ギュンター・シャボウスキー

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東ドイツの旗 東ドイツの政治家
ギュンター・シャボウスキー
Günter Schabowski
Bundesarchiv Bild 183-1982-0504-421, Günter Schabowski.jpg
SED中央委員時代のギュンター・シャボウスキー(1982年)
生年月日 1929年1月4日(85歳)
出生地 ドイツの旗 ドイツ国フォアポンメルン州アンクラムドイツ語版
出身校 ライプツィヒ大学
所属政党 ドイツ社会主義統一党
称号 カール・マルクス勲章
配偶者 イリーナ・シャボウスキー

任期 1981年 - 1990年1月11日

その他の職歴
SED Logo.svgドイツ社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記
1985年 - 1989年
SED Logo.svgドイツ社会主義統一党中央委員会政治局
1984年5月24日 - 1989年12月3日
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ギュンター・シャボウスキードイツ語: Günter Schabowski, 1929年1月4日 - ) は元東ドイツドイツ社会主義統一党(SED)の政治家ジャーナリスト

ベルリンの壁崩壊のきっかけを作った人物として知られる。

プロフィール[編集]

東ベルリンでの反政府デモに集まった群衆に向かって演説するシャボウスキー(1989年11月4日)

ドイツ東北部フォアポンメルン州生まれ。ライプツィヒ大学でジャーナリズムを専攻した後、労働組合の機関誌の編集の仕事に就いた。1952年に東ドイツのドイツ社会主義統一党の党員となっている。1978年には東ドイツにおいて最も有名な新聞であった社会主義統一党の機関紙ノイエス・ドイチュラントドイツ語版(Neues Deutschland,「新しいドイツ」の意味)の編集長の職に就く。1981年に彼はSEDの中央委員会の委員および人民議会議員となった。続いて1984年5月の中央委員会でSED中央委員会政治局員に昇格、翌1985年にはSEDベルリン地区委員会第一書記となり、首都東ベルリンにおける責任者となる。シャボウスキーはエーリッヒ・ホーネッカー政権のナンバー2だったエゴン・クレンツ(政治局員、治安・青年問題担当書記、国家評議会副議長)やハンス・モドロウ(SEDドレスデン地区委員会第一書記。後の首相)と共に将来の党書記長候補の一人に挙げられる有力政治家であった[1]。党の指導者たちに認められていた特権を、この頃の彼およびその家族が乱用したとして非難する向きも存在する。

1989年10月のエーリッヒ・ホーネッカー書記長失脚の際には、エゴン・クレンツらと共にホーネッカーの失脚工作を行った[2]。また11月4日の東ベルリンでの大規模デモの際には群衆に応対するなど、党のスポークスマン役としてマスコミや在野勢力との応対にもあたっている[3]

ベルリンの壁崩壊[編集]

シャボウスキーらが出国の自由化を発表した記者会見の様子(1989年11月9日)

東欧民主化革命の混乱の中、1989年11月9日、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内及び世界向けに放送された生放送での記者会見で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する。しかし、混乱の中、ドイツ社会主義統一党書記長 (当時) エゴン・クレンツから渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボウスキーは一知半解のまま「11月10日からの旅行許可に関する出国規制緩和」だったのを「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまう。さらに記者から「(この政令は)いつから発効するのか?」との質問に対して、政令の発効期日を伝えられていなかったシャボウスキー[4]は政令に書かれていた「直ちに発効する」「遅滞なく」という文言に従い「私の認識では『直ちに、遅滞なく』です。」と発言してしまった[5][6][7]。これが引き金となり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到し、ベルリンの壁崩壊へと至り、ドイツ再統一に結びついた。

結局、クレンツやシャボウスキーらも国民やSED党員の反発を受けて1989年の12月には退陣に追い込まれ、1990年初頭にはシャボウスキーは民主社会党(PDS)へと衣替えしたSEDから除名された。

ドイツ再統一後[編集]

ギュンター・シャボウスキー(2007年)

ドイツ再統一後、彼は東ドイツ時代の自身を含めた政治局員の行動に、そしてマルクス・レーニン主義に対して批判的となった。1992年から1999年の期間には地方の新聞の編集の仕事についていたが、現在では再びジャーナリストの職についている。彼がキリスト教民主同盟の選挙キャンペーンに参加したことについては、彼の過去の同僚から変節漢として批判を浴びた。

1997年8月に亡命者殺害の容疑で有罪となるが、道義的責任を認めたという態度が考慮され懲役3年の刑が宣告される。1999年12月より2000年12月まで収監されるが残りの刑期は免除されている。

脚注[編集]

  1. ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P29
  2. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P10-16
  3. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P23-24
  4. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P25
  5. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24
  6. ^ マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P275-277
  7. ^ なお、この記者会見の時点では政令案はSEDの党内では承認されていたが、閣僚評議会(内閣)ではまだ承認されておらず、正式な政令にすらなっていなかった。(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24-P25)

関連項目[編集]