ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ギャネンドラ
ज्ञानेन्द्र
ネパール国王
Gyanendra 01.jpg
退位後のギャネンドラ(2012年)
在位 1950年11月7日 - 1951年1月8日
2001年6月4日 - 2008年5月28日
全名 ज्ञानेन्द्र वीर बिक्रम शाहदेव
ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴ
出生 1947年7月7日(67歳)
ネパールの旗 ネパールカトマンズ
配偶者 コマル
子女 パラス
プレラナ
王朝 シャー王朝
父親 マヘンドラ
母親 インドラ
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴネパール語: ज्ञानेन्द्र वीर बिक्रम शाहदेव, ラテン文字転写: Gyanendra Bir Bikram Shah Dev1947年7月7日 - )は、第12代ネパールシャー王朝国王2001年6月4日に甥ディペンドラの跡を継ぎ王位に即いたが、2008年5月28日にネパールが共和制へ移行したことに伴って退位した。第9代ネパール国王マヘンドラの次男。

経歴[編集]

最初の即位[編集]

1950年11月、祖父トリブバン国王は父や兄を連れてインド亡命した。取り残されたギャネンドラはラナ宰相家によって国王に祭り上げられた。しかしインドなどがこの即位を認めず、トリブバンが翌年2月に帰国して復位し、ギャネンドラは廃位された(ネパールの王政復古)。

王弟時代[編集]

1972年、父マヘンドラが死去し兄ビレンドラが国王に即位すると、王弟として兄の名代などを務めるようになった。1989年2月、国王の名代として昭和天皇大喪の礼に参列している。

摂政就任[編集]

2001年6月1日ネパール王族殺害事件でビレンドラが殺害されると、甥の王太子ディペンドラは意識不明のまま国王に即位し、地方にいて難を逃れたギャネンドラが摂政となった。

復位[編集]

6月4日、ディペンドラ国王の死去に伴って即位した。ギャネンドラが事件当日不在だったことや、彼の家族が事件現場にいたにもかかわらず全員無事だったことなど不審な部分も多く、事件は「親印派のギャネンドラがアメリカインドの後押しを受けて、親派のビレンドラ及びディペンドラらを抹殺した宮廷クーデター」との見方もあった [1]が、直接統治後には反印的政策、中国からの武器購入、チベット難民事務所閉鎖・追放などチベット独立派の弾圧を行った。

ギャネンドラは兄ビレンドラが唱えていた民主化に最後まで強硬に反対していた上、もともと国民に不人気であった。さらに長男のパラス麻薬常習者との噂があり、また自動車によるひき逃げ事件を起こしたりするなど不祥事を多く起こしており、国民に嫌われていることもその一因と言われる[要出典]

2002年5月下院を解散、同年10月シェル・バハドゥール・デウバを首相職から解任。その後、親王室派のロケンドラ・バハドゥール・チャンド及びスリア・バハドゥール・タパを首相に任命して事実上の親政を行った。

2004年6月、国王の行動に対する抗議デモが強まったことを受けてデウバを再び首相に任命するが、2005年2月、再びデウバ内閣の全閣僚を解任し、直接統治を宣言した。

民主化運動[編集]

この国王の行動に対してネパールの主要7政党(7党連合)および毛沢東派は各地で抗議デモゼネラル・ストライキを展開した(ロクタントラ・アンドラン)。緊迫した情勢が続いていたが、国際社会の圧力を受けて国王は2006年4月21日、直接統治を断念して国民に権力を返還することを発表し、7党連合に首相推薦を要請した。しかし、政党側は国王が新憲法制定など政党側の要求に言及していないなどとしてデモを継続。

国王は4月24日、解散した下院議会を復活すると表明、政党側もこれを受け入れ、混乱は収拾されることになった。政党側はネパール会議派ギリジャ・プラサド・コイララを首相に推薦、4月27日、新政権が発足した。

2007年1月15日ネパール会議派ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)などが参加する議会により、暫定憲法が制定され、国王の政治的権力は、元首の地位も含めてほぼ完全に剥奪された(首相が元首を代行した)。また国軍の最高指揮権も国王から首相に移り、国号もネパール王国から単にネパールとなった。これにより、ネパールの王族支配は実質的に終結し、国王の地位はまったく形式的なものとなった。

王制廃止[編集]

2008年5月28日ネパール制憲議会共和制を採択し、王制廃止が正式に確定した。ギャネンドラは廃位となり、カトマンズのナラヤンヒティ王宮を去るよう求められ、6月11日夜に妻コマルと共に退去した。退去に際して「国民の判断を尊重し、王政廃止を受け入れる。亡命はしない」とし、王族殺害事件への関与を改めて否定した。また、2005年の国王による直接統治について「良かれと思ってやったが裏目に出た」とコメントした。退去後は、住むところがないと訴えたギャネンドラに対して政府はすでに国有財産に移ったカトマンズ盆地北西の森林にあるかつて国王が別邸として使用していたナガルジュン離宮に数ヶ月間滞在できるよう許可し、現在も貸与されている。君主制が廃止された後は、広義の王位請求者に含まれることもある。

また、王政廃止を主導したマオイスト議長のプラチャンダは、不動産ホテル園業を営む実業家で個人資産数十億ドルの富豪であるギャネンドラに対して、国内に投資して雇用の創出をしてほしいとしている。また、プラチャンダは政党を造って政界に進出しても構わないと話すなど、特権は与えないが一市民として最大限の配慮を見せている。

また今後は、ナラヤンヒティ王宮は国立博物館として公開される予定である。ギャネンドラは代々伝わる王冠や笏などの宝物を展示用に寄贈した。なお、ギャネンドラの継母と祖父トリブバンの側室はこれまで通りにナラヤンヒティ王宮の敷地内で生活をしている。

引用[編集]

  1. ^ 『新潮45』2001年12月号「ネパール国王暗殺の真相と『毛沢東の息子たち』」

参考文献[編集]