ギュンター・シャボウスキー

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SED中央委員時代のギュンター・シャボウスキー(1982年)

ギュンター・シャボウスキードイツ語: Günter Schabowski, 1929年1月4日 - ) は元東ドイツドイツ社会主義統一党(SED)の政治家ジャーナリスト

ベルリンの壁崩壊のきっかけを作った人物として知られる。

プロフィール[編集]

東ベルリンでの反政府デモに集まった群衆に向かって演説するシャボウスキー(1989年11月4日)

ドイツ東北部メクレンブルク州生まれ。ライプツィヒでジャーナリズムを専攻した後、労働組合の機関誌の編集の仕事に就いた。1952年に東ドイツのドイツ社会主義統一党の党員となっている。1978年には東ドイツにおいて最も有名な新聞であった社会主義統一党の機関紙Neues Deutschland (ノイエス・ドイチュラント 「新しいドイツ」の意味)の編集長の職に就く。1981年に彼はSEDの中央委員会の委員となり、続いて1985年にSEDベルリン地区委員会第一書記およびSED政治局員に昇格。党の指導者たちに認められていた特権を、この頃の彼およびその家族が乱用したとして非難する向きも存在する。

1989年10月のエーリッヒ・ホーネッカー書記長失脚の際には、エゴン・クレンツらと共にホーネッカーの失脚工作を行った[1]。また11月4日の東ベルリンでの大規模デモの際には群衆に応対するなど、党のスポークスマン役としてマスコミや在野勢力との応対にもあたっている[2]

ベルリンの壁崩壊[編集]

シャボウスキーらが出国の自由化を発表した記者会見の様子(1989年11月9日)

東欧民主化革命の混乱の中、1989年11月9日、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内及び世界向けに放送された生放送での記者会見で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する。しかし、混乱の中、ドイツ社会主義統一党書記長 (当時) エゴン・クレンツから渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボウスキーは一知半解のまま「11月10日から、ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国に関する規制緩和」だったのを「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまう。さらに記者から「(この政令は)いつから発効するのか?」との質問に対して、「私の認識では直ちにです。」と発言してしまった。これが引き金となり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到し、ベルリンの壁崩壊へと至り、ドイツ再統一に結びついた。

その後シャボウスキーは民主社会党(PDS)へと衣替えしたSEDから除名された。

ドイツ再統一後[編集]

ギュンター・シャボウスキー(2007年)

ドイツ再統一後、彼は東ドイツ時代の自身を含めた政治局員の行動に、そしてマルクス・レーニン主義に対して批判的となった。1992年から1999年の期間には地方の新聞の編集の仕事についていたが、現在では再びジャーナリストの職についている。彼がキリスト教民主同盟の選挙キャンペーンに参加したことについては、彼の過去の同僚から変節漢として批判を浴びた。

1997年8月に亡命者殺害の容疑で有罪となるが、道義的責任を認めたという態度が考慮され懲役3年の刑が宣告される。1999年12月より2000年12月まで収監されるが残りの刑期は免除されている。

脚注[編集]

  1. ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P10-16
  2. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P23-24

関連項目[編集]