ゴールコンダ王国
ゴールコンダ王国 (- おうこく、Golconda Sultanate)とは、16世紀初頭から17世紀末にかけて、インド、デカン地方に存在した、バフマニー朝が分裂してできたムスリム5王国のひとつであるイスラーム王朝。クトゥブ・シャーヒー朝(Qutb Shahi dynasty) とも呼ばれる。首都はゴールコンダ、ハイダラーバード。
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歴史 [編集]
建国 [編集]
デカン高原一帯を支配したバフマニー朝、その13代目の王ムハンマド・シャー3世の統治期(1463年)に、テランガナ地方で問題が発生したためクリー・クトゥブ・アルムルクが同地方の総督として派遣された。クリー・クトゥブ・アルムルクは、続くムハンマド・シャー4世からも幾つかの称号を授けられ、バフマニー朝の宰相となった。
1518年、彼は独立を宣言してゴールコンダ王国をうちたてた。そして、王国の首都をゴールコンダに定め、カーカティーヤ朝期の古ぼけた泥の砦を強固な石のゴールコンダ要塞都市として再造営した。彼の後継者もその事業を受け継ぎ、数多くの強固な増築がなされた。
内乱 [編集]
クリー・クトゥブ・アルムルクは1543年にジャムシェード・クリー・クトゥブ・シャー(在位1543年 - 1550年)に殺害された。しかし、1550年ジャムシェードが死ぬと、その息子スブハーン・クリー・クトゥブ・シャー(在位1550年)はヴィジャヤナガル王国に亡命していたジャムシェードの弟イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー(在位1550年 - 1580年)に討たれた。
最盛期 [編集]
16世紀後半ヴィジャヤナガル王国が圧迫してくると、イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーはほかのムスリム5王国と同盟し、1565年ヴィジャヤナガル王国軍をターリコータの戦いで撃破した。
1580年イブラーヒームが死ぬと、息子のムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー(在位1580年 - 1612年)が王となった。この王の治世下は、長らく平和で繁栄に満ちたものである一方、衰退するヴィジャヤナガル王国の領土にもたびたび侵入した。まさに、ゴールコンダ王国の絶頂期をもたらした王とされる。
1589年、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーは、ハイダラーバードの南を流れるムシ川周辺が豊かな緑に覆われた土地であることに目をつけ、そこをゴールコンダ王国の王都に定めた。有名な言い伝えによると、そこにはチチェラムという村が存在したが(チャール・ミナールがあるあたり)、彼はこの新しい王都の名を、愛してやまなかった美しい踊り子であるバーグマティーにちなんで、バーグナガルと命名した。王からのこの贈り物に驚いた彼女は、ムスリムに改宗して、自身の名をハイダル・マハルという以前と全く異なるムスリム名に改めた。しかし、王はめげることなく王都の名をハイダラーバード(すなわち「ハイダルの町」)と改めてしまった。
1611年に王が没すると、甥のスルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャー(在位1612年 - 1626年)が王座を引き継ぎ、1614年にヴィジャヤナガル王ヴェンカタ2世が死ぬと、彼は王族間の内乱にも介入するなど、ヴィジャヤナガル王国に対しての圧迫を強めている(トップールの戦いなど)。
衰退と滅亡 [編集]
1626年にスルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャーが没すると、ムガル帝国の圧迫によりゴールコンダ王国は徐々に衰退へと向っていくが、滅亡までにはさらに60年の歳月を要し、二人の王-アブドゥッラー・クトゥブ・シャー(在位1626年-1672年)(スルタン・ムハンマドの息子)、およびアブル・ハッサン・クトゥブ・シャー(在位1672年-1687年)(アブドゥッラーの娘婿であり、そしてゴールコンダ王国初代の従兄弟の曾孫)がこの王国の末期を飾った。
ムガル帝国の版図拡大政策により、1687年ゴールコンダ王国はアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃をうけた。ゴールコンダ王国軍は、難攻不落のゴールコンダ要塞に篭城して、長期にわたる包囲攻城戦をよく持ちこたえていた。しかし、アフガニスタン戦士アブドゥッラー・ハーンの裏切りにより戦局は一転。彼は遠征軍に内通し、同年(1687年)9月21日早朝に、守備兵員が手薄となっていたキールキー城門から、密かにムガル帝国軍を迎え入れた。ゴールコンダ王国守備軍は、完全に無防備を襲われ、防御線を瞬く間に破られてしまう。かくしてゴールコンダ要塞は、この年ついにアウラングゼーブ帝遠征軍のまえに陥落する。これは、同時にゴールコンダ王国の崩壊でもあった。
王たちの偉業 [編集]
ゴールコンダ王国の統治期は、アーンドラ・プラデーシュ州における建築および芸術の黄金時代であった。歴代ゴールコンダ王国の王たちは偉大な建築家であり、また建設をこよなく愛していた。彼らの統治期に、数え切れない宮殿や邸宅(後のムガル帝国遠征軍により徹底的に破壊され、灰燼と帰したが)、壮麗なモスク、そして数えきれないほどの湖や溜池が造営された。これらは18世紀に帝国から独立したニザーム王国のもとで活躍した。
また王国中葉の王は、アーンドラ・プラデーシュ州の在来言語であるテルグ語を保護し、教養階級の公用語であったアラビア語、ペルシア語、およびウルドゥー語と同様に奨励したことでも知られる。
歴代君主 [編集]
- クリー・クトゥブ・アルムルク(在位1518年 - 1543年)
- ジャムシェード・クリー・クトゥブ・シャー(在位1543年 - 1550年)
- スブハーン・クリー・クトゥブ・シャー(在位1550年)
- イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー(在位1550年 - 1580年)
- ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー(在位1580年 - 1612年)
- スルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャー(在位1612年 - 1626年)
- アブドゥッラー・クトゥブ・シャー(在位1626年 - 1672年)
- アブル・ハッサン・クトゥブ・シャー(在位1672年 - 1699年)
関連項目 [編集]
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