ゲオルギー・ダネリヤ
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ゲオルギー・ダネリヤ(Георгий Данелия、1930年8月25日 トビリシ - )は、ロシアの映画監督。ロシア国籍のグルジア人。
1955年、モスクワ建築大学卒業。その後「モスフィルム」の上級監督コースを修了。1959年からモスフィルムで監督として働きはじめる。
最初の長編映画作品はヴェーラ・パノワ(Вера Панова)の中篇小説を題材とした「セリョージャ」(1960年、イーゴリ・タランキンと共同監督)であった。この作品は、カルロヴィ・ヴァリ映画祭をはじめとするいくつかの国際映画祭で賞を獲得した。
「僕はモスクワを歩く」(1963年)で滑稽さと悲しみ、皮肉とリアリズム、そして複雑な性格とドキュメンタリー調に映された街の風景を結合させる自身のスタイルを確立。日本でも上映された[1]。このほかの日本公開作に「不思議惑星キン・ザ・ザ」(1986年)がある(日本公開は1991年)。
またソ連国内で最も観客動員数が多かったのは「アフォーニャ」(1975年)である。タシケント国際映画祭で大賞を受賞している。
その他の作品としては、モスクワ国際映画祭で金賞を獲得した「ミミノ」(1977年)や、サン・セバスティアン国際映画祭で大賞を獲得した「秋のマラソン」(1979年)などがあげられる。
監督作品 [編集]
(観客動員数などの基本データは、Энциклопедия отечественного киноおよびセルゲイ・クドリャフツェフ[2]による)
- 1960年 Сережа (邦訳:セリョージャ、タランキンと共同監督)、80分(白黒)、観客動員2320万人、『ソビエト・スクリーン』誌の読者投票で「1960年の優秀映画」に選出。
- 1962年 Путь к причалу (邦訳:埠頭への道)、89分(白黒)、観客動員1640万人。
- 1963年 Я шагаю по Москве (邦題:モスクワを歩く[3])、78分(白黒)、観客動員2000万人。
- 1965年 Тридцать три (邦訳:33)、77分(白黒)、検閲により事実上の公開禁止[4]。
- 1973年 Совсем пропащий (邦訳:行方不明)、98分、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」にもとづく児童映画。
- 1975年 Афоня (邦訳:アフォーニャ)、92分、観客動員6220万人(1975年の第1位)。
- 1977年 Мимино (邦訳:ミミノ)、97分、観客動員2440万人(1978年の第17位)。
- 1979年 Осенний марафон (邦題:秋のマラソン)、94分、観客動員2230万人。
- 1982年 Слезы капали (邦題:泣けてくる)、89分。
- 1986年 Кин-дза-дза (邦題:不思議惑星キン・ザ・ザ)、135分、観客動員1570万人(1987年の第14位)。
- 1990年 Паспорт (邦訳:パスポート)、98分。
- 1993年 Настя (邦訳:ナスチャ)、89分。
- 1995年 Орел и решка (邦訳:表か裏か)、86分。
- 2000年 Фортуна (邦訳:フォルトゥナ号)、87分。
注 [編集]
- ^ 1964年10月 第2回ソビエト映画祭(10月28日 東京・有楽町読売ホール、10月30日 新潟・松竹大竹劇場)で上映:ロシア映画社アーカイブスより。
- ^ クドリャフツェフ編の観客動員数の統計資料については、次の文献を参照のこと。西周成『映画 崩壊か再生か』(アルトアーツ、2011年9月)24ページ、同『タルコフスキーとその時代』(アルトアーツ、2011年4月)83~86ページ。
- ^ アテネ・フランセ文化センターでの上映時の邦題。直訳は「僕はモスクワを歩く」。
- ^ 監督の自伝 Безбилетный пассажир. М.,: Эксмо, 2011. による。
参考文献 [編集]
- Некипелов А.Д. (глав. ред.) Новая Российская энциклопедия. М., 2003.,Т. 5.
- Щукин А.Н. Кто есть кто в русской истории: 2000 известных россиян. М., 2011.
- 『新版 ロシアを知る事典』(平凡社、2004年1月)