クレオメネス3世

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クレオメネス3世(希:Κλεομένης、英:Cleomenes III、紀元前260年-紀元前219年、在位:紀元前235年-紀元前222年)は、スパルタ末期のスパルタ王である。

略伝[編集]

クレオメネス3世はアギス4世を殺したレオニダス2世の息子である。しかし、その精神はアギスの理想を受け継ぐものであった。紀元前235年に即位し、始めは内政改革よりも外征を重視して、かつてアギスが失敗した内政改革の野心を隠す。紀元前227年に改革に着手し、土地の再分配を実施。紀元前223年、外征にて、メガロポリスを占領。紀元前222年、クレオメネス戦争でのセラシアの戦いアンティゴノス2世率いるマケドニアアカイア同盟連合軍に敗退。のち、エジプトへ亡命する。プトレマイオス3世は庇護を与えたが、次代のプトレマイオス4世は暗君で、クレオメネスは逃亡を図り失敗し、自刃する。

生涯[編集]

アギスが死ぬと、その弟アルキダモスはいち早く国外に逃げた。しかし、アギスの妻アギアティスは、幼児を抱えたまま邸に残っていた。レオニダスはこれを捕まえ、自分の息子クレオメネスと一緒にさせた。アギアティスの父ギュリッポスは莫大な資産家で、その遺産が期待できた。また、アギアティスは、容姿といい性格といい、当時のギリシア水準を遥かに越えていた。
この無法な結婚を前に、アギアティスが試みた愁訴は市民の語り草となっている。しかし、クレオメネスは立派な若者なので、レオニダスを憎む気持ちはありながらも、彼女はこの夫に仕えた。また、この若者も、妻を通して聞くアギスの評判に惹かれた。
国家の現状はというと、市民達は快楽と無関心に走り、王は贅沢に心を溺れさせていた。クレオメネスはかつて、ボリュステネス哲学者スファイロスの講義を受けた事があった。この人は、ストア学派の始祖ゼノンの直弟子である。
レオニダスは亡くなり、クレオメネスが王位を継承した。富裕者をよそに、大衆は一家の生計さえ成り立たないような有り様だった。少年時代の王の愛護者クセナレスが側近になったので、王はアギスの改革をしつこく問い質した。
話を聞くにつれ、クレオメネスは感動を深め、異常な興奮を覚えた。しかし、クセナレスも、政権を掌握する監督官の仲間であった。そして、王の興味を非難し、関係を断ってしまった。
クレオメネスは、親しいクセナレスさえこうだから、ほかの貴族はみな同じと考えた。そして、ひとりで構想を練った。出した結論は、平和時よりも戦争状態の方が改革にふさわしいというものだった。
当時、アカイア同盟の代表者であるアラトスは、全ギリシア統一を目指していた。それに抵抗する勢力が、スパルタ、エリスであった。アラトスは、スパルタ贔屓の国々を侵略して、挑発していた。
クレオメネスは連戦連勝を重ねて、アカイア同盟諸国をスパルタ寄りに改宗した。パランティオン戦では、2万の敵に対して5千の兵で勝利した。
戦勝後、クレオメネスは改革に取り掛かった。義父メギストヌス、ならびに何人かの側近を味方に付けた。
クレオメネスは、反対勢力と目される人々を連れて遠征に出かけた。そして、ひっきりなしに転戦したので、件の連中はアルカディア残留を申し出た。それを容れ、駐留軍として残したまま、クレオメネスはスパルタに帰還した。
帰るなり、クレオメネスは監督官らの食事時を襲った。エウリュクレイダスが先駆けとなり、テリュキオンフォイビスらが続いた。
監督官の一人アギュライオスは斬られながら、「恐れ」の神殿に逃げ込んだ。残る四人の監督官、ならびに配下の十人が斬り殺された。クレオメネスは、無抵抗の者には危害を加えなかったし、アギュライオスほか、望む者には亡命を許した。
夜明け後、クレオメネスは八十名の者を国外追放にした後、演説をした。
リュクルゴスは、二人の王と長老会議員が連携するものと定めた。これでうまく行ったが、対メッセニア戦争が長引くと、二人の王は遠征にかかり切りの身となったので、監督官という代理人を置いた。彼らは、最初は王の下役であったが、知らぬ間に権限を拡張させてしまった。監督官が王を招くと、三度目に王が答えるというような迂遠な儀礼まで作った。最初に権限を拡張したのは、アステロポスである。
やがて監督官は増長して、王を追放したり、裁判ぬきで殺したりするようになった。
外部から持ち込まれたラケダイモンの禍い、例えば奢侈、浪費、債権、債務などを、血を流す事なく取り除く事が出来たなら、私はそうしただろう。しかし、それが不可能なのは、かのリュクルゴスが証明してくれる。彼でさえ、血を見る事なしには改革は不可能だったのである」
演説後、クレオメネスは、自分の財産、義父の財産、側近の財産を公共のものとし、全市民に土地を再分配した。定数不足には、ペリオイコイの優秀な者を補填し、軍事教練を一新した。体育館や共同食事の風習を復活させ、大多数の市民は質素な生活習慣を回復した。そして、一人支配を避ける為に、弟エウクレイダスを共同統治者の王位に就けた。
クレオメネスは、内政に専心している隙を突かれるとの進言を受けて、先手を取って、メガレポリスを荒らした。そして、かの地で芝居見物を行って、余裕を見せた。何しろ、スパルタ軍だけが、軽業師、踊り娘、楽女といった従軍役者を連れなかったばかりか、出陣中でも、若者は訓練に、老人はその指導に余念がなかったのである。
クレオメネスは、全市民の手本となった。素朴で簡素で、他の誰をも上回る事のない服装をした。外国使節から見れば、クレオメネスは驚嘆の的であった。外套もなく、寝椅子もなく、取り次ぐ者もなく、もったいぶった様子もなく、クレオメネス自ら、じかに会ってくれる。王の尊大さに馴れた使者らは、クレオメネスの人柄に魅了されざるを得なかった。
アラトスは嫉妬に駆られて再起した。33年ものキャリアが、若造に覆される事が耐えられなかった。しかし、アカイア人らは、クレオメネスに惚れ込んで、もはやアラトスなど相手にしない。そこでアラトスは、不名誉にも、マケドニア王アンティゴノス3世をギリシアに招き入れ、マケドニア兵でギリシアを充満させようと画策した。
アラトス自身、若い頃、マケドニア兵をギリシアから追い払ったのだ。アンティゴノス3世の回想録に、「苦難と危険を甘受した」と書かせたのは彼なのだ。このように偉大で、の高い人でさえも、非の打ちどころのない立派さを、最後まで貫き通せないのかと、悲しみの念に駆られる。
アラトス、自分の息子を人質に差し出して、マケドニア王アンティゴノスを説得。さらに、コリントスの譲渡を約束。
クレオメネスとアンティゴノスとの、一進一退の攻防。クレオメネス、コリントスからアルゴスへ撤退。さらに、スパルタへ撤退。
アンティゴノス、スパルタを占領。しかし、マケドニア情勢が悪く、三日で帰還。クレオメネス、エジプトへ亡命。
クレオメネスはエジプト宮廷で軟禁状態に置かれた。まだ、希望はあった。ところが、宮廷におけるクレオメネスの友人で、王と同名のプトレマイオスという者が去りがてら、ぼんやりするなと護衛の者を注意した。送ったクレオメネスは、これを自分を警戒するものと誤解した。
国王プトレマイオスの旅行に先立ち、クレオメネスと側近たちは、自分達は釈放されるという噂を屋敷の番人らにばら撒いた。さらに、外で祝儀物をこしらえて、王からクレオメネスに贈られたものだと偽った。そして、宴会を催し、番兵たちを酔わして、十三の側近とともに抜き身を持って逃走した。
近くに牢獄があって、クレオメネスはそこを占拠し、囚人を解放して、帰国の手助けをさせるつもりだった。ところが、先手を取られて、守備は万端であった。
もはやここまでと観念した一行は、互いに刺し違えて死んだ。まずヒッピタスが若い人の手を望み、クレオメネスも死に、最後に若いパンテウスがクレオメネスを見取って自刃した。
全容を知ったプトレマイオス王は、クレオメネスの遺体を革袋に入れ、その母親や側仕えの者の殺害をも命じた。
母クラテシクレイアは気丈に、刑場に引かれて行った。そして、真っ先に殺される事を願ったが、子供達を先に殺された。側仕えの中に、パンテウスの妻がいた。美貌は並ぶ者なく、誰よりも若く、夫との愛情も強く、親に閉じ込められていたのを押し切って、夫を追ってエジプトにまで来たのだった。彼女がクラテシクレイアの手を引き、衣服を整えた。側仕えの女たちの死後の身支度を整え、そして、自分は最後に息を引き取った。

出典[編集]

外部リンク[編集]


先代:
レオニダス2世
スパルタ王(アギス朝)
紀元前235年 - 紀元前222年
次代:
アゲシポリス3世