ギニア (地域)

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1736年頃の西アフリカの地図では「イギリス帝国ネーデルラント連邦共和国デンマーク王国等に属する」と説明されている。

ギニアGuinea)とは、ギニア湾沿いのアフリカを表す伝統的な地域名である。北のサヘルに至るまでの熱帯雨林地域を主に指す。

歴史[編集]

歴史的にギニアはヨーロッパとの交易を初めて行ったサブサハラアフリカであった。

第二次カスティーリャ継承戦争英語版中の1478年エルミナの近海でギニアの海戦英語版カスティーリャ王国アルマダポルトガル王国フリゲート艦がギニアでの奴隷象牙胡椒の貿易の覇権をめぐって行われた。この戦いはポルトガル軍の勝利に終わり、翌1479年アルサソヴァス条約英語版にてカトリック両王に係争地域のほぼ全域のポルトガルの統治権を認めさせた[1][2]この戦争はヨーロッパ同士での初めての植民地戦争であった。その後はネーデルラント連邦共和国フランス王国イギリス帝国がこの地に参画してきた。

象牙や金、奴隷の貿易が発展していくにつれ、この地域は潤い、18世紀から19世紀にかけて複数の中央集権王国が発展していった。これらの国家は広く開けたサヘルから見れば小さい領域を有すのみではあったが高い人口密度を有していた。そして貿易によって、より集中が進み、より文明的にも発展していった。これらの王国の過密はヨーロッパの侵入に対して、アフリカの他の地域に於ける侵入に比してより大きな抵抗を呈させた。その抵抗は感染症に免疫のないヨーロッパ人への感染と結びつき、19世紀末まで植民地化を免れる事が出来た。

地域[編集]

ギニア地域は下ギニアw:Lower Guinea)と上ギニアw:Upper Guinea)に分けられる事もある。下ギニアはアフリカでも有数の人口集中地帯で、ナイジェリアの南部、ベニントーゴガーナに相当する。上ギニアは海岸ギニアに比すると疎であり、コートジボワールからセネガルに相当する地域である。また、現在のギニア共和国国内ではLower Guineaの語は海岸ギニアを、Upper Guineaの語は高地ギニアを意味し、同国内の一部分を表す。

ヨーロッパの商人はこの地域を主要輸出品に基づいて分割していた。ベナン、ナイジェリア周辺の東側は奴隷海岸と呼ばれ、現在のガーナは後にイギリスの植民地の名前にもなった黄金海岸、その西側は国名にもなっている象牙海岸、リベリアシエラレオネ周辺は胡椒海岸あるいは穀物海岸と呼ばれていた。

語源[編集]

ギニアの語源は明らかでない。英語のGuinea(ギニー)はポルトガル語Guiné(ギネー)に由来し、これは15世紀半ばに、Guineusの住む土地と言う意味を持つ単語として初出している。Guineusセネガル川より先に居住する黒人と言う意味で一般的に当時用いられていた。ギニアの語は1453年ゴメス・アーネス・デ・ズララ英語版による年代記に使われており[3]、またジョアン2世1483年以降Senhor da Guiné(ギニア卿)の号を称している。ギニアという語は、ベルベル語Ghinawenアラビア語化されてGuinauhaGenewahとも)からポルトガル語に借用されたものではないかとされている。Ghinawenとは焼けた人々の意味である(エチオピアの語源にあたる古代ギリシャ語Αἰθίοψアイティオプスが「焼けた顔の」を意味するのに類似)[4]。ベルベル語のaginawあるいはAkal n-Iguinawen[5]の語はそれぞれ「黒い」・「黒人の土地」の意味を有している。

他の有力な論として、1526年レオ・アフリカヌスによって提唱された、ギニアの語がニジェール川沿いの都市であるジェンネに由来しているのではないかとする説がある[6]。ジェンネはガーナ帝国が崩壊した11世紀から、マリ帝国が侵入し交易路を破壊し、ジェンネの外れのそれまでは小さな都市であったトンブクトゥにその交易路を移した13世紀まで、西アフリカでの金と塩の貿易を占有していた。その時代にGenewahの語がアラビア語の文献に現れるようになった。その他にギニアとガーナを繋げようとする論もあるが、その可能性は低い。ガーナ帝国の名は、すでに11世紀地理学者であるアル・バクリー英語版によって言及されている中世の貿易都市であるガーナに由来するが、その語はアラビア語の文献上ではGenewahと区別されている[7]。逆に、ガーナとジェンネ自身が、そこに住む黒人に対してベルベル人がつけた呼称に由来する可能性もある。つまり、ベルベル語で黒人を意味するGhinawenがジェンネの由来であり、その後ジェネによって支配されている土地と言う意味でアラビア語のGenewahになり、それがさらにポルトガル語に輸入されてGuinéになった可能性がある[8]

属する国家[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 。歴史家のMalyn Newittは「しかし、1478年、ポルトガルが35のカスティーリャの船をミナ(ギアナ)から引き返させ、船と金とをダメにした事は驚きである。また...ユスターシュ・デ・ラ・フォース英語版によるミナへのカスティーリャの航海は妨げられたのだ...1480年に。...全てを考証に入れると、ポルトガルがこの「第一次海事戦争」によって戦勝国として台頭したのは不思議ではない。ポルトガルはカスティーリャに比して非常に良く編制した事は、来るべき時の為の金を持ってこさせ、フリゲート艦を用意させ、明確な中央政府の方向性を...(王子である)ジョアンによって行わせる事を可能にさせたのである。」 A history of Portuguese overseas expansion, 1400-1668, Routledge, New York, 2005, p.39,40.
  2. ^ Bailey W. Diffie and George D. Winius 「この戦争の最中ではカスティーリャが陸戦で勝ち、ポルトガルが海戦で勝っていた、...Foundations of the Portuguese empire 1415-1580, volume I, University of Minnesota Press, 1985, p.152.
  3. ^ 彼は自らの1453年のエンリケ航海王子の年代記を「Guineeの征服」と題した(e.g. p.1)。彼は西サハラの海岸を含む緩い意味合いでギニアの語を使っているが(p.153)、ギニアの語が正確にはセネガル川南岸に住むGuineusの土地のみを表す事を自ら記録している。
  4. ^ Rogado Quintino (1965) "O problema da origem dos termos «Guiné» e «Guinéus»", Boletim Cultural da Guiné portuguesa, vol. 20, no.78, p.117-45.
  5. ^ World Directory of Minorities and Indigenous Peoples - Guinea: Overview”. UNHCR. 2009年5月1日閲覧。
  6. ^ Leo Africanus (written 1526, pub.1550) The History and Description of Africa: and of the notable things therein p.79)
  7. ^ W. D. Cooley (1841) The Negroland of the Arabs examined and explainedp.20.
  8. ^ Cooley (1841) の提唱する理論では (p.18n)、 黒人ではなくジェンネがアラビア語のGenewahの由来であるとするが、その一方で(p.20n)、 ジェンネ自身がベルベル語のGhinawenに由来している可能性も考えられるとしている。

参考文献[編集]