クチビハール

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クーチ・ビハール市(インド)南方の状況。地図は東を上にしており、右(南)がバングラデシュ(緑)、左(北)がインド(橙)。

インド・バングラデシュ国境の飛地群(Indo-Bangladesh enclaves)は、インド西ベンガル州クーチ・ビハール県)とバングラデシュラジシャヒ管区)との国境線をまたいで散在する双方の飛地。入り組んだ国境線に加え、非常に多くの飛地が互いの領土内に存在することで、錯綜した状況になっている。

この一帯の総称はないが、日本にはインド側の県名を採り、クチビハール(Cooch Behar, Koch Bihar)の名で紹介されている[1]

概要[編集]

1960年代に米軍が作成した地図。南がバングラデシュ、北東がインド

インドの西ベンガル州クーチ・ビハール県とバングラデシュのラジシャヒ管区の国境地帯にあり、インド領内にバングラデシュの飛び地が95ヶ所、バングラデシュ領内にインドの飛び地が129ヶ所存在する。そのうち24ヶ所は飛び地の中の飛び地であり、更に「飛び地の中の飛び地の中の飛び地」(en:Dahala Khagrabari)という複雑な場所や、面積わずか50平方メートルという世界最小の飛び地が存在する[1]

境界線を自由に行き来することはできず、面倒な申請手続きを要する。そのため、飛び地内では行政サービスや生活インフラに支障を来たしている。 国勢調査も行われておらず、両国政府は飛び地内に何人が暮らしているのかを正確に把握していない(飛び地全体で2万~150万人とも、または6万5千~7万人とも言われている) [1]

国境を跨いだ電線の敷設が出来ないため電気が行き渡らず、これといった産業もないため、飛び地の住人は細々とした農業や牧畜で生計を立てている。 また、警察の監視も及んでいないため、山賊被害や、ヒンドゥー教とイスラム教の違いから来る近隣住民同士の諍いなどの問題も起こっており、飛び地に住むヒンドゥー教徒がインド本土に移住する例も多い[1]

歴史[編集]

17世紀頃、この一帯を支配していたクチビハール王国と、インド東部へと勢力を拡大しつつあったムガール帝国との間で領土の奪い合いが発生した。ムガール帝国はクチビハール王国の領土の一部を占領したものの、王国に帰順する地方領主は占領地を譲らず居座りつづけた。その後、ムガール帝国側に属していた兵士達がクチビハール王国側の領土の一部を占拠し、ムガール帝国に帰順した。こうして生まれた複雑な境界線が、今日のクチビハールの国境線の起源である[1]

インドがイギリスによって征服されイギリス領インド帝国となった時、これら一帯はイギリス直轄領の東ベンガル州であるかクチビハール藩王国領であるかという違いしかなかったため、往来することに特に差し支えはなかった。しかし、1947年イギリスからインドパキスタンが独立した際、 ヒンドゥー教徒の多いクチビハール藩王国領はインドに、イスラム教徒の多かった東ベンガル州は東パキスタンとしてパキスタンの一部に属することとなったため、かつての境界線が国境線に引き継がれ、多数の飛び地が生み出されることとなった[1]

その後、言語民族も異なり、政治の中枢も西パキスタン側に握られていた東パキスタンは、インドの支援を得て1971年バングラデシュ独立戦争を起こし、バングラデシュとして独立を果たした。クチビハール一帯の東パキスタン領も、飛び地のままバングラデシュ領として今日に至っている[1]

1950年代以降、インドとパキスタン政府(バングラデシュ独立後はバングラデシュ政府)は、このあまりに不便な飛び地の状況を改善しようと、交渉を続けた。 1950年に飛び地への役人や警察官の立ち入り、生活必需品の輸送についての規定が定められたが、両国政府の緊張の激化に伴い、 1~2年でこの規定は実行出来ない状態となった。その後、1957年にインドとパキスタンの間で、飛び地付近での週2日の国境貿易が認められるようになったが、そもそも飛び地の中に相手国の領事館などがなくビザもパスポートも取得できなかったため、飛び地から合法的に越境することができず、住民は国境警備隊に射殺されるなどの危険を冒して違法越境せざるを得ない状態におかれた[1]

1958年にはインドとパキスタン政府の間で領土交換が合意されたが、飛び地の住民の反対と、インド最高裁が領土交換には憲法改正が必要との判断を下したため、実行されなかった。1974年にもインドとバングラデシュ政府の間で再び領土交換が合意されたが、インド側の面積が29km2あまり減る内容であったため、インドの国会で野党に反対され、これも実行されなかった。1980年には、違法越境を減らすために飛び地がフェンスで囲まれたため貿易量が減り、飛び地の住人はさらなる貧困に晒された[1]

1996年に、1974年と1982年に合意された協定に基づいてバングラデシュ領の最大の飛び地に本土との回廊(ティン・ビガ回廊英語版)が設けられたが、回廊設置に反対する住人同士の衝突により犠牲者が出たほか、回廊そのものも8時間置きにインド人とバングラデシュ人の往来を切り替える方式であったため、あまり便利なものとは言えなかった。また、住人によっては回廊の設置によって近所のインド領に行く許可が降りなくなり、回廊を通って遠くのバングラデシュ領に行かなければならなくなるなど、却って不便が増すケースすら発生した[1]

2011年9月、両国政府は領土の整理交換と、飛び地に設けられている回廊の通行許可時間の延長、及び交換される飛び地の住人が国籍を選択できるようにする協定に合意した[2]。インド側は計7,110エーカー(約28.77km2)・51箇所の飛び地を獲得し、バングラデシュ側は計17,149エーカー(約69.4km2)・111箇所の飛び地を獲得する予定である[3]。 インド側は2013年8月に、条約を批准するための憲法改正案を議会に提出することを計画しており[4]、バングラデシュ側は既に条約を批准している[5]

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  1. ^ a b c d e f g h i j 吉田一郎、2006、『世界飛び地大全―不思議な国境線の舞台裏』、社会評論社
  2. ^ India-Bangladesh sign pact on border demarcation”. 2012年4月21日閲覧。
  3. ^ Proposed enclave exchange with Bangladesh will be national loss: BJP”. Daily News (2013年5月11日). 2013年8月17日閲覧。
  4. ^ Bagchi, Indrani (2013年8月15日). “India-Bangladesh border pact constitutional amendment bill to be tabled in Parliament next week”. Times of India. 2013年8月17日閲覧。
  5. ^ Chakrabarty, Rakhi (2013年8月15日). “Mahanta canvassing support to stall exchange of enclaves bill in Parliament”. Times of India. 2013年8月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]