グスタフ・アドルフ (ヴェステルボッテン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
グスタフ・アドルフ
Arvprins Gustaf Adolf
Hertig av Västerbotten
Prince Gustaf Adolf, Duke of Westrobothnia.jpg
続柄 スコーネ公グスタフ・アドルフ王太子第一男子(グスタフ5世孫)
称号 ヴェステルボッテン公爵
全名 グスタフ・アドルフ・オスカル・フレドリク・アルトゥル・エドムンド
身位 Arvprins(王子)
敬称 英語の場合His Royal Highness(殿下)
出生 1906年4月22日
スウェーデンの旗 スウェーデンストックホルムストックホルム宮殿
死去 1947年1月26日(満40歳没)
デンマークの旗 デンマークコペンハーゲン国際空港
配偶者 ジビラ・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ
子女 マルガレータ王女
ビルギッタ王女
デジレ王女
クリスティーナ王女
カール16世グスタフ
父親 グスタフ6世アドルフ
母親 マルガレータ・アヴ・ストルブリタンニエン
テンプレートを表示

ヴェステルボッテン公爵グスタフ・アドルフ王子(スウェーデン語:Arvprins Gustaf Adolf, 全名:Gustaf Adolf Oscar Fredrik Arthur Edmund, 1906年4月22日1947年1月26日)は、スウェーデンの王族。

当時スコーネ公だったグスタフ・アドルフ王子(後のグスタフ6世アドルフ)とその最初の妃であったマルガレータの長男として、ストックホルム宮殿で誕生。現国王カール16世グスタフの父親にあたる。

ナチスとの関係[編集]

(左から)グスタフ・アドルフ、ゲーリング、祖父グスタフ5世国王(1939年、ベルリンにて)

近年の一部ジャーナリストや歴史家達は、グスタフ・アドルフが1930年代のナチス・ドイツにおける、ナチズムの台頭に同調的であったかのように主張している。グスタフ・アドルフがスウェーデンの公式代表として、アドルフ・ヒトラーヘルマン・ゲーリング[1]などといった多くのナチス党の幹部に会ったことは事実であるが、グスタフ・アドルフ自身は政治問題に関して話すことはほとんどなく、上述のような事実を証明する書類も全く残さなかったため、これらの主張は現在でも推測の域を出ていない。

だが、これらの説はグスタフ・アドルフのスウェーデン国内での不人気に繋がることとなり、大衆は彼を「ドイツの王子」と呼んだ。しかし、とあるジャーナリストが自著の中で、当時のスウェーデン国内の有力な反ナチス主義者達が書いた手紙や日記の記述内容や、ゲーリングの継子による、グスタフ・アドルフとゲーリングの間に確執があったという旨の証言から、上述の説は事実ではないとの反証を挙げている。また、当時の反ナチス主義の新聞も、同説を否定する内容の記事を掲載しており、スウェーデンの裁判所も、ナチスを擁護するいかなる認識も否定するとの声明を出している。

ボーイスカウト[編集]

グスタフ・アドルフはボーイスカウト活動に従事しており、成人してからはスカウトマスターとなった。活動中は、イギリスギルウェル・パークで木の葉章を授与されたこともあった。

スウェーデン国内でスカウト団体が創設された際は、初代総裁ならびにチーフスカウトに就任した。また、1937年の第5回世界スカウトジャンボリー1939年の第3回世界スカウトムートではスウェーデン派遣団の代表、1937年5月から亡くなるまでの間、世界スカウト機構の委員をそれぞれ務めた。

死去[編集]

ヴェステルボッテン公夫妻の墓

1947年1月26日に、狩猟オランダユリアナ王太子・ベルンハルト夫妻への訪問を終えて、オランダから母国スウェーデンに戻る途中、経由地であるデンマークコペンハーゲン国際空港で起きた航空事故により死去した。乗客乗員合わせて22人全員が死亡する惨事で、同機にはアカデミー賞にもノミネートされたことがあるアメリカの女優グレース・ムーアも搭乗していた。

グスタフ・アドルフは将来的に王太子及び国王の地位を継承する立場にあったことから、死去に伴い長男のカール・グスタフがその地位を継ぎ、1950年グスタフ6世アドルフが即位すると、わずか4歳で王太孫となった。

家族[編集]

1932年10月19日20日に、ドイツコーブルク又従妹であるザクセン=コーブルク=ゴータ家シビラと結婚し、間に1男4女をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ ゲーリング自身はスウェーデンに居住した経験があり、同国の上流階級の間に広い交友関係があった。