コンスティチューション (帆走フリゲート)
| 艦歴 | |
|---|---|
| 発注 | 1794年 |
| 起工 | 1795年夏 |
| 進水 | 1797年10月10日 |
| 就役 | 1797年10月21日 |
| 退役 | |
| その後 | 就役中 |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 2,200トン |
| 全長 | 62 m (204 ft) |
| 全幅 | 13.3 m (43,5 ft) |
| 吃水 | 4.4 m (14.31 ft) |
| 機関 | 帆走(3本マスト、全横帆) |
| 最大速 | 13ノット (24 km/h) |
| 乗員 | 士官、兵員 450名 |
| 兵装 | 24ポンド(11 kg)長砲30門 32ポンド (15 kg) カロネード砲20門 4ポンド(11 kg)船首砲2門 |
| 愛称 | オールド・アイアンサイズ |
コンスティチューション(USS Constitution、愛称:オールド・アイアンサイズ<Old Ironsides>)は、アメリカ海軍の木造船殻、3本マスト、砲数44門のフリゲートである。名前はアメリカ合衆国憲法 (United States Constitution)から採られており、世界の航行可能な就役艦船で最古、かつアメリカ海軍の現役艦である。コンスティチューションは、1794年の海軍法で建造を承認された6隻のフリゲートの1隻であり、1797年に進水した。船の設計はジョシュア・ハンフリーズが行い、海軍の主力艦とされたので、当時の標準的なフリゲートよりも大きく、武装も重装備である。
1917年、コンスティチューションは、レキシントン級巡洋戦艦のコンスティチューション (CC-5)に名前を譲るため、オールド・コンスティチューションと名前を変えられた。巡洋戦艦コンスティチューションは結局完成されなかったので、コンスティチューションは1925年に元の名前となった。1941年に船腹等級記号IX-21(記号IXは分類されないその他を意味する)とされ[1]、1975年には記号無しとなった。[2]
目次 |
艦歴 [編集]
建造と初期の戦歴 [編集]
コンスティチューションは、マサチューセッツ州ボストンのエドマンド・ハート造船所で、ジョージア州セントシモンズのギャスコイン・ブラフで切り出され製材された弾力性のある2,000本のライブ・オーク材(特にサザン・ライブ・オーク)を使って建造された。コンスティチューションの側板の厚みは7インチ (178 mm)あった。船の構造は当時としては特徴があり、船殻の対角線上に交差する筋違いがあり、船体強度をかなり上げている。側板を止める銅製の釘やボルト、および船腹を守る銅被覆はポール・リビアが鍛造した。1797年にボストン港に進水させるまでに何度か失敗を重ねた。コンスティチューションは、1798年7月2日に初めて出航し、フランスとの擬似戦争で合衆国南東沿岸の警戒にあたった。この作戦行動中に、サントドミンゴのプエルト・プラタに対する水陸両用作戦に参加し、フランスの私掠船サンドウィッチを捕獲し、スペイン砦の大砲を使用不能にした。
1803年、コンスティチューションはエドワード・プレブル艦長指揮の地中海艦隊の旗艦とされ、北アフリカのバーバリに対する戦争に向かった。バーバリは合衆国からの貢ぎ物を要求する代わりに地中海の港へアメリカ商船の寄港を許すという態度に出た。プレブルはトリポリに対して攻撃的な姿勢で臨み、港を封鎖して要塞に艦砲射撃を加えた。最後にトリポリ、チュニスおよびアルジェが平和条約に応じた。
コンスティチューションは、終戦後も2年間、条約の条件を履行させるために北アフリカ海岸の警戒航海を続けた。指揮官は1803年から1805年の間にステファン・ディケイターと他の2人の艦長に順次交代された。
1807年にはボストンに戻り艤装改良工事で2年間を費やされ、1809年にジョン・ロジャース海軍准将の指揮で北大西洋艦隊の旗艦に再就役した。
米英戦争 [編集]
1812年早く、イギリスとの関係が険悪なものとなり、海軍は戦争の準備を始めた。米英戦争の宣戦布告は6月20日になされた。1810年に指揮官に任命されたアイザック・ハルの指揮で、コンスティチューションは6月12日に命令無しで出港し、港湾封鎖に備えた。ハルの考えはロジャース艦隊の5隻と合流することだった。
コンスティチューションは7月17日にニュージャージー州エッグ・ハーバー沖で5隻の艦影を認めた。翌朝、見張りがそれらの船はイギリス海軍の艦隊であることを確認した。イギリス艦隊もコンスティチューションを視認し追掛け始めた。ハルは風が凪いでいることを感じ取り、熟練した乗組員はボートを下ろして艦を曳航させた。小錨を使って艦の向きを良くし、帆を濡らして重たくし少しの風でも仕えるようにした。これで緩っくりとではあるが追いかけるイギリス艦隊との距離を離した。7月の過酷な暑さの中での2日2晩にわたる骨折りによって、コンスティチューションは遂に追跡者をまいた。
1ヵ月後の8月19日、コンスティチューションはノバスコシア海岸沖で、イギリス艦隊の1隻やや小さなフリゲートHMSゲリエール(38門艦)と遭遇した。イギリスのフリゲートは射程距離に入ると砲撃を開始した。ハル艦長は搭載砲による攻撃を止めて、2つの艦がわずか25ヤード (23 m)まで近付いたときに砲撃を開始した。戦闘の間に両艦は3度衝突したが、海兵隊員らのマスケット銃による銃撃が交わされ、乗組員の移乗攻撃を妨げていた。3度目の最後の衝突のときに、ゲリエールの斜檣がコンスティチューションの艤装に絡まった。両艦が引き分かれると、ゲリエールの斜檣を引く力が艤装を通じて衝撃を与えた。ゲリエールはフォアマストを折られ、続いてメインマストも引きずり倒された。マストにひどく損傷を受けたゲリエールは、港への曳航も叶わなくなった。
コンスティチューションは舷側砲の強さと優れた帆走能力を持っていた。イギリス軍の水兵も驚いたことに、彼らの放った砲弾がコンスティチューションの強いライブ・オーク製の側板に跳ね返されて損傷を与えられなかった。コンスティチューションは「古い鉄の船腹 」("Old Ironsides")と渾名された。
この年の12月、ウィリアム・ベインブリッジ指揮となったコンスティチューションは、イギリスの別のフリゲートHMSジャバ(38門艦)と遭遇した。3時間におよぶ戦闘により、ジャバは修繕も出来ないほど破壊され焼却処分にされた。コンスティチューションの勝利はアメリカの市民の士気に大きな昂揚感をもたらした。
その後1815年の終戦までに、修繕や港湾封鎖の影響で長い月日を港の中で過ごしたにも拘わらず、コンスティチューションはチャールズ・スチュワート艦長の指揮で他に8隻を捕獲した。その中には艦隊を組んでいたフリゲートHMSサイアニー(22門艦)とスループ艦レパント(20門艦)を同時に捕獲したことも含まれる。その後6年間の大改装を経て大西洋艦隊の旗艦に戻った。コンスティチューションは1828年にボストンに帰港した。
再改造後の1835年の就役 [編集]
1830年に行われた検査で、コンスティチューションはそれ以上の就役に適さないとされたが、アメリカの世論がその解体に大きな不満を表した。特にオリバー・ウェンデル・ホームズの詩「オールド・アイアンサイズ」が出版された後はその声が大きくなった。アメリカ合衆国議会はコンスティチューションの再建予算案を可決し、1835年に再び就役した。コンスティチューションは地中海と南太平洋で旗艦として従軍し、1844年3月に始まる30ヶ月の世界周航も果たした。1842年には新型のペクサン砲を4門搭載している。
1850年代、コンスティチューションはアフリカ沿岸を奴隷貿易船を探して警戒航海し、南北戦争の間は海軍士官候補生の訓練艦となった。しかし、コンスティチューションは同型艦とともに戦闘艦としては急速に時代遅れとなった。1838年には既に蒸気船が大西洋航路に就航しており、南北戦争中のハンプトンローズ海戦では鋼板製あるいは鋼板被覆製の船に対して木造船の弱さを示すことになった。
しかし、前線での活動は制限されたものの、コンスティチューションは海軍と国のための活動を続け、1871年に再改造の期間を持った後、1878年のパリ万国博覧会に品物を運んだり、練習艦として活動した。1882年の退役後、コンスティチューションはニューハンプシャー州ポーツマスで接待船として使われた。1897年には生誕100周年を記念してボストンに帰港した。
1925年の修復 [編集]
1905年、コンスティチューションは大衆の支持で今一度解体を免れた。1917年、レキシントン級巡洋戦艦のコンスティチューション (CC-5)に名前を譲るため、オールド・コンスティチューションと名前を変えられた。巡洋戦艦コンスティチューション (CC-5)は、1922年のワシントン海軍軍縮条約に従い、1923年に建造中止となった(全体の14%しかできていなかった)。コンスティチューションは1925年に元の名前となり、学校の生徒や愛国者集団の寄付によって再修理を施された。1931年に再就役し、引き舟に引かれて就航した後は、アメリカ大西洋岸、メキシコ湾岸およびアメリカ太平洋岸の90の港湾都市を訪ねて回った。
3年間の訪問航海中、460万人以上の人がコンスティチューションの見学に訪れた。コンスティチューションはアメリカの象徴としての位置づけを獲得し、母港のボストンに帰港した。1940年コンスティチューションは永久就役ということになり、1954年の議会法でアメリカ合衆国海軍長官がその維持管理の責任を負うことになった。
1976年7月11日、アメリカ合衆国の独立200周年を祝うために、イギリスのエリザベス2世とエディンバラ公がボストンを訪れ、指揮官のタイロン・G・マーチンと共にコンスティチューションに乗船した。海軍長官のJ・ウィリアム・ミッデンドーフは、1970年代初期の改修の際に船穀から取り出した当初材を使って制作した私物箱を女王に進呈した。
1992年からの再修理と航海への復帰 [編集]
1992年から1995年までの44ヶ月をかけて、コンスティチューションは分解修理と改装を施され、十分に海洋を帆走できる状態になった。これはコンスティチューションの保存状態が良かったからであった。この改装では、前の改装の際に時間と金を節約するために取り除かれていた最小の構造材料の多くが再び使われた。例えばホッギング(一つの波頭が船体の中央を押し上げて、船首および船尾が下がり、船体が曲がること)に抵抗するハンフリーの特徴ある斜補強材である。[3]
1997年7月21日、コンスティチューションの生誕200周年を祝い、116年ぶりに航海に出た。コンスティチューションはボストンのいつもの桟橋から曳航されてマサチューセッツ州マーブルヘッドの夜間係留所に到着した。このマーブルヘッドへの航海は、チャールズタウンの桟橋を一昼夜離れた1934年以来のことであった。約450名の乗船者の中で要人には、海軍長官、アメリカ海軍作戦部長、アメリカ海兵隊副司令官(リチャード・I・ニール将軍)、エドワード・ケネディ上院議員および「アメリカの良心」と呼ばれたウォルター・クロンカイトがいた。海岸から5海里 (9 km)ほどの所で、引き綱が下ろされ、指揮官のマイク・ベックが6枚の帆(ジブ、トップスルおよびドライバー)を張るように命じた。コンスティチューションは自力で40分間南南東に帆走した。風速約12ノット (22 km/h)の風を受けて、最高速度は6.5ノット (12km/h)になった(本稿最上段の写真を参照)。帆走中に、現代の海軍戦闘艦、ミサイル駆逐艦ラメージとミサイルフリゲートハリバートンが護衛し、オールド・アイアンサイズに栄誉の礼を送った。またブルーエンジェルスが上空を通過し116年振りの航海を祝った。翌日の夕方、チャールズタウンの永久桟橋に戻り、ボストン港のキャッスルアイランドにあるインデペンデンス砦に向かって21発の祝砲を放った。[4]
現在 [編集]
現在のオールド・アイアンサイズの役割は、「国の船」であることである。コンスティチューションはアメリカ海軍の歴史で最も有名な艦と考えられている。その使命は、毎年多くの観光客や見物客に海軍を宣伝することである。55名の水兵が儀式や教育的プログラムおよび特別のイベント(帆を張る訓練を含む)に参加し、一年中観光客を迎え、自由見学ができる。乗組員は現役の水兵であり、海軍の特別任務と考えられている。伝統的に艦長の任務は現役の海軍中佐に割り当てられる。
コンスティチューションは最古の現役艦ではあるが、就役が一番古いわけではない。イギリスの戦列艦ヴィクトリーは30年程就役が早かった最古の艦船ということになっている。ただしヴィクトリーは永久に船渠に入ったままである。
コンスティチューションは、アメリカ海軍で敵を沈めた経験のある2隻の現役艦の一つである。もう1隻はシンプソンである。
コンスティチューションは、チャールズタウン海軍基地の1号桟橋に係留されているが、この桟橋はボストンのフリーダムトレイルの終端でもある。コンスティチューションは、一年中公開されている。しかしアメリカ海軍の現役艦として、訪問は海軍の規則に従うことになっており、また時に航海に出る時もある。公式HPはschedule and provisionsである。私立のコンスティチューション博物館が近くにあり、2号桟橋の付け根にある復元された造船所の建物が使われている。
年譜 [編集]
| 項目 | データ |
|---|---|
| 建造所 | ジョージ・クラグホーン大佐、エドマンド・ハート造船所、マサチューセッツ州ボストン市 |
| 建造費 | $302,718 (1797年の費用) |
| 材料 | 2000本の木からの木材 |
| 推進 | 3本マストの帆 総面積42,710 ft2 (3,968 m2) |
| マスト高さ | 前檣, 198 ft (60 m) |
| 主檣, 220 ft (67 m) | |
| 後檣, 172.5 ft (52.56 m) | |
| 排水量 | 2,200 t |
| 速度 | 13 kt (24 km/h) |
| ボート | 36 ft (11 m) 長尺ボート1隻 |
| 30 ft (9 m) カッター2隻 | |
| 28 ft (9 m) 捕鯨ボート2隻 | |
| 28 ft (9 m) ギグ1隻 | |
| 22 ft (7 m) 雑用ボート1隻 | |
| 14 ft (4 m) 平底小舟1隻 | |
| 碇 | 船首碇5300 lb (2,400 kg)2機 |
| 非常用の大錨5400 lb (2,400 kg)1機 | |
| 中錨1100 lb (500 kg)1機 | |
| 小錨400-700 lb (180-320 kg)2機 |
- 1797年10月21日 - ボストンのエドマンド・ハート造船所で進水および洗礼。
- 1798年8月 - フランスとの擬似戦争で従軍。
- 1803年 - 1806年 - 地中海艦隊の旗艦、バーバリ戦争。
- 1812年 - 1815年 - イギリスとの米英戦争。
- 1812年8月19日 - イギリスのフリゲートHMSゲリエール(38門艦)を破る。敵の砲弾を船腹が跳ね返したので、オールド・アイアンサイズの渾名が付く。
- 1812年12月29日 - イギリスのフリゲートHMSジャバと他に5隻の小さな船を捕獲。
- 1815年2月20日 - イギリスのフリゲートHMSサイアニーとスループ艦・レパントを捕獲。
- 1828年 - 1830年 - ボストンで係船。解体を宣告されたが、オリバー・ウェンデル・ホームズの詩「オールド・アイアンサイズ」に救われる。
- 1844年3月 - 30ヶ月世界周航を開始。
- 1920年 - オールド・コンスティチューションと改名。レキシントン級巡洋戦艦の一つUSSコンスティチューション (CC-5)に名前を譲るため。
- 1923年 - USSコンスティチューション (CC-5)の建造中断。コンスティチューションは元の名に戻る。
- 1931年 - 1934年 - 国内90の都市を巡回し、ボストン港に戻る。
- 1957年 - ノルウェーの帆船クリスチャン・ラディックが来訪し、映画「ウィンドジャマー」を撮影。映画はアメリカで1958年に公開。映画のシーンはボストンとポーツマスでも撮影。
- 1960年12月19日 - アメリカ国定歴史建造物に指定。[2]
- 1972年 - 1975年 - アメリカ合衆国独立200周年祭の準備で改装。最初の木材の一部が取り除かれる。
- 1976年 - 独立200周年祭の際にエリザベス2世が来艦
- 1996年3月 - 1997年 - 44ヶ月の改装完成
- 1997年7月21日 - 116年振りの航海
文学、映画および大衆文化の中のコンスティチューション [編集]
- コンスティチューションは1926年の無声映画「オールド・アイアンサイズ」で航行可能な模型を使って撮影された。映画は第一次バーバリ戦争の戦闘を劇化したものである。興味あるシーンは、捕獲されたUSSフィラデルフィアにステファン・ディケイターが乗り移るシーン、ケッチ船USSインターピッドのリチャード・サマーによる破壊シーンおよび3本マストのバーケンティンS.N.キャッスル(トリポリ侵略者を表象)が沈没するシーンである。
- C. S. フォレスターの小説ホーンブロワーシリーズ第3巻『砲艦ホットスパー』("Hornblower and the Hotspur")では、スペインのカディス港で、HMSホットスパーがコンスティチューションの隣の桟橋に係留されている。ホットスパーはバーバリの海賊に対する作戦行動中にそこを訪れた。
- コンスティチューションのHMSジャバとの戦闘は、パトリック・オブライアンのオーブリー&マチュリンシリーズ第6巻『ボストン沖、決死の脱出行』("The Fortune of war")に登場する。[5]
- 映画「マスター・アンド・コマンダー」(原作はオーブリー&マチュリンシリーズ第10巻『南太平洋、波瀾の追撃戦』("The Farside of the World"))に登場する想像上のフランスのフリゲート・アケロンの映像は、コンスティチューションの船尾から船首までの画像を使ってコンピュータ処理されたものとなった。[6]アケロンはアメリカ人によってボストンで造られたことになっている。ただし、原作の小説にはアケロンが登場していない。
- アニメG.I.ジョー・シリーズの逸話ではコブラ・コマンダーが電子技術を使ってその旗艦を不死身の近代戦艦に変えたコンスティチューションで航海する。
- ウィズキッズ・ゲーム「革命の海賊」ではコンスティチューションが操作できる船になっている。
- クライブ・カッスラーの小説では、「FIRE ICE」(邦訳題:『ロマノフの幻を追え』)など、戦闘場面にコンスティチューションが登場する話がある。
- テレビの空想科学作品「スタートレック」シリーズのひとつ『宇宙大作戦』の時代に登場するUSSエンタープライズ (NCC-1701)は、コンスティチューションに因んで名づけられたコンスティチューション級宇宙船である。
都市伝説 [編集]
1997年8月6日、海軍長官ジョン・H・ダルトンはアイアンサイズについて演説を行った。[1]ダルトンは、米英戦争の一部としての旅の詳細を、ボストンを出航してジャマイカからポルトガルのアゾレス諸島に行き、イギリスに行って5隻の戦列艦を打ち破り、12隻のイギリス商船を沈め、続いて武装解除してスコットランドのファース・オブ・クライドに行ってウィスキーの蒸留所を襲ってからボストン港に2月23日に帰ったと語った。話のポイントは海軍と海兵隊には「スピリット」(精神と酒、両方に掛けている)があり、ノン・アルコール飲料を飲むことに頼っていないということであった。しかし、話が詳細にわたっており、電子メールでしばしば流されている事実や個人の「海軍史」ウェブサイトに登場してはいるが、これは確実に作り話である。艦船がスコットランドの近くに行ったとか多くの艦船と交戦したという記録は無い。さらに、この伝説は乗組員が毎日2ガロン (8 リットル)以上のアルコールを消費しなければならない。
この話のあるバージョンは1812年から1813年の旅としているが、他のバージョンは1779年から1780年としている(アイアンサイズは1797年就役なので、ありそうにない)。この話の元は不明である。アメリカ海軍の海洋学者が定期的に刊行している「海洋学船、前と後ろ」に載っているという報告もあるが、これは都市伝説の装飾に過ぎない。[2]その他の情報源は「合衆国大西洋指揮、合同訓練、分析および模擬実験センター」だという。
脚注 [編集]
- ^ a b “USS CONSTITUTION”. Naval Vessel Register. 2007年2月12日閲覧。
- ^ “USS Constitution Rehabilitation And Restoration”. 2007年7月15日閲覧。
- ^ “Sail 200”. 2007年2月11日閲覧。
- ^ Patrick O'Brian (1980). The Fortune of War. ISBN 0393308138.
- ^ “Now Playing at a Theater Near You: Old Ironsides”. The Washington Post (2003年11月16日). 2006年7月1日閲覧。
- Thomas P. Horgan, Old Ironsides (Burdette & Co., 1963)
- Tyrone G. Martin, A Most Fortunate Ship 2nd edition (Naval Institute Press, 1997)
- Undefeated (Tryon Publishing Company, 1996)
- The Great Ships - Frigates (The History Channel, 1997)
- A Signal Honor (Tryon Publishing Company, 2003)
- A Call to the Sea: Captain Charles Stewart of the USS Constitution
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
アメリカ海軍 [編集]
- Official USS Constitution homepage
- Old Ironsides' Battle Record, including original documents
- Artwork of Constitution in the War of 1812 escaping the British fleet and capturing HMS Guerriere
- Constitution's U.S. Navy Fact File entry
- Constitution's Naval Vessel Registry entry
一般 [編集]
- The Captain's Clerk
- USS Constitution Museum
- local.live.com Bird's Eye View of USS Constitution at port
- Biography of Captain Charles Stewart of the USS Constitution
- Maritimequest USS Constitution Photo Gallery
- Boston National Historical Park Official Website
| 先代: オールドノースチャーチ |
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