グルドン (アルプ=マリティーム県)

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Gourdon

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏
(département) アルプ=マリティーム県
(arrondissement) グラース郡
小郡 (canton) バール=シュル=ルー小郡
INSEEコード 06068
郵便番号 06620
市長任期 エリック・メル
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté d'agglomération de Sophia Antipolis
人口動態
人口 426人
2010年
人口密度 19人/km2
住民の呼称 Gourdonnais
地理
座標 北緯43度43分16秒 東経6度58分45秒 / 北緯43.7211111111度 東経6.97916666667度 / 43.7211111111; 6.97916666667座標: 北緯43度43分16秒 東経6度58分45秒 / 北緯43.7211111111度 東経6.97916666667度 / 43.7211111111; 6.97916666667
標高 平均:m
最低:157 m
最高:1335 m
面積 22.53km2
Gourdonの位置(フランス内)
Gourdon
Gourdon
公式サイト Site de la mairie
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グルドンGourdon)は、フランスプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルプ=マリティーム県コミューンフランスの最も美しい村に登録されているコミューンの1つである[1]

地理[編集]

地上から近づくに容易でない岩山の上のあるグルドン

グルドンの村は標高760mの目もくらむような山の頂上に腰掛けるようにしてあり、ルー川の谷を見下ろす。この地形から『鷹の巣』と呼ばれる。

歴史[編集]

グルドンの村は、その戦略的な位置によって1000年もの間他に例を見ない天然の防御の地であった。村の軍事史は、二重の壁を備えたローマ時代の駐屯地跡、オッピドゥム、そして広場の北側を守る塔を備えた壁しか残っていない。ロマネスク様式の門は村への行き来を保証するものであったが20世紀初頭に壊されている。中世の城は1950年から一般公開されている。

一部の歴史家たちは、現在の村の位置にはかつて城があったと信じている。当時の村はここから2km離れた、現在のサン・ヴァンサン礼拝堂の近くに見られるが現在は廃墟となっている。

初めてこの地について触れられたのは1035年、Gordoneとしてであった。プロヴァンス伯によって12世紀に再建された城は、9世紀、10世紀に建設された城を基盤としていた。1235年まで城はプロヴァンス伯のものだった。やがてプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世が城を寄付した。1235年4月、グラース・ド・バール家が城を財産とした。

教会の後陣

ナポリ女王ジョヴァンナ1世の死によって、彼女が兼ねていたプロヴァンス伯位の継承危機が起きた。エクス同盟の都市たちはルイ1世・ダンジューに対してドゥラッツォ公カルロ(ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォの子。ジョヴァンナ1世の妹マリアの夫)を支持した。その後1387年10月、エクス=アン=プロヴァンスはカルロ支持者グルドン領主エリオン・ド・ヴィルヌーヴの元へ急いで集結し従った。彼は数年間カルロを支持し続けたが、エリオンはバレーム領主、ロクブリュヌ領主である弟2人とともにアンジュー派に加わった。そして1388年1月、ルイ1世・ダンジューの未亡人マリー・ド・ブロワ=シャティヨンとの間に和平憲章を締結、当時10歳であったルイ2世・ダンジューに臣従を誓った[2]。1389年、グルドン領主の位は婚姻によってヴィルヌーヌ・フレヨスク家へ渡った。

1469年、ルイ・ド・ヴィルヌーヴは村の住民たちから臣従を受けていた。1495年、フランス王シャルル7世は領主の権限を確認した。1550年、婚姻によってアスプルモンのボリリョーヌ家に城が渡った。

村の中心部
グルドン城

ユグノー戦争時代の1584年、カノー領主アンリ・シャルル・ド・グラースはリーグ派に抵抗した。

1598年、アスプルモンは領主権を12000エキュでルイ・ド・ロンバールへ売却した。ルイ・ド・ロンバールは古い城を壊し、1610年に再建した。教会に付属されていた礼拝堂は村の教区教会となった。1653年、城に2階が付け足された。1654年、グルドン領主はガブリエル・グリマルディを妻に迎えた。

フランス革命時代、城主ジャン・ポール1世・ド・ロンバールは自由思想の持ち主だったので王党派に加わらなかった。城は破壊されずに塔が低くされて残され、2階は壊されたが1階が残された。

1815年、進軍してきたオーストリア軍が城に被害を与えた。

1809年から1820年まで、ジャン・ポール2世・ド・ロンバールがグルドンの首長を務めた。1820年にジャン・ポール2世が亡くなると、遠縁のヴィルヌーヴ・バルジュモン侯爵が城を相続した。彼は城を荒れた状態で放置した。

1891年4月19日、イギリス女王ヴィクトリアがグルドンを訪問した。女王の名は、海岸までのパノラマが眺められる、村の広場に残っている[3]

1907年11月22日、ルー峡谷で道路建設作業中に落石が発生し17人が死亡した。建設作業が終了するまで、全ての交通は村に通じる2本の狭く険しい山道を通るしかなく、荷物は家畜の背に乗せなければならなかった。

1909年4月28日、フランス大統領アルマン・ファリエールが首相ジョルジュ・クレマンソーに伴われてグルドンを訪問した。

1918年、アメリカ人女性ノリス嬢がグルドン城を購入した。彼女は城を元の状態に復元するよう努めた。

1944年8月24日、ドイツ軍がプロヴァンス鉄道の橋であるポン・デュ・ルーを爆破した。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2010年
216 242 254 231 294 379 437 426

参照元:1999年までEHESS[4]、2000年以降INSEE[5][6]

脚注[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ Geneviève Xhayet, « Partisans et adversaires de Louis d'Anjou pendant la guerre de l'Union d'Aix », Provence historique, Fédération historique de Provence, volume 40, n°162, « Autour de la guerre de l'Union d'Aix », 1990, p.408 (note 33).
  3. ^ 寺田直子『フランスの美しい村を歩く』東海教育研究所、2016年、54頁。ISBN 978-4-486-03796-5 
  4. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=15813
  5. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  6. ^ http://www.insee.fr