グナエウス・ドミティウス・コルブロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
グナエウス・ドミティウス・コルブロ

グナエウス・ドミティウス・コルブロGnaeus Domitius Corbulo, 7年 - 67年)は、ユリウス・クラウディウス朝期のローマ帝国の軍人。皇帝ネロの治世で主に対パルティアで目覚ましい戦功を挙げた。

経歴[編集]

幼少期〜青年期[編集]

コルブロはイタリアの元老院階級の家庭に生まれた。コルブロの父親は皇帝ティベリウス治世のもとではプラエトル職の任にあった。幼少期については詳しくは分かってはいない。

皇帝カリグラの治世である40年コンスル職に当選した。彼はまたカリグラとはその妻カエソニアを通じて血縁でもあった。しかし41年にカリグラが暗殺、クラウディウスが皇帝に就任すると、その後は彼の官職歴は47年まで止まったままだったが、クラウディウスによって低地ゲルマニアの司令官として取り立てられ、本部をコロニア・アグリッピナ(現ケルン)に設置する。この地の統治は困難で、彼は数々のゲルマン人の反乱を鎮圧せねばならなかった。この間に彼はライン川マース川をつなげる運河を作っている。

パルティアとの戦い[編集]

任期を終え、帰還したコルブロは52年までローマに留まり、属州アシアの総督に任命される。54年にクラウディウスが没しネロが皇帝となると彼は東方属州に派遣され、アルメニアにおけるパルティアとの紛争に対処する事となる。しかし指揮系統が二分された命令だったために、使える戦力も権限も不十分であり続けた。準備に数年間をかけた後、58年ゲルマニアから援軍を要請した上でアルメニアに侵攻、アルメニア王トリダテスとパルティア王ヴォロガセス1世と戦い、親ローマ派の王を擁立する事に成功した。しかしながら61年に今度は親ローマのアルメニア王国がパルティア内のアディアバネ王国に侵攻したため、ローマとパルティアの戦争は不可避になるかに思われた。しかしヴォロガゼス1世は和議を選択、両者は和平に至った。その内容は、ローマが擁立した親ローマ派の王を廃位、アルメニア王ティリダテス1世(トリダテス、ヴォロガセス1世の弟)の領地を承認するというものであった。

コルブロにとって重要なのはシリア属州の安全保障であり、そのためにローマの衛星国アルメニアをパルティアに譲渡するつもりであった。これに対してローマ本国は条約締結に難色を示し、カッパドキア総督カエセンニウスにアルメニアを再びローマの支配下に戻すよう命令した。しかしこれはカエセンニウスがパルティアに大敗を喫して降伏したため失敗に終わる。結果としてインペリウムが授与され東方全軍がコルブロの指揮下となり、大軍を率いてユーフラテスを越えパルティアへ侵攻、これに対してパルティア側は和平を選択する。この結果ティリダテス1世をアルメニア王として承認するが、ローマに赴いてそこで皇帝ネロの下で戴冠を行うという、ローマにとって大いに面目を保てる内容となった。ティリダテスは旅路で大歓迎を受けつつローマへ赴き、以後親ローマの立場を取り続ける。これ以後アルメニア、パルティアとローマとの間は50年以上、トラヤヌスの時代まで平和が保たれた。そのためネロ死後の内乱でも、東方から介入されることも防がれた。

[編集]

コルブロの人気は軍団でも高かったが、皇帝ネロはコルブロの義理の息子が自分の暗殺に加担していた事からコルブロに対して疑惑を抱くようになる。67年ユダヤ属州で反乱が起きたが、ネロはコルブロの力量を恐れウェスパシアヌスに鎮圧の任を任命する。そしてネロはギリシアに巡幸の際に東方の司令官であったコルブロとゲルマニアの司令官であった彼の兄弟をギリシアへ召還、コルブロたちに自死を命じた。これに対してコルブロは異を唱えず、従容として自殺した。

関連項目[編集]