999-00シーズン フィル・ジャクソンの就任、初優勝へ
なかなか優勝に手が届かないレイカーズは新シーズン開幕を前にチーム改革に踏み切った。最も大きな動きは、コービーもその招聘を待望していたシカゴ・ブルズを2度の三連覇に導いたフィル・ジャクソンのヘッドコーチ就任だった。彼の指導により、コービーとシャックは少なくともコートの中では共存の道を見つけることが出来るようになった。またベテランのロン・ハーパーらが加入してロスターも大幅に入れ替わり、レイカーズは新たな指導者と新たな陣容で新シーズンを迎えた。
1999-00シーズンが始まるとレイカーズは快進撃を開始。終わってみれば史上でも屈指の勝率となる67勝15敗の成績だった。コービー自身も初のアベレージ20得点越えとなる22.5得点6.3リバウンド4.9アシストを記録し、オールNBA2ndチームに選出された(シャックはシーズンMVPを受賞)。またディフェンス面での大幅な改善も見られ、NBA史上最年少でオールディフェンシブ1stチームにも選ばれるなど、攻守共にハイレベルなスーパースターへと成長した。プレーオフではライバルチームのサクラメント・キングスやポートランド・トレイルブレイザーズの前に思わぬ苦戦を強いられるも、カンファレンス決勝は第7戦でのコービーの25得点11リバウンド7アシスト4ブロックという活躍もあってブレイザーズを4勝3敗の末に降し、念願のNBAファイナル進出を果たす。
ファイナルではレジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズと対戦。コービーにとっては夢にまで見た大舞台だったが、第2戦で足首を捻挫してしまい、第3戦はベンチから試合を見守るという屈辱を強いられた。レイカーズはコービー不在でもシャックがコートで大いに暴れ回り、最初の3試合を2勝1敗とシリーズを優位に進めた。最高の舞台を目の前に居ても立っても居られなくなったコービーは、怪我も癒えぬうちに第4戦に強行出場した。試合は接戦となり、延長に突入。オーバータイムではこの日ファウルトラブルに陥っていたシャックがついにファウルアウトに追いやられたが、足を引き摺ったままプレイを続けるコービーがオーバータイムのチームの得点の殆どをあげるという活躍を見せ、レイカーズを勝利に導いた。レイカーズはその後4勝2敗でペイサーズを降し、レイカーズにとっては1988年以来の優勝を決めた。コービーにとっては4年目にして初の優勝となった。
- 2000-01シーズン 二連覇へ
チャンピオンチームとして迎えた新シーズンもコービーは平均28.5得点をあげるなど絶好調で、私生活ではプレーオフを前にした4月に電撃結婚するなど嬉しい話題もあった。チームは56勝26敗と前年ほどではなかったが、プレーオフに入れば1回戦からカンファレンス決勝までの全シリーズを全勝で勝ち抜くという圧倒的な強さでファイナルに進出。ファイナルではコービーとは同期であるアレン・アイバーソンのフィラデルフィア・76ersと対決し、4勝1敗で降して連覇を達成した。
- 2001-02シーズン 傷心の地元でのオールスター、三連覇へ
連覇を果たし、オールNBAチームなどにももはや常連となっていたコービーだが、過去2年は故障にも苦しみ、1999-00シーズン、2000-01シーズンは2年連続で出場回数は60試合代に留まっていた。しかしこのシーズンにはキャリアで初めて80試合に出場し、成績も25.2得点5.5アシストと高水準を維持。オールNBAチームでは初の1stチームに名を連ねた。出身地であるフィラデルフィアで開催されたオールスターでは自身初のMVPを受賞。しかし前季のファイナルで地元のチーム76ersをレイカーズが破っているため、オールスターにファイナルの感情を持ち込んだ観客から心無いブーイングを食らってしまい、コービーにとって地元でのオールスターは傷心のMVPとなってしまった。プレーオフでは3年連続でファイナルに進出し、ジェイソン・キッド率いるニュージャージー・ネッツと対決。4戦全勝という最高の形でシリーズを制し、ついに三連覇を達成した。当時23歳だったコービーは、3回の優勝を経験した史上最も若い選手となった。
[編集] 王朝の揺らぎ、そして崩壊
- 2002-03シーズン モチベーションのギャップ
三連覇を達成して無敵の名をほしいままにしていたレイカーズだが、コービーとシャックの反目は優勝の美酒に和らぐどころかむしろ年々強まっており、彼らのロッカールームは冷め切っていた。2002-2003シーズンはシャックが開幕から欠場。シャックの不在で伸び伸びとプレイしたコービーはこのシーズン初のアベレージ30得点越えとなる30.0得点6.9リバウンド5.9アシストを記録し、得点王レースでは2位につけるなど個人としては過去最高のシーズンを送っていたが、チームはコービーとシャックの不仲による影響や、三連覇したことでのモチベーションの低下などが響き、50勝32敗と波に乗り切れないシーズンだった。プレーオフではカンファレンス準決勝でスパーズと対戦し、2勝4敗で敗戦。レイカーズの連覇記録もこの年に途絶えた。
- 2003-04シーズン 王朝の崩壊、コービーの”決意”
王座奪回を目指すレイカーズはオフにカール・マローンとゲイリー・ペイトン、2人のビッグネームを獲得するという大型補強を敢行。シャックにコービー、マローン、ペイトンと史上類を見ない豪華な陣容に、新シーズンのレイカーズへの期待はいやが上にも高まった。しかし再び頂点に返り咲くはずだったシーズンを、コービーはコート外のスキャンダルで台無しにしてしまう。オフの6月に19歳の女性からレイプされたと訴えられたのである(詳細は後述)。このスキャンダルでコービーは観客のブーイングや裁判所とアリーナを行き来する生活に悩まされるシーズンを送る羽目となった。また期待の補強組みもマローンがシーズンの半分近くを欠場、全ての栄誉を手に入れてしまったオニールのモチベーションは益々下がっており、さらに今度はコービー自身も膝や肩の故障に襲われるなど、このシーズンのレイカーズは受難続きだった。それでもプレーオフでは勝ち抜いて、ファイナルに進出。デトロイト・ピストンズと対戦するが、1勝4敗と完敗を喫してしまい、王座奪回は失敗に終わった[6]。
この頃になるとコービーとシャックの関係は危険水域に達していた。シャックはコービーの独りよがりなプレイが気に入らず、コービーとしては完璧主義な自分と対照的に、練習嫌いで知られるシャックがコンディショニング不足により、度々チーム練習やレギュラーシーズンの試合を欠席していたという状況、そして三連覇を達成しても評価が上がるのはシャックばかりという状況(3回の優勝でファイナルMVPを獲得したのは全てシャック)は受け入れ難いものだった。また、コービーは常にシャックの機嫌を伺いながら指揮するジャクソンHCにも不信感を抱いており、21世紀最初の王朝を築いたチームはすでに内部崩壊していた。
2004年のオフシーズン、ついにレイカーズ王朝に幕が降ろされる。この年、フリーエージェントとなったコービーは再契約を望むレイカーズに対し、この先もシャックをチームの中心に据えるなら、そしてジャクソンの下でプレーしなければいけないのならば自分は移籍する、という意志をちらつかせチームに”エースの座”を要求した。レイカーズは結局コービーを選択し、シャックとジャクソンはレイカーズを退団、夢のチャンピオンリングを求めてレイカーズにやってきたマローン、ペイトンもレイカーズを去り、同期のフィッシャーも移籍するなどして[7]、王朝チームは完全に崩壊した。コービーはレイカーズと7年で総額1億3600万ドル(約168億円)の大型契約を結んだ。ちなみにこの時ロサンゼルス・クリッパーズはコービー獲得を本気で狙っていた。
[編集] 栄光と不満の日々
- 2004-05シーズン 理想と現実
晴れてエースの座に座ったコービーだったが、彼を待っていたのは辛い現実だった。新ヘッドコーチには名将ルディ・トムジャノビッチを招き、ラマー・オドムやカロン・バトラーら新戦力を揃えたが、一度ゼロから仕切り直したチームが王朝時代のように勝てるはずもなく、2004-2005シーズンは34勝48敗と負け越し、11年ぶりにプレーオフ出場を逃すという屈辱を味わった。新エースとして意気込んで新シーズンに臨んだコービーも27.6得点6.0アシストの成績を残すも、フィールドゴール成功率は43.3%の低水準に沈み、評価を上げるどころかシャックやジャクソンを追い出した挙句にプレーオフにすら導けなかったとして、NBAファンや関係者からはコービーに対する激しい”バッシング”が巻き起こった。
トムジャノビッチHCはシーズン終了を待たずして「体調不良」を理由に突然ヘッドコーチを辞任してしまったが[8]、オフには1年前に退団したばかりのジャクソンが再びレイカーズのヘッドコーチとして招聘された。ジャクソンはこの期間に出版した著書”The Last Season”の中でコービーを「コーチ不可能な選手」などと痛烈に批判しており、コービーとの関係が不安視されていたが、コービー自身はレイプスキャンダルがようやく解決したこともあり、新シーズンを良好な状態で迎えようとしていた。
- 2005-06シーズン 不動の現役”No.1”プレイヤーへ
2005-06シーズンはコービーの類稀な得点力が遺憾なく発揮されたシーズンだった。開幕から4試合連続で30得点以上を記録すると、8試合目で42得点をあげたのを皮切りに、このシーズンは27試合で40得点以上を記録。極めつけは1月26日のトロント・ラプターズ戦で達成した”81得点”である。この1ヶ月前のダラス・マーベリックス戦では第4Qが始まる時点ですでに62得点をあげていたが、試合の大勢はすでに決まっていたためジャクソンHCは第4Qでコービーを起用しなかった。そしてこのラプターズ戦でもジャクソンはコービーをベンチに下げようとしたが、アシスタントコーチに制止されたため、コービーの偉業が達成された。81得点はウィルト・チェンバレンが記録した100得点に次ぐ”歴代2位”の記録となった[9]。マイケル・ジョーダンと共にシカゴ・ブルズ黄金時代を築いた経験のあるジャクソンHCは試合後「今夜のコービーはジョーダンのどんな試合よりも凄かった」とコービーを賞賛した。次々と高得点を叩き出したコービーのこのシーズンの成績は35.4得点5.4リバウンドとなり初の得点王に輝く。アベレージ35得点越えはジョーダンが1986-87シーズンに記録して以来の極めて高い数字だった。
絶好調のコービーに率いられてレイカーズはこのシーズン45勝37敗と勝ち越し、プレーオフにも復帰。1回戦ではフェニックス・サンズと対戦したが、第4戦では2点ビハインドの状況で試合終了間際にジャンプショットを決めて試合を延長に持ち込ませると、オーバータイムでは1点ビハインドの状況で今度はブザービーターを炸裂させ、チームに劇的な逆転勝利をもたらしている。結局シリーズはサンズがものにし、レイカーズは1回戦で敗退したものの、この年はコービーを”優れたスコアラー”から”偉大なスコアラー”と、その評価を一段階押し上げたシーズンだった。
- 2006-07シーズン 栄光と苦悩
2006-07シーズンに入ってもコービーの勢いは止まらず、チェンバレン以来となる1シーズンで50得点以上を10回記録。(3月には4試合連続で50得点以上を挙げた。)31.6得点5.7リバウンド5.4アシストの成績で2年連続で得点王に輝き[10]、オールスターでは2度目のMVPを獲得した。コービーの孤軍奮闘の活躍もあってチームも2年連続でプレーオフに進出し、昨シーズン同様1回戦でフェニックス・サンズと対戦した。2連敗で迎えた第3戦では45得点を挙げ一矢報いるも優勝候補の一角サンズとの大きな戦力差は明白で2年連続の1回戦敗退となった。
コービーが次々と叩き出す並外れた数字に「一人でシュートを打ちすぎる」、「チームの勝利よりも自分の得点を優先させている」と眉根を寄せる人々も少なくなかったが、それでもコービーが史上最高クラスのスコアラーであるという点では多くの人々の間で意見は一致しており、また一部からは「こと得点力に関してはジョーダンを越えているのではないか」という声さえ上がり始めた。この頃にはスキャンダルで著しく汚されたコービーへのイメージも大分回復しており、ジャージー売り上げは全選手で1位に輝くなど、周囲からの評価はかつてないほど高まりつつあった。しかしそんな巷の評判を他所に、コービー自身はプレーオフ1回戦敗退を繰り返すチームに”不満”を募らせていた。
[編集] 最高峰の選手として
コービーのチームに対する不満は2年連続でサンズの前にプレーオフ1回戦敗退を喫した後に爆発。チームに対し、補強が進まない場合は自身を”トレード”して欲しいと要求した[11]。コービーがとったこの行動がここまで積み重ねてきたコービーへの評価を再び台無しにすることになってしまい、トレード要員になるはずのチームメイトに対する配慮に欠けた発言や、チームフロントに対する攻撃的な批判はファンの反感を買った。コービー自身はその後トレード要求を撤回したが事態は収まらず、コービーはホームのステープルズ・センターで開催された2007-08シーズンの開幕戦で、レイカーズファンからブーイングを浴びてしまったのである。
- 2007-08シーズン ”ターニングポイント”新たな因縁
しかし新シーズンが始まるとコービーはそれまでの苛烈な発言を一切封印してプレイに集中し、以前よりも増して”リーダーシップ”を発揮するようになり、コービーの変化にチームも刺激されたか最初の10試合を7勝3敗と快調な滑り出しを見せた。開幕前には3シーズンレイカーズから離れていたフィッシャーが復帰しており、またトレード要求の一件でコービーとひと悶着あったアンドリュー・バイナムが急成長を見せるなど、好材料が揃っていた。
オフでは結局コービーが望んだような大型補強はなかったが、トレードデッドライン目前の2月になって、コービーを歓喜させる重要なトレードが実行される。メンフィス・グリズリーズからリーグ有数のビッグマン、パウ・ガソルを獲得したのである[11]。このトレードでレイカーズが失ったものは無きに等しく、「近年最も不公平なトレード」として記録されるが、シャックの退団以後インサイドの駒不足に悩んでいたレイカーズにとってはこの上ない補強であり、レイカーズの戦力は大幅に向上した。レイカーズは勝ち星を積み重ね、混戦となったウエスタンカンファレンスでトップとなる57勝を記録し、一躍優勝候補へとのし上がった。
コービーは28.3得点6.3リバウンド5.4アシストを記録し、念願の”シーズンMVP”を受賞した[11]。開幕直後にはコービーにブーイングを浴びせていたステイプルズ・センターのファンも、シーズン終盤にはコービーに対し”MVP”コールを送った。プレーオフではウエストの並み居る強豪を蹴散らして5年ぶりのファイナルに進出。奇しくも同じ年に名門復活を果たしたレイカーズの永遠のライバル、ボストン・セルティックスと対戦したが、セルティックスの堅い守りを崩せず、2勝4敗で敗退した。
- 2008-09シーズン シャックの”幻影”からの解放、悲願の頂点へ
オフには初めてアメリカ代表としてオリンピックに出場し、金メダルを獲得。代表チームでは得点に対する欲を捨て、主にディフェンスでの献身的な姿勢が高く評価され、コービーが以前のコービーではなくなったことを周囲に改めて認識させた。
そして迎えた2008-09シーズン、レイカーズは優勝候補筆頭として開幕から快進撃を続け、65勝17敗で2年連続カンファレンストップに立った。コービー自身は靭帯が断裂した右手小指の手術が出来ずに開幕を迎えていたことが不安視されていたが、それは杞憂に過ぎなかった。
チームの戦力が大幅に改善されたことで、これまでのように毎試合フル出場する必要はなくなったため、このシーズンは平均36.1分と先発に定着してからでは最も少ない数字となり、出場時間の減少で成績は26.8得点5.2リバウンド4.9アシストだったが、それでもコービーがリーグ最高峰の選手であることは変わりなく、2月2日にはニューヨーク・ニックスのホーム、マディソン・スクエア・ガーデンでアリーナの”新記録”となる61得点を記録するなど、話題を振りまくことも忘れなかった。オールスターでは自身3度目のMVPを獲得している。
プレーオフではカンファレンス準決勝で飛車角落ちしたヒューストン・ロケッツ相手に第7戦に持ち込まれるなど苦戦する場面もあったが、期待通りに2年連続でファイナルに進出。王座奪還に燃えるコービーは対戦相手のオーランド・マジックに対し、第1戦で40得点を記録して先制パンチを浴びせると、その後もコンスタントに高得点をあげ続け、マジックに殆ど付け入る隙を与えず、4勝1敗でファイナルを制した。コービーにとっては7年ぶりの”優勝”となった。シャックがレイカーズを退団してからのコービーの5年間は、「シャックが居なくても優勝できる」ことを証明するための5年間でもあった。そしてようやく成果を収めたこのファイナルでシリーズ平均32.4得点7.4アシスト5.6リバウンドを記録したコービーは、念願の”ファイナルMVP”を獲得した。
- 2009-10シーズン 満身創痍での”リベンジ”5度目の優勝へ
コービー自身キャリア2度目の連覇へ向けての挑戦となったこのシーズン、NBAで2年連続優勝したチームはコービーがシャックとのコンビで三連覇を達成した2002年のレイカーズが最後で、それ以来どのチームも達成出来ていない。
開幕からガソルが怪我で欠場した事もあり、コービーはガソルが欠場した最初の11試合で4度の40得点オーバーを記録するなど過去2年ほどレギュラーシーズンでは抑えていた得点能力を存分に発揮する事になる。また12月4日のマイアミ・ヒート戦では、ドウェイン・ウェイドの上から逆転ブザービーターを決めるなど最高のスタートを切ったと思われたが、12月11日のミネソタ・ティンバーウルブズ戦で試合中に相手選手との接触で右手人差し指を剥離骨折してしまう。
コービーは欠場こそ免れた物の残りのシーズンをテーピングを巻いて戦う事となる。しかし12月16日のミルウォーキー・バックス戦で再び逆転ブザービーターを決めるなど骨折の影響を感じさせないプレーを披露すると、年が明けた1月1日のサクラメント・キングス戦でも逆転ブザービーターを決め、リーグトップクラスの選手でも2年に1度有るか無いかという決勝ブザービーターを、僅か1ヶ月の間に3度も決めて見せた。結局コービーはシーズン終了までに6度の決勝シュートを沈め、驚異の勝負強さを改めて知らしめる事となった。また、2月1日のメンフィス・グリズリーズ戦ではジェリー・ウェストの保持していたレイカーズのチーム通算得点記録を更新し[4]、4月2日には、来季で終了するレイカーズとの契約を、35歳になる2013-14シーズンまで3年総額8960万ドル(約85億1000万円)で延長するなど、明るい話題もあった[12]。一方で体の方は骨折した右指に神経を使いながらプレーするあまり、新たに足首、膝、背中を痛めてしまうなど試合事に怪我が蓄積しており、31歳のコービーの体は”満身創痍”の状態になっていた・・・。
プレーオフ1回戦オクラホマシティ・サンダー戦はコービーのコンディションの悪さもあって、最初の4試合を2勝2敗のタイで終える。この時点でコービーの膝は、このシリーズ中に膝に溜まった水を抜く処置をしなければいけない程ヒドくなっていた。しかし結果的にその処置が功を奏し、復調の兆しを見せたコービーに引っ張られるようにレイカーズはその後きっちりと連勝し苦しみながらも1回戦を突破した。その後のカンファレンス準決勝のユタ・ジャズ、決勝のフェニックス・サンズも本来の動きに戻りつつあるコービーを相手は止めることが出来ず、レイカーズは3年連続のファイナル進出となった。ファイナルでレイカーズを待っていたのは、2年前破れた宿敵ボストン・セルティックスであった。リーグ屈指のディフェンス力を誇るセルティックス相手に互いに一進一退となった攻防は、伝統の一戦に相応しく第7戦までもつれこむ事となった。激しい試合となった第7戦は序盤からセルティックスが有利に試合を進めて行くも、ホームの後押しを受けたレイカーズが徐々に追い上げ第4Qついに同点に追いつく。この試合ここまで堅い守りに苦しめられてきたコービーだったがこの状況でついに目覚め、逆転フリースロー、さらに続けざまにジャンプシュートを沈め連続4得点を奪い一気に流れを引き寄せた。結局このリードを守りきり追いすがるセルティックスを83-79で振り切ったレイカーズが2年前のリベンジを果たし”連覇”を達成した。満身創痍でシーズンを戦い抜いたコービーは自身5度目の優勝、そしてシリーズ平均28.6得点8.0リバウンドを記録し2年連続となる”ファイナルMVP”を受賞した。
- 2010-11シーズン 三連覇ならず”不完全燃焼”のシーズン
オフシーズンにフィル・ジャクソンHCが、このシーズンを最後に監督業からの完全引退を表明するなどレイカーズはチームとしての集大成的な意味合いを持つシーズンとなった。
コービーはオフに手術した右膝の回復が予定より長引いたため、プレシーズンからのぶっつけ本番でコンディション作りに励む事になった。それでもシーズンに入るとコービー自身からは「問題無い。」と言った言葉が何度と無く聞かれたが、実際には手術した右膝の状態が思わしくなく、3年連続でのNBAファイナル出場や北京五輪出場といった度重なる連戦により体を酷使していた影響で、右膝の軟骨が磨り減ってほとんど無いような状態になってしまっていた。コービーはチーム練習にもシーズン通して都度、参加出来ないような状態で、ジャクソンHCはコービーの出場時間をセーブするという方法を取らざるを得ず、これはシーズン通して徹底され試合展開やコービーの好不調関係無く決まった時間帯には必ず下げるという方法を取り続けた。その結果レギュラーシーズンのコービーのプレイタイムは、昨シーズンから1試合平均5分も少なくなり、平均33.9分にまで減少した。平均33.9分という数字はコービーがプロ入り後、先発に定着してから最も少ない数字であり、それより少ない出場時間になると、実にプロ2年目で6thマンだった13年前の1997-98シーズンにまでさかのぼってしまう。レイカーズはチーム成績こそ昨シーズンと同じ57勝25敗のウエスタンカンファレンス2位で終えたが、チームはコービーの出場時間減少の影響や新加入選手が期待された活躍が出来なかった事もありシーズン通して試合内容が安定せず、シーズン終盤には5連敗を喫するなど好不調の波が非常に激しいシーズンとなってしまった。コービーはこのシーズン怪我に苦しみ出場時間を大幅に抑えられたが、レギュラーシーズン全82試合に先発出場し、平均25.3得点という数字を残した。また、レイカーズの地元ロサンゼルスで行われたオールスターでは”NBA歴代最多タイ”となる自身4度目のMVPを獲得し、レギュラーシーズンのNBA歴代通算得点ランキングではシーズン前の歴代12位から、このシーズンで一気に歴代6位まで引き上げるなど個人としての話題に事欠くことはなかった。
プレーオフ1回戦はニューオリンズ・ホーネッツと対戦。下馬評ではレイカーズ圧倒的有利だったが、安定感の無かったレギュラーシーズンのチーム状況そのままに初戦を落としてしまう。その後、4勝2敗で1回戦は突破したものの、明らかに昨シーズンまでの安定感はレイカーズになくなってしまっていた。カンファレンス準決勝のダラス・マーベリックス戦でも1回戦同様初戦を落とすと、相手のエース、ダーク・ノヴィツキーとマッチアップしたガソルの絶不調もあり終始抑える事が出来ず、またベンチ力の差もまざまざと見せ付けられ、結局このまま4連敗で屈辱のスウィープ負けとなってしまった。コービーはプレーオフに入ってからジャクソンHCにより多少出場時間は伸ばされたが、それでもシーズン同様、昨シーズンのプレーオフから1試合平均5分近く出場時間が減らされ、例年のような爆発力を見せる機会も無いままチームとしても個人としても、なんとも”不完全燃焼”でシーズンを終えることになってしまった。キャリア初期よりジャクソンHCと苦楽を共にしてきたコービーは試合後「自分はジャクソンHCの下で育った。バスケットのことだけではなく、物事へのアプローチの仕方、考え方は彼から大きな影響を受けた。(ジャクソンHCのいない)来シーズンのことを考えると何だか不思議な気持ちになる。」と語り、本来の力を発揮できないまま恩師との最後のシーズンを終えてしまった事に悔しさを滲ませた。
[編集] コービーとジョーダン
コービーはデビュー当時から、ことあるごとにマイケル・ジョーダンと比較される。同期のアレン・アイバーソン、後輩のレブロン・ジェームスなど、これまでに多くの選手が同じようにネクスト・ジョーダンといわれてきたが、コービーほど極端に比較され続けてきた選手は他にはいない。それは恐らく、ポジションとプレイスタイル、体格と身体能力、ともに闘争心旺盛で筋金入りの負けず嫌いであること、果てはフリースローの仕草など、類似点が非常に多いことが理由として挙げられる。 事実、幼い頃からブルズの試合を何度も見続け、憧れのジョーダンの動きを真似ようと常に研究していたとコービー自身が話している(ディフェンスに関しては、ジョーダン以上にスコッティ・ピッペンを参考にしていたという)ため、プレイスタイルの面で影響を受けたものは多いのだろう。 ジョーダン自身も、1998年のオールスターゲーム終了後に後継者としてコービーを指名しており、現役最後となった2003年のオールスターゲームの際にも、次代を託した若手スター選手の一人としてコービーの名を挙げていた。また、引退して月日が経った2012年には「自分の引退後のプレイヤーの中で、自分と比較されるにふさわしい選手はコービーだけだ。」と語っている。
[編集] 代表チーム
コービーの国際試合デビューは意外にも遅く、アメリカ代表に参加したのは2008年の北京オリンピック予選を兼ねた2007年のバスケットボールアメリカ選手権からだった(過去に何度か代表入りの話はあったが、故障などで機会を逸していた)。すでにNBAで不動の地位を築いていたコービーの待望の代表チーム参加とあって大きな話題となり、またアメリカ代表は前回のアテネオリンピックでNBA選手をオリンピックに送り出して以来、初めて金メダルを逃しており、コービーはアメリカの”最終兵器”として期待を寄せられた。
代表チームにはレブロン・ジェームス、ドウェイン・ウェイド、カーメロ・アンソニーなどスコアラーが大勢居たため、コービーは自ら積極的にサポート役に回り、またディフェンスでは相手チームのエースを大いに苦しめ、若い選手中心で構成されたチーム内では高いリーダーシップも発揮した。コービーの代表参加は大成功となり、本番の北京オリンピックではあっさりと決勝に進出。唯一の接戦となった決勝スペインとの対戦では、第4Qだけで13得点をあげるなど活躍し、チームを見事に金メダルに導いた。中国では近年NBAの人気が高まっていたこともあり、コービーは中国のファンからも大きな声援を受けた。
[編集] プレイスタイル
リーグ最高峰の選手として挙げられる、現役屈指のスコアラー。リーグ屈指のオールラウンダーとも評される。
得点エリアが非常に広く、マッチアップマンとの1on1に滅法強い。アイソレーションから繰り広げられるオフェンスバリエーションは実に多彩であり、ドライヴからのレイアップやダンク、ミドルレンジから展開するターンアラウンドやフェイダアウェイなどのジャンパーを中心に得点を量産する。3Pシュートもコンスタントに沈めることができ、フリーな状態で打つことが少ないためピュアシューターほどの正確性はないが、勝敗が懸かった局面では必ず沈めてくる。近年ではポストプレイからオフェンスを展開するなど、年齢を追うごとに円熟味を増している。自身に過度にマークが集中した場合、チームメイトへのアシスト役に徹することも多い。スクリーン時には壁となるチームメイトに擦れるように接触しながらドライヴすることで、マッチアップマンに看破する隙を与えないように徹底している。難易度の高いダンクを易々と決める身体能力と、繊細な技術が垣間見えるシュートテクニックを有している。また試合終盤において高い集中力と勝負強さを発揮し、逆転勝利が懸かった重要な局面でのショットをことごとく沈めてきた、リーグを代表するクラッチシューターでもある。加齢による身体能力の低下をカバーしているのが、磨き上げられた高いシュートテクニックに加えて、この「キラー・インスティンクト(殺し屋の本能)」といわれる程の強靭な精神力であるといえる。
スコアラーとしてのブライアントの大きな特徴の一つとして、オフェンスにおけるテクニックの高さとバリエーションの豊富さに加えて”爆発力”が挙げられる。ブライアントは”ゾーンに入ったら決して止められないプレイヤー”の代表格であり、特に目立つプレイのないまま前半を終えたと思いきや、後半に入ると突如としてギアを入れ替えてわずか数分で大量得点する場合が多い。この傾向は調整期間の意味合いも含まれるレギュラーシーズンよりも、拮抗した実力を持つチームが優勝を賭けて争うプレーオフで顕著に表れる。ゾーンに入った状態のブライアントを封じる術は基本的に皆無であり、マッチアップマンのハンドチェックに構うことなく無理矢理3Pシュートを捻じ込んだり、ダブルチームないしトリプルチームのわずかな間を掻い潜って強引にレイアップを決めたりする。この無敵状態ともいえる時間帯は、「KOBE TIME(コービー・タイム)」「KOBE SHOW(コービー・ショー)」などと称される。厳しいチェックを顧みない強引なドライヴは結果的に失敗することも多いが、そのような場合にはファウルを受けて最低でもフリースロー、あわよくばバスケットカウントと、是が非でも得点にこじつける。
ただし、ゾーンに入ることなく不発に終わる場合も決して少なくはない。そんな場合のプレイは爆発時と比較して落差が激しく、良くも悪くも勝つか負けるかの選手である。全体的に右肩上がりの傾向があり、ブライアントが序盤から得点を量産していると結果的にチームの勝利に繋がらないことが多く、バスケットボール解説者の北原憲彦もこの点を指摘している。この原因として考えられるのは、壮年期を迎えているブライアントの試合終盤でのスタミナ切れ、序盤よりブライアントにボールが集中することによりパスワークが乱れてチームメイトが各々のオフェンスリズムを作れずにいる、といったところである。
オフェンスにおける圧倒的な存在感が目立つブライアントだが、ディフェンスにおいてもリーグ指折りの能力を発揮する。ブライアントはディフェンスに関しては、キャリア初期にほぼ完成されていた。2000年にNBA史上最年少となる21歳でオールディフェンシブチームに選出されたのを皮切りに、以降は同賞の常連となり、そのほとんどが1stチームとして選出されている。相手に隙あらば常にスティールを狙っており、空いたスペースにドライヴしてきた相手の背後からボールを叩く場面もたびたび見られる。アレン・アイバーソンのように無謀なギャンブルを試みることは少なく、要所においての確実なスティールが多い。ただしこのプレイはファウルになることも多く、平均スティール数が2本を記録したことはこれまでのキャリアで1度しかない。ブライアントのディフェンスの真価は数字として記録されるスティールにあるのではなく、徹底したマンツーマンディフェンスにある。平面勝負といえる1on1のディフェンスにおいて、相手に真正面から突破されることはごく稀。それを象徴するかのように2008年に発刊されたバスケットボール専門誌DUNK SHOOTは、その号での誌上アンケートの結果「現役選手が選んだ最もディフェンスされたくない選手」の第1位がブライアントであると掲載した。未だ受賞歴はないが、ガードの選手にとって縁遠い最優秀守備選手賞を受賞してもおかしくはない守備能力を誇っている。
類希なる身体能力を持ちながらも[13]、天性の運動能力に甘えることなく日々肉体改造(筋力トレーニング)に励んだ結果、洗練された肉体を手に入れた。ドワイト・ハワードやレブロン・ジェームズのように筋肉の鎧を纏い筋骨隆々というわけではないが、芯から鍛え上げられたその肉体は強靭さとしなやかさを兼ね備えている。198cm・93kgのその鍛え抜かれた肉体はハードなディフェンスにも決して屈することはなく、攻守において多大な好影響を与え、プレイの幅を広げている。
ブライアントは現在でこそ際だった弱点は少ないが、デビューからスリーピートの頃までは恵まれた身体能力を前面に押し出したプレイスタイルで、果敢にバスケットにアタックしてダンクで相手を一蹴するといった、ドライヴ中心のアクロバティックな選手だった。一方で3Pシュートの成功率が30%を下回るシーズンがあるなど、技術よりもその高い身体能力に依存したプレイを多用していた。攻撃的なプレイスタイルと性格が災いし、シャキール・オニールやフィル・ジャクソンHCと仲違いし王朝は崩壊、その後はチームの単独エースとなり受難の日々を過ごすことになるが、このことが結果的にブライアントのキャリアの大きなターニングポイントとなった。チームリーダーの自覚が芽生え、セルフィッシュと批判の的となっていた精神面やプレイスタイルは徐々に変化し、成長が見受けられるようになった。キャプテンシーの発揮と、洗練されたテクニックをプレイで活用したことが大きかったといえる。精神の成熟によりチームメイトを活かすプレイも身に着け、派手なプレイよりも確実で堅実的なシュートを放つことが多くなった。個人プレイでの勝利よりも、チームのプレイでの勝利を目指す心理的な変化・成長が顕著に表れている。ただしその身体能力は健在であり、観客を沸かす迫力あるダンク、土壇場で沈めるジャンパー、フィジカルなプレーに負けない肉体的・精神的なタフさは衰えていない。現在は以前のように自身の得点に特別固執することもなく、勝負所を見極めて自らの時間帯を作り出し、持ち前の得点力を殺すことなくチームプレイとの共存を成功させている。良い意味での強烈な闘争心と、チームの和を重んじる協調性を身に着けた選手となった。
[編集] 女性・スキャンダル
『概要』
ブライアントはデビュー時よりバスケットボール界の若きスーパースターとして活躍し、NBAで最も人気のある選手の一人としたがコロラド州のリゾート・ホテルにおけるレイプ・スキャンダルは当時、彼の人気の多くを奪った。ブライアントはスキャンダルの結果マクドナルドとイタリアの菓子メーカー、フェレーロとの契約を失った。 2003年6月30日にコロラド州イーグル郡エドワーズのコロラド・ホテルでフロントデスクとして勤めていた19歳の女性が、同州に膝の治療の為に訪れ、同ホテルに滞在していたブライアントにレイプされたと訴えた。ブライアントは7月17日に逮捕されたが、[14]、直ちに保釈された。彼は女性との関係を認めたが、合意の元であると主張した。
『経過』
当時、既にNBA屈指のスーパースターであり犯罪とは無縁のイメージのあったブライアントを突如襲ったスキャンダルということもあり、事件発生以来、全米のメディアがコロラドの現場に殺到。「コロラド・キャンプ」と呼ばれる報道陣村を作って待機し、連日のニュースに加えて特別番組も放送されるなどメディアの報道は過熱した。この事件の行方は「O・J・シンプソン事件以来のスポーツ界の一大スキャンダル」としてこの年、全米最大の関心事の一つになった。 裁判はシーズン中にも行われ、彼はその都度コロラドの裁判所に出頭しなければならず、肉体的・精神的消耗が激しい上に練習不足の状態で試合に出なければならないことも度々であった。また、試合中も激しいブーイングに悩まされた。しかし、ブライアントはタフな精神力を見せ集中力を切らすことなくシーズンを終え、まずまずの成績を残した。
『結末』
訴えた女性が同時期に、ブライアント以外にも3日間に3人の別の男性と関係を持っていた事も発覚し、当初から芸能人志望でオーディション番組に出場歴があった事も報道されるなど、この女性の証言にも矛盾する点が多々見られたため、結局この事件は、2005年オフに示談となった。
[編集] その他
- 名前の"Kobe"がコービーという読み方なのはローマ字読みではなく英語読みのためである。
- キャリア初期は特徴的なショートアフロヘアーだった。
- 若い頃から大の練習熱心な選手として知られていて、毎日朝6時に一人で練習場に来て1000本シュート(1000本入るまでシュート)などの自主練習をしてから、その後のチーム練習に参加するといった逸話がある。過去にマイケル・ジョーダン等、名選手を指揮して来た名将フィル・ジャクソンが「私が見てきた中でもずば抜けて練習熱心な選手」と発言する程である。
- 身長は当初の登録は201cmだったが、ジョーダンが現役復帰した頃からジョーダンと同じ198cmに変更した。
- 2001年4月18日に約2年間交際を続けてきた、当時19歳のヴァネッサ・コーネジョ・ウブリエタ・ラインとカリフォルニア州ダナ・ポイントで結婚した。2003年1月19日に長女ナタリアが誕生し、2006年5月1日には次女ジアナが誕生した。
- 右腕に妻ヴァネッサの名前、右手首には愛娘ナタリアとジアナの名前のタトゥーを入れている。
- 2006年の世界選手権にはアメリカ代表として来日する予定だったが、膝の手術のため辞退した。
- 2006-07シーズンから背番号を、プロ入り当初からつけていた「8」から、「24」へ変更した。もともと24は入団時に希望した番号だったが、既にフレッド・ロバーツがつけていたため断念、更に第2希望の33もカリーム・アブドゥル=ジャバーの永久欠番だったために8を選んだという経緯がある。24は高校時代最初につけていた番号、33は高校時代に父がプロでつけていたことで24から変更した番号、8はイタリアに住んでいた頃にお気に入りだったイタリアリーグの選手、マイク・ダントーニ(現ニューヨーク・ニックスヘッドコーチ)の番号。
- デビュー当時は細身の体型であったが、2002年オフに15ポンド(約7キロ)の増量を行った後は、体重は約100kgに届いていた。2007オフ、今度はそれまでのビルドアップされた肉体から主に筋肉を落とす事で20ポンド(約9キロ)の減量を行った。過剰な筋肉を落とすことで年間100試合以上出場するだけのスタミナを向上させた[15]。
- 2007-08シーズンは、ラシード・ウォーレスを超える15個のテクニカルファウルを吹かれた。ちなみに16個で1試合出場停止となる。
- 2007-08シーズン以降フリースローの際にファンが”MVP”コールをするのが定番となっている。
- 彼の名前の由来であるアメリカの鉄板焼きレストラン「Kobe Steak House」は、日本にも同名のレストラン「神戸ステーキハウス」があるが全く関係は無い。(2008年に産経新聞がコービーの特集記事を書く際、誤って同店に取材を行い記事にしてしまった。)
- 2008年12月には自身のシグネイチャーモデル「ZOOM KOBE(ズームコービー)」シリーズの第4弾として、NBAで主流となっている足首まで覆うハイカットや、くるぶし上まで覆うミッドカットではなくローカット・モデルのシューズ「ZOOM KOBE Ⅳ(ズームコービー4)」を発表した。このシューズは少しでも軽く素足に近い感覚でプレーしたいという本人の希望で誕生した物である。一般的に足首が保護されにくいローカットシューズはハイカットに比べ捻挫しやすいと言われているが、コービーは「ハイカットでも捻挫するときは同じ。」と答えている[16]。
- アメリカの大手世論調査会社ハリス社が毎年発表している「アメリカで最も人気のあるスポーツ選手」の2010年度のランキングで、プロゴルファーのタイガー・ウッズと並び男性アスリート部門で1位に選ばれた。(前年の2009年は4位だった。)
- 2011年、ロサンゼルスの代表的観光名所であるチャイニーズ・シアターに手形、足型が刻まれる事になった。チャイニーズ・シアターには、現在200人以上の歴代ハリウッドスターの手形や足形が刻まれているが、スポーツ選手の手形、足型が刻まれるのはコービーが初めての事である。
- 2011年4月、中華圏で絶大な人気を誇る台湾出身ミュージシャンの周杰倫(ジェイ・チョウ)の音楽作品「天地一闘(英題:Spark)」にフィーチャリングされミュージックビデオ等で競演した[17]。
- 2012年1月、自身のシグネイチャーモデル第7弾「ZOOM KOBE Ⅶ(ズームコービー7)」のプロモーションに、カニエ・ウェスト(ラッパー)、リチャード・ブランソン(実業家)、ジェリー・ライス(元NFL選手)、セリーナ・ウィリアムズ(女子テニス選手)、ホープ・ソロ(女子サッカー選手)ら、各分野の成功者達が参加。CMではモチベーション・スピーカーに扮したコービーが、すでに各々の分野で成功を収め、自身のピークに達したと思っている”成功者”達を前に、頂点の向こう側、頂点を越える「KobeSystem(コービー・システム)」をプレゼンするという内容になっている[18]。
[編集] 個人成績
| 略称説明 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| GP | 出場試合数 | GS | 先発試合 | MPG | 平均出場時間 |
| FG% | フィールドゴール% | 3P% | スリーポイント% | FT% | フリースロー% |
| RPG | 平均リバウンド | APG | 平均アシスト | SPG | 平均スティール |
| BPG | 平均ブロック | PPG | 平均得点 | TO | 平均ターンオーバー |
| 太字 | キャリアハイ | ||||
[編集] NBAレギュラーシーズン
| シーズン | チーム | G | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | TO | PPG |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996–97 | LAL | 71 | 6 | 15.5 | .417 | .375 | .819 | 1.9 | 1.3 | .7 | .3 | 1.58 | 7.6 |
| 1997–98 | LAL | 79 | 1 | 26.0 | .428 | .341 | .794 | 3.1 | 2.5 | .9 | .5 | 1.99 | 15.4 |
| 1998–99 | LAL | 50 | 50 | 37.9 | .465 | .267 | .839 | 5.3 | 3.8 | 1.4 | 1.0 | 3.14 | 19.9 |
| 1999–00 | LAL | 66 | 62 | 38.2 | .468 | .319 | .821 | 6.3 | 4.9 | 1.6 | .9 | 2.76 | 22.5 |
| 2000–01 | LAL | 68 | 68 | 40.9 | .464 | .305 | .853 | 5.9 | 5.0 | 1.7 | .6 | 3.24 | 28.5 |
| 2001–02 | LAL | 80 | 80 | 38.3 | .469 | .250 | .829 | 5.5 | 5.5 | 1.5 | .4 | 2.79 | 25.2 |
| 2002–03 | LAL | 82 | 82 | 41.5 | .451 | .383 | .843 | 6.9 | 5.9 | 2.2 | .8 | 3.51 | 30.0 |
| 2003–04 | LAL | 65 | 64 | 37.6 | .438 | .327 | .852 | 5.5 | 5.1 | 1.7 | .4 | 2.63 | 24.0 |
| 2004–05 | LAL | 66 | 66 | 40.7 | .433 | .339 | .816 | 5.9 | 6.0 | 1.3 | .8 | 4.09 | 27.6 |
| 2005–06 | LAL | 80 | 80 | 41.0 | .450 | .347 | .850 | 5.3 | 4.5 | 1.8 | .4 | 3.13 | 35.4 |
| 2006–07 | LAL | 77 | 77 | 40.8 | .463 | .344 | .868 | 5.7 | 5.4 | 1.4 | .5 | 3.31 | 31.6 |
| 2007–08 | LAL | 82 | 82 | 38.9 | .459 | .361 | .840 | 6.3 | 5.4 | 1.8 | .5 | 3.13 | 28.3 |
| 2008–09 | LAL | 82 | 82 | 36.1 | .467 | .351 | .856 | 5.2 | 4.9 | 1.5 | .4 | 2.56 | 26.8 |
| 2009–10 | LAL | 73 | 73 | 38.8 | .456 | .329 | .811 | 5.4 | 5.0 | 1.6 | .3 | 3.19 | 27.0 |
| 2010–11 | LAL | 82 | 82 | 33.9 | .451 | .323 | .828 | 5.1 | 4.7 | 1.2 | .2 | 2.96 | 25.3 |
| キャリア | 1,103 | 955 | 36.4 | .454 | .339 | .837 | 5.3 | 4.7 | 1.5 | .5 | 2.93 | 25.3 | |
| オールスター | 12 | 12 | 27.3 | .507 | .345 | .808 | 5.3 | 4.5 | 2.8 | .3 | 2.54 | 20.3 |
[編集] NBAプレーオフ
| シーズン | チーム | G | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | TO | PPG |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996–97 | LAL | 9 | 0 | 14.8 | .382 | .261 | .867 | 1.2 | 1.2 | .3 | .2 | 1.56 | 8.2 |
| 1997–98 | LAL | 11 | 0 | 20.0 | .408 | .214 | .689 | 1.9 | 1.5 | .3 | .7 | 1.00 | 8.7 |
| 1998–99 | LAL | 8 | 8 | 39.4 | .430 | .348 | .800 | 6.9 | 4.6 | 1.9 | 1.2 | 3.88 | 19.8 |
| 1999–00 | LAL | 22 | 22 | 39.0 | .442 | .344 | .754 | 4.5 | 4.4 | 1.5 | 1.5 | 2.50 | 21.1 |
| 2000–01 | LAL | 16 | 16 | 43.4 | .469 | .324 | .821 | 7.3 | 6.1 | 1.6 | .8 | 3.19 | 29.4 |
| 2001–02 | LAL | 19 | 19 | 43.8 | .434 | .379 | .759 | 5.8 | 4.6 | 1.4 | .9 | 2.84 | 26.6 |
| 2002–03 | LAL | 12 | 12 | 44.3 | .432 | .403 | .827 | 5.1 | 5.2 | 1.2 | .1 | 3.50 | 32.1 |
| 2003–04 | LAL | 22 | 22 | 44.2 | .413 | .247 | .813 | 4.7 | 5.5 | 1.9 | .3 | 2.77 | 24.5 |
| 2005–06 | LAL | 7 | 7 | 44.9 | .497 | .400 | .771 | 6.3 | 5.1 | 1.1 | .4 | 4.71 | 27.9 |
| 2006–07 | LAL | 5 | 5 | 43.0 | .462 | .357 | .919 | 5.2 | 4.4 | 1.0 | .4 | 4.40 | 32.8 |
| 2007–08 | LAL | 21 | 21 | 41.1 | .479 | .302 | .809 | 5.7 | 5.6 | 1.7 | .4 | 3.33 | 30.1 |
| 2008–09 | LAL | 23 | 23 | 40.9 | .457 | .349 | .883 | 5.3 | 5.5 | 1.6 | .9 | 2.57 | 30.2 |
| 2009–10 | LAL | 23 | 23 | 40.1 | .458 | .374 | .842 | 6.0 | 5.5 | 1.4 | .7 | 3.43 | 29.2 |
| 2010–11 | LAL | 10 | 10 | 35.4 | .446 | .293 | .820 | 3.4 | 3.3 | 1.6 | .3 | 3.10 | 22.8 |
| キャリア | 208 | 188 | 39.2 | .448 | .335 | .815 | 5.1 | 4.8 | 1.4 | .7 | 2.95 | 25.4 |
[編集] タイトル、記録など
[編集] タイトル
- NBAチャンピオン:2000, 2001, 2002, 2009, 2010
- 得点王(1試合平均):2006 (35.4), 2007 (31.6)
- 年間最多得点:2003 (2,461), 2006 (2,832), 2007 (2,430), 2008 (2,323)
- 年間最多フィールドゴール成功:2003 (868), 2006 (978), 2007 (813)
- 年間最多フリースロー成功:2006 (696), 2007 (667)
[編集] 受賞歴
- シーズンMVP:2008
- ファイナルMVP:2009, 2010
- オールNBA
-
- 1stチーム:2002, 2003, 2004, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011
- 2stチーム:2000, 2001
- 3rdチーム:1999, 2005
- オールNBAディフェンシブ
-
- 1stチーム:2000, 2003, 2004, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011
- 2stチーム:2001, 2002
- オールスター選出:1998, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012
- オールスターMVP:2002, 2007, 2009, 2011 ※(2009年はシャキール・オニールとのW受賞)
- オールルーキー2ndチーム:1997
- スラムダンク・コンテスト優勝:1997
[編集] 記録
NBA記録
- 最多オールスターMVP受賞:4(ボブ・ペティットと並ぶタイ記録)
- 最多オールNBAディフェンシブ1stチーム選出:9(他3名と並ぶタイ記録)
- 1試合最多3Pシュート成功:12(ドニエル・マーシャルと並ぶタイ記録)
- ハーフ最多3Pシュート成功:8(他5名と並ぶタイ記録)
- 1クォーター最多フリースロー成功:14(他5名と並ぶタイ記録)
- プレーオフで年間600得点以上記録した連続シーズン数:3
- オールスター1試合最多オフェンスリバウンド獲得:10
- 自軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:66.4%(122得点中81得点)
- 両軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:35.8%(226得点中81得点)
- ※ショットクロック導入後
- オールスター連続選出回数:14(他3名と並ぶタイ記録)
- 最多クリスマスゲーム出場:14
NBA史上最年少記録
-
- 史上最年少スラムダンクコンテスト優勝:18歳と175日
- 史上最年少オールスター先発出場:19歳と175日
- 史上最年少オールNBAディフェンシブチーム選出:21歳と251日
- 史上最年少通算得点到達
-
- 18,000:28歳と156日
- 19,000:28歳と223日
- 20,000:29歳と122日 ※(ギネス世界記録)
- 23,000:30歳と171日
- 24,000:31歳と75日
- 25,000:31歳と151日
- 26,000:32歳と80日
- 27,000:32歳と160日
- 28,000:33歳と131日
- 史上最年少通算1,000試合出場到達:31歳と184日
チーム記録(レイカーズ)
- 最多得点記録(レギュラーシーズン)
-
- 通算:28,601(NBA歴代5位)
- 年間:2,832(NBA歴代7位)
- 1試合:81(NBA歴代2位)
- ハーフ:55(NBA歴代2位)
- クォーター:30
- 月間1試合平均:43.4(NBA歴代8位)
- 最多得点記録(プレーオフ)
-
- 通算:5,280(NBA歴代3位)
- 年間:695(NBA歴代5位)
- オーバータイム:12
- キャリア通算60得点以上を記録した回数:5(NBA歴代3位)
- キャリア通算50得点以上を記録した回数:24(NBA歴代3位)
- キャリア通算40得点以上を記録した回数:111(NBA歴代3位)
- キャリア通算プレーオフで30得点以上を記録した回数:81(NBA歴代2位)
- 1シーズンで50得点以上を記録した回数:10(NBA歴代3位)
- 1シーズンで40得点以上を記録した回数:27
- 50得点以上を記録した連続試合数:4(NBA歴代2位)
- 40得点以上を記録した連続試合数:9(NBA歴代2位マイケル・ジョーダンとタイ記録)
- 35得点以上を記録した連続試合数:13
- 20得点以上を記録した連続試合数:62
- 月間1試合平均得点で平均40得点以上を記録した回数:3(NBA歴代2位)
(その他のチーム記録)
- 最多チーム在籍年数
-
-
- 16
-
- 最多通算試合出場
-
-
- レギュラーシーズン:1,103
- プレーオフ:208(NBA歴代5位)
-
- 最多フィールドゴール成功
-
- レギュラーシーズン
-
- 通算:9,978(NBA歴代10位)
- ハーフ:18、クォーター:11
- プレーオフ
-
- 通算:1,882(NBA歴代4位)
- 最多3Pシュート成功
-
- レギュラーシーズン
-
- 通算:1,418
- 1試合:12(ノーミスで7)、ハーフ:8、クォーター:6、連続:9
- プレーオフ
-
- 通算:275(NBA歴代3位)
- 最多フリースロー成功
-
- レギュラーシーズン
-
- 通算:7,163(NBA歴代5位)
- 1試合:23(2度)、ハーフ:16、クォーター:14、連続:62
- プレーオフ
-
- 通算:1,241(NBA歴代3位)
- クォーター:11(他3名と並ぶタイ記録)
- 最多スティール
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- レギュラーシーズン
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- ハーフ:6(他3名と並ぶタイ記録)
- プレーオフ
-
- クォーター:3(他6名と並ぶタイ記録)
[編集] その他の業績
- 現役選手優勝回数1位(5回)
- 現役選手同チーム在籍年数1位(2011-12シーズンで16シーズン目の在籍)
- キャリア通算25,000得点&5,000アシスト達成(NBA史上7人)
- NBAファイナルとスラムダンクコンテストの両方で優勝を達成(NBA史上3人)
- 「The Sporting News」2000年代(2000~2009)NBA最優秀選手受賞
※上記のタイトル、記録はいずれも2011-12シーズン時点のもの
[編集] 脚注
- ^ “ジョーブライアントさんにインタビュー”. 2012年1月12日閲覧。
- ^ NBA Staff (N.D.). “Kobe Bryant Bio”. NBA.com. 2007年8月5日閲覧。
- ^ “神戸大使:コビー・ブライアント氏”. 2012年1月12日閲覧。
- ^ a b 宮地陽子 (2010年2月22日). “記録を塗り替えた「息子」に「父」が贈った言葉。~コービーとウェストの師弟関係~”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 宮地陽子 (2010年1月17日). “フィル・ジャクソンの究極スター操縦法。~ジョーダン&コービーを育てた男~(1/3)”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 小尾慶一 (2004年6月22日). “NBA Final 〜ピストンズが見せつけた、優勝に必要なこと。”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 小尾慶一 (2004年11月5日). “いよいよ開幕、今季の見所”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 宮地陽子 (2005年3月31日). “恋人か旧友か。過熱するジャクソン争奪戦。”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 宮地陽子 (2006年2月9日). “ブライアントの大記録、81点がもたらした幸福。”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 小尾慶一 (2007年6月28日). “熱かったシーズンを終えて”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ a b c 宮地陽子 (2008年5月29日). “コービーの言葉が招いた、レイカーズの精神的成長。”. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 宮地陽子 (2010年4月16日). “コービーの契約延長が半年以上かかった理由。~FAよりもレイカーズに残留~”. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 梅原淳 (2007年5月9日). “コービーとペイトンの差”. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 小尾慶一 (2004年9月28日). “憧れの選手を支えるために。”. Sports Graphic Number. 2011年5月4日閲覧。
- ^ Kobe Bryant Loses 20 Pounds For Upcoming NBA Season
- ^ “コービーが足下で示したさらなる挑戦への姿勢。”. Sports Graphic Number (2009年1月16日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ “周杰倫+Kobe Bryant"天地一闘" J、ay Chou+Kobe Bryant"Spark"MV”. YouTube. 2012年1月12日閲覧。
- ^ “NIKE: Welcome to the #KobeSystem”. YouTube. 2012年2月10日閲覧。
[編集] 外部リンク
- コービー・ブライアント公式サイト"KB24.COM"(英語)
- NBA.com コービー・ブライアント(英語)
- basketball-reference.com 通算成績(英語)
- YouTube kobebryant's channel
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