コンテ・ヴェルデ (客船)

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SSConteVerde.jpg
船歴
船籍 イタリアの国旗(1861年~1946年)イタリア
所有 1923-1932: ロイド・サバウド

1932-1943: ロイド・トリエスティノ

建造

William Beardmore & Co. of Glasgow, Scotland

進水 1922年
就航 1923年4月21日
その後 1943年に自沈

再浮揚するも1945年に撃沈

性能諸元
総トン数 18,761トン
全長 180.1m
全幅 22.6m
機関 蒸気タービン
石油燃焼
スクリュー2軸
出力 22,000馬力
速力 18.5ノット
乗客定員 2,430名 (1923-1932)

640名 (1932-1943)

1等客 450名 (1923-1932)

250名 (1932-1943)

2等客 200名 (1923-1932)

170名 (1932-1943)

3等客(移民客) 1,780名 (1923-1932)

220名 (1932-1943)

乗組員 400名

コンテ・ヴェルデは1920年代から40年代にかけて運航されたイタリア 船籍の客船 である。第二次世界大戦中に日米交換船として傭船された。

船名はサヴォイア伯アメデーオ6世 (1334-1383)に因む。 (アメデーオ6世は緑色の装束を好んだことからコンテ・ヴェルデ(緑の伯爵)と呼ばれた。)

1923年,スコットランド・ダルムイエのウィリアム・ビアードモア・アンド・カンパニー造船所にて竣工。18,761総トン。[1]


仕様・設備[編集]

コンテ・ヴェルデは,大手海運会社ロイド・サバウドが大西洋航路用に発注したイタリア初の本格的な豪華客船である。姉妹船コンテ・ロッソとともに,戦間期の欧州で繰り広げられた客船建造競争の嚆矢となった。[2] [3]

ロイド・サバウドを代表する3客船,コンテ・ヴェルデ (緑の伯爵),姉妹船コンテ・ロッソ (赤の伯爵),後継船コンテ・ビアンカマノ (白い手の伯爵)は,イタリアの三色旗を象徴していた。

南北アメリカの富裕層をイタリア観光へ誘致するため,1等船客用のエントランスホール,食堂,音楽室,喫煙室,図書室は華麗なイタリア古典主義様式で設計された。[4][5][6]

その一方で,当時毎年10万人単位で南北アメリカへ向かっていたイタリア人移民の輸送も,本船のもう一つの大きな任務であった。大量の移民輸送に対応するため,定員1780名の移民スペース(3等船室)が設けられた。

機関は8基のボイラー,2基のタービン,11,000軸馬力のスクリュー2基からなり,これに加えて発電用タービン3基を備えた。ボイラーは重油用であるが,石炭焚きにも対応しており,重油と石炭の価格次第で転用可能であった。ただし全就役期間を通して石炭が用いられることはなかった。

第1次世界大戦の教訓から,船体の強度・剛性が高められたほか,通信機を備えた救命艇が装備された。また商船としては初めて環状主回路が採用され,シャンデリア等の大量の照明や,食堂に併設された大型冷蔵庫へ潤沢な電力を供給した。[7]

大西洋航路時代 (1923-1932)[編集]

運航開始は1923年4月21日で,ジェノヴァを出航してブエノスアイレスへ向かった。同年6月13日,ニューヨークへも航海している。

1930年にはFIFAワールドカップ・ウルグアイ大会に参加する欧州選手団を輸送している。当時,欧州~南米横断には2週間を要し,欧州選手団は参加を躊躇したが,フランスサッカー連盟会長ジュール・リメ (1873-1856)の説得により,フランス,ベルギー,ルーマニアの選手団がコンテ・ヴェルデで大西洋を渡った。[8]

この他,コンテ・ヴェルデに乗船した著名人としては,ロシア人オペラ歌手フョードル・シャリアピン,アメリカ人女優ジョセフィン・ベーカーなどがいる。[9][10]

一方で1926年には,ファシスト党支持者と社会党支持者が船内で衝突する事件が起きている。[11]

アジア航路時代 (1932-1943)[編集]

1932年,世界恐慌の余波によるイタリア海運業の再編で,ロイド・サバウドは新会社イタリアン・ラインに吸収合併される。同年,新造客船レックスとコンテ・ディ・サヴォイアが花形の大西洋航路に就航し,コンテ・ヴェルデなど前世代の船は他航路へ振り向けられた。

コンテ・ヴェルデはトリエステに本社を置くロイド・トリエスティノの所有となり,イタリア~上海間を結ぶアジア航路に就航した。船内設備は全面的に改装され,客室定員を削減する一方,アジア方面の貨物量増大に対応して貨物スペースを拡張し,機関も換装した。

トリエステから上海まで24日を要したが,同航路の船としては俊足であった。サンフランシスコの有名店カフェ・トリエステの創業者ジョヴァンニ・ジョッタは,この時期の乗組員の一人であり,船内設備とサービスの豪奢さに強い印象を受けている。[12]こうした速力と設備で,少なくとも就航当初はアジア航路の他社船に対して優位に立った。

1937年9月1日,香港停泊中に台風に遭遇し,日本郵船浅間丸と衝突事故を起こす。衝突後,両船とも沖合に流されて座礁し,コンテ・ヴェルデの離礁には1か月,浅間丸は半年を要した。[13]

1938年11月には,イタリアの人類学者フォスコ・マライーニアイヌ研究のため本船で来日している。その経緯は長女ダーチャの著作に語られている。[14]また,マライーニの友人であり,戦後大阪外国語大学で教鞭をとったアレッサンドロ・ベンチヴェンニも同じ航路で来日した。ベンチヴェンニは乗船時の記憶をもとに,京都市・下京区のフランソア喫茶室の内装を設計している。[15]

1938年から1940年にかけて,コンテ・ヴェルデを含むイタリアの上海航路客船は,ナチス・ドイツを追われたユダヤ人難民約17000人を輸送した。彼らが上海を目指した理由として,世界各国が難民受け入れに難色を示す中,上海は戦時の混乱のため無審査で入国できたこと,また,在上海ユダヤ人による一定の支援を期待できたことなどが挙げられる。しかし,上海への乗船券の入手には多大な困難を要し,全財産をはたく難民もいた。一方で,イタリア人船員の多くは難民に対して同情的に接した。[16] [17] [18][19]

1940年10月のイタリア参戦により上海航路は無期停止となり,難民輸送は中断した。コンテ・ヴェルデは上海に停泊したまま帰国の方途を失った。

なお,参戦時イタリア側にいた姉妹船コンテ・ロッソは兵員輸送に動員され,翌41年5月24日,イギリス潜水艦の雷撃で沈没している。[20][21]

日米交換船 (1942)[編集]

1942年5月,太平洋戦争開戦後に日米に抑留された双方の外交官・市民の交換が合意された。日本側からは浅間丸とコンテ・ヴェルデを,アメリカ側からはスウェーデン船グリップスホルムを派遣し,アフリカのロレンソ・マルケス (現マプト)で抑留者を交換することになった。

交戦中の航海であるため,浅間丸とコンテ・ヴェルデの両船は三菱長崎造船所のドックに入り,日章旗と緑十字の塗装,夜間標識の取り付け,船内設備の整備が行われた。

その後コンテ・ヴェルデは上海に回航し,6月29日に主にアメリカ人抑留者を乗せて出航,7月9日にシンガポールで浅間丸と合流し,7月22日にロレンソマルケスに到着した。同地では,グリップスホルムで運ばれてきた日本人のうち,主に北米方面の抑留者は浅間丸に,南米方面の人々はコンテ・ヴェルデに乗船した。7月26日,両船はロレンソ・マルケスを離れ,8月20日に横浜へ到着した。コンテ・ヴェルデの運航は日本郵船の船長の指揮のもと,イタリア人船員が担当した。戦時下ではあったが,食事を含む船内サービスは充実していた。ただ,日本食が提供された浅間丸に対し,コンテ・ヴェルデでは提供されず,乗客自らが日本料理を作ったという。[22][23][24]

続く第2次交換に備えて横浜で待機したが,日米の交渉はまとまらず,コンテ・ヴェルデは9月5日に上海へ戻った。

末期 (1943-1945)[編集]

1943年9月8日,上海に停泊中のコンテ・ヴェルデは,連合国に降伏したイタリア本国政府の指令に基づいて船底を爆破し,擱座・横転した。この時,日本占領域にあったコンテ・ヴェルデを含む合計17隻のイタリア艦船が自沈している。この事件は日本政府の心証を悪化させ,その後の在日イタリア人の過酷な処遇の一因になったとされる。[25]

コンテ・ヴェルデの乗組員は全員日本軍に拘留され,工場勤務等を命じられた。その後,連合国軍の市街爆撃により,多数の乗組員が死傷している。[26]

一時は日本海軍によって護衛空母へと改装する事も考えられたが[27],1944年6月,日本軍はコンテ・ヴェルデの船体を輸送船として再利用するため,姿勢復元と再浮揚に着手する。復元作業半ばの8月8日,B24爆撃機による夜間奇襲を受けて被害を出すが,12月までに再浮揚に漕ぎ着け,江南造船所に収容される。[28][29] [30][31]ここでボイラー8基中4基,タービン2基,発電機2基等を修理し,翌45年4月には自力航行ができる状態まで復旧した。[32]4月11日には砲艦宇治と駆逐艦が護衛について黄浦江を下り,4月22日には海防艦5隻が護衛を引き継いで出航[27]。空襲や触雷に見舞われながら6月に舞鶴へと回航する。

しかし7月25日,再び空襲を受け大破・擱座し,そのまま終戦に至った。

1949年6月,コンテ・ヴェルデの船体は飯野産業により再浮揚され,1951年にスクラップとして三井造船に売却された。[33][27]

脚注[編集]

  1. ^ "The Ships List", Retrieved 2008-02-19
  2. ^ "The Propelling Machinery of the Twin-Screw Atlantic Liners 'Conte Rosso' and 'Conte Verde'." The Shipbuilder (Shipbuilder Press, London), September, 1922, pp. 117-127.
  3. ^ “The Italian Liner ‘Conte Verde’." Shipbuilding and Shipping Record (London), September 13, 1923, pp. 325-335.
  4. ^ The New York Times, February 19, 1922.
  5. ^ Bowen, Frank C. "A Century of Atlantic Travel 1830-1930." Sampson Low, Marston, 1930, p.331.
  6. ^ Brinnin, John Malcolm. "The Decoration of Ocean Liners: Rules and Exceptions." The Journal of Decorative and Propaganda Arts, Vol. 15, Transportation Theme Issue, Winter-Spring, 1990, pp.39-47.
  7. ^ デニス・グリフィス著,粟田亨訳: 豪華客船スピード競争の物語,成山堂書店,1998年,p.140,ISBN 9784425712915.
  8. ^ FIFA World Cup 1930 - Official FIFA World Cup web site
  9. ^ Alfred Fierarus "Erinnerungen an das Abenteuer von 1930"
  10. ^ Valerio Casali "Le Corbusier, Josephine Baker e il Music Hall"
  11. ^ Ducini, Prominenti "Antifascisti: Italian Fascism and the Italo-Argentine Collectivity, 1922-1945." The Americas (English edition) Vol. 51, Issue 1, 1994, p.41.
  12. ^ Giovanni Giotta & Kristen Jensen, “Giovanni Giotta---Song of the Fisherman”
  13. ^ 内藤初穂: 狂気の海 太平洋の女王浅間丸の生涯,中央公論社,1983,p.44,ISBN 4120012433.
  14. ^ Maraini, Dacaia. Ein Schiff nach Kobe: Das japanische Tagebuch meiner Mutter. Translated from the Italian by Eva-Maria Wager. München: Pieper Verlag GmbH, 2003, ISBN 9783492044899.
  15. ^ 佐藤裕一: フランソア喫茶室 京都に残る豪華客船公室の面影,北斗書房,2010年,ISBN 9784894671959.
  16. ^ Cope, Elizabeth W. "Displaced Europeans in Shanghai." Far Eastern Survey (Institute of Pacific Relations), Vol. 17, No. 23, Dec. 8, 1948.
  17. ^ Kranzler, David H. "The history of the Jewish refugee community of Shanghai 1938-1945." PhD thesis, Yeshiva University, 1971.
  18. ^ Ross, James R. Escape to Shanghai: A Jewish Community in China. New York: Free Press, 1994, pp. 42-50, ISBN 0029273757.
  19. ^ 丸山直起: 太平洋戦争と上海のユダヤ難民,法政大学出版局,2005年,p.61,ISBN 9784588377037
  20. ^ "Solidarietà augustana: La Tragedia del Conte Rosso."
  21. ^ "La Tragedia del Conte Rosso, Monumento ai Caduti d’Africa."
  22. ^ 鶴見俊輔ほか: 日米交換船,新潮社,2006年,ISBN 9784103018513.
  23. ^ 石射猪太郎日記,中央公論社,1993年,p.505, ISBN 9784120022302.
  24. ^ 海老名熱実: 「1942日米交換船とその時代」展パンフレット,日本郵船歴史博物館,2012
  25. ^ 石戸谷滋: フォスコの愛した日本―受難のなかで結ぶ友情,風媒社,1989年,pp.96-97, ISBN 4833130424.
  26. ^ 芦澤紀之: 風雲上海三国志,ヒューマン・ドキュメント社,1987年,pp.427-432, ISBN 4795232458.
  27. ^ a b c 木俣滋郎『日本海防艦戦記』図書出版社,1994年,p.181-184 ISBN 4-8099-0192-0
  28. ^ Robert Cressman: The official chronology of the U.S. Navy in World War II, Naval Inst Pr., 1999, p.246
  29. ^ Sinking of the Conte Verde Rickshaw.org. Retrieved on 15 February 2007.
  30. ^ Ships That Brought Us Rickshaw.org. Retrieved on 15 February 2007.
  31. ^ アジア歴史資料センター (JACAR) Ref. C08030676000、C08030676100、特設救難船春日丸: 春日丸戦時日誌,自昭和19年6月1日~至昭和19年6月30日,自昭和19年9月1日~至昭和19年9月30日,1944年.
  32. ^ 江南造船所―歴史と思い出―,江南造船所史刊行会,1973年,p.239
  33. ^ 舞鶴市史・現代編: 舞鶴市史編さん委員会,1988年,pp.315-317