ゲオルク・フォン・キュヒラー
| ゲオルク・フォン・キュヒラー | |
|---|---|
| 1881年5月30日 - 1968年5月25日 | |
| 生誕地 | ヘッセン州ハーナウ |
| 死没地 | バイエルン州 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン |
| 軍歴 | 1910~1945 |
| 最終階級 | 陸軍元帥 |
ゲオルク・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・キュヒラー(Georg Karl Friedrich Wilhelm von Küchler 、1881年5月30日 - 1968年5月25日)は、ドイツの軍人。最終階級は陸軍元帥。第二次世界大戦で軍司令官や軍集団司令官を務めた。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 初期の軍歴
ハーナウ(ヘッセン州)近郊のフィリップスルーエ城に、将校の息子として生まれる。19歳で第1ヘッセン大公野戦砲兵連隊に入営。翌年少尉に任官し、ハノーファーの騎兵学校で教育を受ける。1910年に中尉に昇進。陸軍大学で学んだのち、1914年初めにベルリンのプロイセン参謀本部付に転属となった。第一次世界大戦では中隊長を務めて第一級鉄十字章を受章し大尉に昇進。その後参謀本部付を経て、終戦まで第206歩兵師団や第9後備歩兵師団の主席参謀を務めた。
終戦直後は「クールラント」旅団参謀としてバルト三国での紛争に従軍。ヴァイマル共和政下でも軍に残り、第1軍団参謀に転属。1920年に国防省教育部に短期間務めたのち、1920年代をさまざまな教育部門での役職で過ごす。この間1923年に少佐、1929年に中佐、1931年に大佐に昇進。1932年10月、東プロイセンの砲兵指揮官に就任。1934年4月に少将に昇進したのち、士官学校監察官を務める。翌年中将に昇進。半年の軍事裁判所副総裁を経て、1937年に砲兵大将に昇進し東プロイセンの第1軍団司令官に任命される。1939年3月、ナチス・ドイツがリトアニアを恫喝して割譲させたメーメル地方への進駐に従事。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦が勃発すると、第3軍司令官に任命されポーランド侵攻作戦に従事。この戦功により騎士鉄十字章を受章。しかし9月22日にワルシャワ郊外で前陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが戦死してその葬儀が行われた際、フリッチュの罷免(ブロンベルク罷免事件)を批判する発言をしたため、司令官を更迭された。しかし陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュの介入ですぐに第18軍司令官に任命された。
翌1940年の西方電撃戦ではオランダを占領し、その戦功により7月19日に上級大将に昇進した。翌年始まった独ソ戦でも、北方軍集団に属する第18軍を指揮。更迭されたヴィルヘルム・フォン・レープの後任として、1942年1月17日に北方軍集団司令官に任命された。北方軍集団司令官としてレニングラード包囲戦を指揮し、同年6月30日、元帥に列せられる。およそ2年間にわたり北方軍集団を指揮したが、1944年1月にソ連軍がレニングラード包囲網を破ると、ヒトラーにより司令官を更迭され、以後軍の指揮を命じられることはなかった。
戦後は戦争犯罪人としてニュルンベルク継続裁判の1つ国防軍最高司令部裁判にかけられ、懲役20年の判決を受けた。のち12年に減刑され、1953年にバイエルン州のランツベルク監獄を出所した。隠棲先のガルミッシュ・パルテンキルヒェンで死去。
[編集] 外部リンク
- ドイツ歴史博物館略歴紹介(ドイツ語)